第一八八号(昭一五・五・二二)
  低物価と利潤統制         陸軍省経理局
  事変下に海軍記念日を迎へて    海軍省海軍軍事普及部
  神武天皇聖蹟の調査        文 部 省
  日本語の大陸進出         文部省図書局
  独軍の蘭白進撃戦         陸軍省情報部
  欧州戦争の進展と蘭印問題     外務省情報部
  特別寄稿 二千六百年史抄(一四)  内閣情報部参与  菊池 寛



欧州戦争の進展と蘭印問題  外務省情報部

 北欧戦局の一段落とともに、いよ/\バルカン地方の風
雲が世界の視聴を集めてゐた折柄、五月十日払暁ドイツ
軍は突如オランダ、ベルギー、リュクサンブールの国境を
越えて進軍を開始した。
 ドイツ軍のオランダ侵犯説は、すでに去年の十一月に喧
伝(けんでん)されてより、今年に入り四月中旬再びその危機が伝へら
れ、そして、ドイツ軍のオランダ進攻の場合には、ベルギー
も同時に戦火の下に曝されるであらうといふことは、地理
の点かちして、また英仏のオランダ救援の都合からして
も当然に予期されてゐるのである。
 ドイツ軍としては、ノールウェー戦局が一段落を告げ、
殊に南諾方面の英仏主力が撤退したためドイツ軍に余力
を生じた矢先、英国下院で未曾有の大論戦が行はれ、チェ
ンバレン内閣総辞職となり、その政変真最中を好機とし
て、いよ/\白蘭両国への進撃を敢行した。

白蘭両国、独の覚書を拒否

 そしてドイツ政府は白蘭ならぴにリュクサンブール進撃
に先立ち、十日早暁白蘭両国政府に対し、次の如き覚書を
以てドイツ軍の白蘭進撃は、両国の中立擁護が目的なる旨
をそれ/"\通達し、なほ、リュクサンブール公国政府に対し
ても、同様にドイツ軍の作戦地域となる旨を通告した。
 「地中海における英仏の軍事行動開始の素振りは、英仏軍が白
蘭両国を通過し独領ルール地方に侵入して西方からドイツを攻
撃しようとする真の目的を蔽ほうとしたものである。ドイツは白
蘭両国が厳正中立を保持する限り、両国の領土保全を認め且つこ
れを尊重して来た。しかしながら、白蘭両国は厳正中立の状態
を完うせず、一方的に、ドイツとの交戦国側を利し且つその意
図を支持してきたのである。かゝる事態よりして、ドイツ政府
は、白蘭両国が自領内への英仏軍の侵入を黙認するのは云ふま
でもなく、むしろ、あらゆる点からそれらを支持するであらうと
の結論に到達した。
 英仏側のかゝる攻勢に対し、何等の行動をも起さず坐して待
ち、戦火をドイツ領内に波及せしめることは我等のとらざると
ころであり、かゝる理由からドイツ政府はその軍隊に対し全力
を挙げて白蘭両国の中立を擁護すべく命令した。しかしドイツ
軍は白蘭領国民の敵として白蘭領土へ侵入する者でなく、またド
イツ政府は白蘭両国の主権は云ふまでもなく、欧州ならぴに欧
州外における両国の権益に対し、現在もまた将来もこれを侵犯
せんとするやうな意図は全く持ち合せてゐないことを宣言し、
ドイツ政府は白蘭両国政府がドイツ軍に抵抗せぬやう措置を講
ずることを要靖する。しかしながら、若し抵抗する場合には、
ドイツ軍はあらゆる手段を以てこれを粉砕し去るであらう。」
 かくて、白蘭両国側が右覚書を断然拒否するや、ドイツ
軍は進撃を開始し、オランダヘは同日午前二時四十分、ベ
ルギーへは午前五時、それ/"\侵入するに至つたのであ
る。
 ついでオランダ政府はドイツ軍の侵入により対独交戦状
態に入つた旨を公表するとともに、白蘭両国政府はをれぞ
れ英仏両国政府に対し軍事援助を要請し、英仏軍は直ちに
応じて行動を開始し、一方英軍はアイスランド島に上陸し
戦争継続期間中それを保障占領する旨公表した。

