第一八九号(昭一五・五・二九)
  職員健康保険と船員保険      保 険 院
  大北電信会社営業権の回収     逓 信 省
  砂糖とマッチの切符制実施     商 工 省
  重慶市民の窮乏状態        陸軍省情報部
  潜水艦の生活          海軍省海軍軍事普及部
  節米はいかにするか
  襄東作戦その後の経過       陸軍省情報部
  国民政府答礼使節の来朝      外務省情報部
  特別寄稿 二千六百年史抄(一五)  内閣情報部参与   菊池 寛

二千六百年史抄(十五) 内閣情報部参与 菊池ェ

 江戸幕府の衰亡

 江戸幕府は、三代将軍家光に至つて、あらゆる機構が整ひ、武家政治は完成された形を示したが、五代将軍綱吉に至つて、幕府の太平が謳歌される傍ら、綱吉の偏質的な性格や、生類憐憫令や、悪貨鋳造などからの影響もあつて、

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幹戸承斤一の褒亡
江鳥攫−三代輩影雀って盲ち普瀞欝率ひト武家政治は完成され蒜を示し
たが、五代壊軍綱音咋室つて、碁府の太卒が謳歌される傍ら彗Hの偏質的な牲格や、魂鮎蹴
つなよしおラかへんしり
野1、巌急封至から畑響雲て、太平の鞋陀る覇警義が天音郎肘レた完
入んげ‡●ち
針\そのために畢間、文薮、演劇、美術、商業なと、文他的な方南は凝達したが、勒固停凍の律・
▼てlち.く
義な武家梢紳は早くも凋落してし芝りたので卦る。
’し心I
モの後も廓劫が績い陀ので、幕府の政治的磯構は、生気を喪つてし訂つ池ので参る。侃モ八
よしむねよウのヌ′
代婦雲口宗は、紀州侯租宜の孫では参るが、・わづか三苗石の簡主から、・那射を酔写吏に賄軍に
なつただけに、天成の英才で参ると共に、下曙に温じ、家康創業の構紳を以て昇政の・猷腎風
かじや1−さうけふ
けlフせいたしだか
俗の矯正に努カし、足高の制(徒釆は、千石の者が、三千石の役高の撤に就くと、永久に三千石になウて
t山くばIt●,
しまふのむ、青宗は、鹿倣中だけ義二千石を給することにした.革府の財政の膨朕を防ぐと共に∵少織
」汀つ一て●
のh者を按推するためである。)
ち†すばこでんせいし
日安箱(投曹箱)の設起など、大いに善政を敷いた0
わいみやくちが
江戸幕府の命脈は、彼に依つて、延長されたに蓮ひないが、幕腑制度の本質内に含まれてゐる
−りりかん
∴秋陥は、如何ともすることが出衆なかつた。
ほl′けん
江戸幕僻の中心思想は、封建的農菜主義である。が、日本の土地の虜さは一定してゐるし、兵
革の技純も首年一日の如しで参るから、農産額などは、殆んど増さないので.参る。とれに反し
て、都市の発達に伴ふ泣世的な商栄は、哉達して行く一方で参る。
きモちや’にんしlい
これでは、土地朗有を基礎とする武士階級の経済カが、商発すなはち町人に支配され、その政
と−フ入・’ばんrん
治的位筐までが、動輯を凍すことは骨然で参る。幕府創設以水官年に足らヂして、熊澤巷山は、
しやくyんlれ
「今は、大小名とも倍銀が多からざるは稀なり」と云ってゐる。その倍銀は、主として大阪の町人
から借りたので参る。

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溜ん」町人に僧豊前に、髭達の如朽欝倍是から、小身芸士畑、甥剛島けな
拝たlと官号ん‡ん
ノ小し、種ケの内職づへもした。茨本の間では、町人から持参金切参る養子々箕つたゼした。
現在でも、経済カの倖はない軍備なゼは考へられないが、昔でも同じ事である。昔の武七は、
へいでい
千石につい三亨五人の兵を述れなければならない。平生から、それだけの人瀕とそれに必要な
伊んばム
武器とを用忠しなければならない。が武士が貪乏してしまふと、人々養ふことが出狙孝く漣る
†ろ
し、持つてゐる武菅手苧わけで拳る0郡掛dヤぜひとも人救を揃へなければならな小場合
やとひにんモく
は、傭人足を租ひわけで参る。
おんこふだいち〜だ1か・−
息舶譜代の家の子郎焦に取り閑まれた銀倉時代の武士と此べかと、幕鹿の武士壌は、もう武士
でなくなつてゐるわけで参る。.
孟にト彗収田周に尊達し音のだ0土地に固着して、牛兵牛農で武を掛つ普ころに、武.
はんのlノ
ほん〜や1てい甘ゆ1に−じやくモば土,にんこしiと
士の本傍が参つたので参る。土地を離れ、都曾に定住し、柔窮な側用人や腰元などに取増溝
ちrや’
かれてゐたのでは、知行取りで、今の耳級サラタI了ソと同℃で、もう武士ではをいので参
Iちrいつてりさか‘さして
る0だから、律義一徹なlニ河武士の子孫たる旗本八萬騎も、畢なる滑費階級として−幕貯の鹿手
萱とひになるだけで、も卜蒜ではをく頂っ芸をで誉0孟では、幕府の成信は地に熟盲
ゐしん
るばかりで参告
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勤旦息勉の勃輿
モ.】‡んわ’けきち’
其廃へ特って水て、、動鼻息想の桝郵と外交間壇とが、時代の激浪と⊥て、幕府に姐つす衰たの
で為′る0,
・いのちとさこく
椿局これが幕府の命取りになつたのだが、三代の家光の鋸圃以水官五十年の鞄打、世界の形
山野は一…襲してゐた。
.オルトかルせんく
鍋閑常時、ヲーそァバ資本主義は、葡萄牙人を先騒として粛洋の印度や支那や日本にカを伸し
しI†LT’シ′
て凍たが、今はすでに英固が葡萄牙を郷け、和蘭を燈して、兎洋貿易を狗占しようとして」支
か’入きつなよし
邪と交易し、南方から日本に浪らうとしてゐる。Xシヤは五代綱音時代にカムチ†ヅカを牧めた
ちしlおか
が、つひに我が千鳥列鳥を俊し、女帝カク,ナは日本語の研究をやらゼてゐたといふくらゐだか
・’かr
ら、北海道を手に入れようと窺ってゐたので参る。備蘭西革命も、イギクスの蕗業革命も、k
いへな。
メサカ.のフルトンの蕪汽船の発明も、十】代家帝の克政、革和、文化の頃で参る。
あんなん
世界の交通が大規横となつて、ヲーーッバ人・の東洋経沓が猛烈化し、フラソスの安南占領、イ
ギサスの印度攻略、阿片戦寧、−yヤの黒龍江地方の経沓等が行はれてゐた。かうして世界賓本
だみんむきほ
主義の汲は、東洋の一隅で釦岡の惰眠を貪つてゐる日本の周囲に、ひたくと押し寄ゼ陀ので