    偽装軍服とデサント兵問題

 しかるにドイツ軍の進出振りは目ざましく、十三日には
早くもオランダ政府をロンドンに移転せざるを得なくなつ
たのであるが、それよりさき十二日、ドイツ兵がオランダ
兵の軍服で偽装してゐたといふ陸戦法規侵犯に関し、オラ
ンダ政府は次のやうな発表を行つた。
 「十日の戦闘を通じ、オランダ軍は各所においてドイツ軍の一
部が地上軍と落下傘部隊とを問はず、オランダ軍の服装を着用
してゐるのを見受けた。これは戦時国際法ならぴに陸戦の法規
慣例に関するハーグ条約第二十三条に規定した戦時に敵の服
装使用禁止に関する条項に違反したものであることは明らかで
ある。」
 因みに陸戦の法規ならぴに慣例に関する条約は一九〇
七年ハーグにおいて締結され、一九一二年一月に公布され
たもので、同条約の第二十三条とは次の如きものである。
 特別の条約を以て定めたる禁止の外、特に禁止するもの左の
如し。
(ハ) 軍使旗、国旗その他軍用の標章・・・を擅、
に使用すること。
 一方ドイツ政府は十三日、米国、スウェーデン、スペ
イン等の中立国駐在のドイツ大使館と通じ、英仏白蘭各国
政府に対しドイツ落下傘部隊に対する不当な取扱、反国際
法的な処置について厳重な抗議を提出し、その態度が改め
られない限り、ドイツもまた苛酷な手段を以てそれに報い
るであらうと警告した。これは英仏聯合軍側が公然と落下
傘部隊の捕虜は、悉く死刑にすべしと称へているのに憤
激してなされたいのと見られ、その抗議中には落下傘部隊
は国際法の慣例によりて承認されてゐるドイツ正規軍の
一部として、既にドイツ各地において外国武官の観戦に供
したところであり、かゝる特殊部隊も他の一般軍隊と同一
の存在理由を有すべきものであるとの主張に拠つたもの
である。

    蘭軍降伏、交戦状態は継続

 ついで同十三日、ウィルヘルミナ和蘭女皇は英国へ蒙塵
されてロンドンyへ御到着になり、リュクサンブール公国の統
治者シャーロット女大公も同日パリに到着された。また、オ
ランダ政府は、今後の対独抗戦の自由を保持のため政府諸機
関をロンドンに移すこととなり、デ・ゲール首相及び総勢十
一名の政府閣員は英国軍艦に搭乗し北海を越えて渡英し、
かくてオランダ政府は十四日ロンドンに移転を了(を)へた。
 そして同日深更、駐英オランダ公使館は声明明を発し、オ
ランダ軍総司令官ウィンケルマン将軍の対独抗戦中止命令
を確認するとともに、オランダとドイツの間の交戦状態
は依然として持続されるものであることを明らかにし、翌
十五日、ウィルヘルミナ女皇がファン・デルスタット海軍少
将を、今後ゼーラソド地方に拠るオランダ陸海軍の総司令
官に任命された旨発表した。且つ又、フランス政府と協議
のため空路ロンドンよりパリへ行つたファン・クレフェン
ス蘭外相も、中立国新聞記者団と会見し、オランダ軍の抗戦
停止は対独降伏を意味せずと強調し、オランダ海軍は何ら
の損傷を蒙ることなく、既に英仏艦隊に合流しベルギー
に遁入した陸軍も至急集結を終り、英仏軍へ投ずるやう命
令されてをり、蘭領東印度にはなほ十万のオランダ軍があ
りこれを欧州戦線に参加せしめる可能性があると語つた。
 一方、十四日のオランダ軍総司令官の降伏声明により
ゼーランド地方を除くオランダ全土がドイツ軍の手中に
入つたのであるが、ドイツ外務当局は、「ロンドンに遁走
したオランダ政府が未だに抵抗継続を国民に訴へてゐる
限り、独蘭両国関係は作戦開始と同時にオランダが声明し
た戦争状態にあると云はねばならぬ。戦争状態は両国政府
が講和の暁に消滅されるもので、それまではたとへ戦闘
行為が事実上停止されやうとも、両国が交戦状態にあるこ
とに変りはない」旨の言明を十五日に行つたのである。
 なほ、ベルギーにおいては、十二日ピエルロ首相がラヂ
オを通じて、アルベール運河の苦戦状態、ならぴに援助の
ため出動した英仏軍の兵数及び作戦は何れも満足すべき状
態にあり、政府は絶対に首都ブリュッセルを動かず、国王陛
下は前線に御出動、三軍を指揮して居られる旨の放送を行
ひ、スパーク外相も全国民に呼びかけて一致団結ドイツ軍
に抗戦せよと激励した。