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・lワる0
幕肘維持の最大網日は、寄廿Pむ主筏と、.日本弧立宅義で参る。
幕W中心、賂軍絶封主義は、勅皇思想の勃輿によつて動格しょぅとしてゐるし、農業的鶴圃の
′ウ}にふきふて’
薇底によつて維持しょうとtた封祉的大土地朗布制度は、・今や世界商業賓本主義流入の急潮によ
つて、魂かさ・れてゐるので参るC
←んけいくhん‡.
元凍、動皇息想は固饅観念と聯紫してゐる町だ済、外固岡壇沌、骨然固家意誠を喚起させた。
だから固防臥想は勤盈息想と融合レ、図防論と食義とは抱合して、食皇嬢夷論とな軋齢では
は・)がふ
たlJばく
.村幕の大渾動となつて展閑するので参る。
大名の中でか擁憲の第一人者は、蒼の徳川郁耶でい軋永六年六月にアメリヵの提督ぺルリ
うち〆ふつと’けん
申軍艦四隻急Tゐで痛賀に入沌し、岡論ザ沸騰しやときに、大砲七志H汀を幕腑に叔じて世人を
繋かせた人で参る0だから水舟は食鼻梯夷論か申心地になつた。
ムう●よく‡●よく.くろム血
ぺルサの軍艦は、二隻は帆船でこ斐は風カと気力粂用の袖のだつ托。いはゆる黒船の砲凝や
††’がい
.黒憩はVホ那や如細銃を持ケ治岸響備の武士達を驚厳さぜた0
む碓卜
洋季町よつイ海外の事情を拳んでゐる者は、嬢夷の無謀を知っで開賂の意見を抱叶イゐた。
くトrん¢小.
輝遭襲山や首野意等はそれで、彼等虹官い開固の犠牲となつで徳州悪の手に≠れ托。
、」←.
安政元年ベルyは帯び哺賀に入港して、前年港出した埠商條約跡酢割の返答を求めた。柊に日
有に紳奈叶條約が締結され、下田及び酢畔竪蟄蕃場とし晶かれて、安竺年に堪米固
ていけつごし
rけいやう‥ちゆトrい
領革ハyスがヽ米開旗を鴇揚して下田に駐在した。同凹各には江戸、大匪、兵粛、新潟の川港
を臥くこ怠約され、同五年には、√ギ呈、;ヤ、オIeダ、フラソヌえ温商條働が絆ば
れ畑。蔓
.黎エハ年に臥横演、紳奈川、函飴の三港が開かれた。
かkして、外園を恐れた幕府は、錮固主義の本家でありながら、事なかれ政発のために開固し
てしaつたので参る0とにかも外交間壇は幕府打とつて教命傷となつた0固内は開固論と壌
ちめいしや▲フ
ムつと●’
夷論とで沸騰し陀。
併し、閑開論者といへども、幕府の態度を支持したのではなくて、曹初から進歩的な錮固排鞋
モんけんやj
論者で参つた。又接夷論者も、錮図主義的揺夷論でなくて、同家の南目を傷け、囲饅の食舷を毀
くじめいやくひふんかうがい
り、岡民の意気を挫く脅迫的開固、城下の盟約開圃に悲憤恢慨する食皇変岡的な犠夷論者であつ
せんだつヤうな人
陀。閑固論の大北撞と言はれる拭非小舶の如き町、その一人で参つた。尤も、中には到底不可能
きゆ,ヽつ
な構夷の資行を迫つて、幕府を窮地に追ひ許め、邦尉を切らゼようとする討幕戦術としての接
夷論老も参つた。

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。さみつなlむr†ちうし.
そしイ、モの間、島津久光の家凍が横演郊外の生奔でイギタス人を斬った乳浪士たちが品川
朴戯舶の外同公使館を焼いた軋イギサス糖が下閲や鹿兄島を確撃したや是事件も起ったバ
はlノdUき
’んぴん壱ないちいみきさ月ら’rんさつ
モして又、塵田寡例、青田松陰、掛本左鞄、租三樹lニ郎を始め多くの.動皇家が惨穀された安
政の姦モモの怒としての櫻田門町の井伊題批郁の輩瑠そ警欝の聯頂経
に倒幕の箕現となつ池ので参る。
げんしゆは1フLす
幕府が、官五十年に亙って骸守して本た鎗図政策を、案外容易に放棄したのは、幕府絶封中心
主義の枚本が、経浄的には、商業資本主義による町人の輿起と、武士階級の財政難、息想的には、
奪皇息想の仝南的励興、このこつによつて動銘し出し、錦団の数果も減じて凍たからだと息ふ。
併し、外交間堰は、革肘倒壊の宅メy呈なつた。江戸革肘を直卑琴した頂は、創菜の豪
とrlゆ,はんだいと’
康が堪度抵恐れた外墟の雄藩、強藩ではなくて、愚士と呼ばれる下級武士の活躍で参り1犬溺
く甘▲_こ亡
鯨々温ウて水た船を倶護アるために、アメyカ政貯が持ち込んだ強淡列で参つた。
・−軌りむCゆん
かくして日本が世界歴史の額展から弧立するといふ矛盾.は、こ・に仝←解滑されると同時

に、日本民族の理想たる天鼻親政は、親朝以水箕に太官七十六年に、して、本凍周轟で永遽打再現
ナ甘托室つ瀬ので領る。
(この「ニ千大首年史抄」に隈り無斯樽戦一華