    注目さるゝ伊と米の動向

 かくして、破竹の勢ひで進撃するドイツ軍と白蘭救援に
赴いた英仏聯合軍との正面衝突の戦機はいよ/\切迫した
のであるが、それに応じて反英仏感情の熾烈化に伴ふイタ
リアの参戦気運はとみに増大し、ソ聯はベッサラビア国境
に集中した部隊を続々増強中と伝へられ、ハンガリー及び
スロヴァキア両国の国境閉鎖、スイスも召集兵員六十万に
達し、更に少年及び女子までも後方勤務のため召集中で、
全国民文字通りの皆兵状態が伝へられる等、戦火の全欧波
及が予感されるに至つた。
 とりわけ次の戦場と目されるバルカン地方には、暗雲が
いよ/\低迷しつゝあるが、岩し英仏軍が白蘭におけるド
イツ軍の進撃阻止に失敗したならば、イタリアがドイツ側
に立つて参戦することは単に時日の問題と見られてをり、
イタリアが参戦すればバルカン地方が戦火にに巻きこまれる
ことは必至との観測が強く行はれてゐるのである。
 一方、中立諸国の態度としてイタリアの起否のほか、最
も注目されてゐるのは云ふまでもなく米国の動向である
が、ルーズヴェルト大統領は、十二日ベルギー国王宛の電
報において、ドイツの惨酷な侵略に対し米国民は驚愕激
動せりと露骨に反独感情を表明し、米国民は一般的にその
ル大統領の反独態度を支持してゐると伝へられる。即ち、
ドイツ軍の白蘭進撃が米国々民に与へた昂奮は日を追つて
強まり、この空気はとくに西海岸諸州に濃厚で、孤立主義
に傾いてゐる中西部諸州においてそれ程の昂奮状態は示
してゐないが、政府が手を代へ品を代へ唱道してきた国
防充実もすでに一般常識と化し、ドイツの白蘭進出後の戦
局はこれに対し異常な刺戟を与へてゐる。但し、万一米
国が参戦するとしても時間の経過を必要とするが、先づ
さしあたつての問題として、英仏援助を強化するために
ジョンソン法(対米債務の支払を怠る国に対しては融資を許可せぬ
といふ法律)廃棄の要望が急速に強められてゐると伝へられ
る。要するに、米国はドイツの白蘭進撃を機として、いよ
いよ中立国より非交戦国へ移りつゝありと見られてゐる。

    蘭領印度支那問題と帝国

 さて、蘭印の問題であるが、去る四月中旬ドイツ軍のオ
ランダ侵犯説が流布されるや、十五日、その場合における
蘭印の現状維持を目的とするわが外務大臣の声明となり、
これに応じて翌十六日、クレフェンス蘭外相は「如何なる
場合にも現状不変更の方針を堅持する旨を表明した。それ
にもかゝはらず、去る五月十日、ドイツ人の妨害を理由と
して英仏軍が蘭領西印度に上陸し、旦つオランダとは事前
に諒解ずみであることが明らかにされたのである。
 かくて十一日、わが外務大臣は駐日オランダ公使の来訪
を求め、蘭印問題に関しオランダ政府がさきになした現状
不変更の決意を竪持すべきことを期待する旨の申入れを行
ふ一方において、駐日の英独仏各交戦国代表に対して帝国
の本問題に対する関心について注意を喚起し、なほ、米
伊両中立国の代表に対しても、帝国政府が関係交戦国政府に
以上のやうな申入れを行つた旨を参考として通報した。
 帝国政府が蘭印の現状変更を希望せずといふのは、軍事
行動によることは勿論、経済的措置についても現状維持を
希望するといふ趣旨に基づくものであり、去る四月十七日
にハル国務長官によつてなされた米国政府の蘭印現状維持
の希望が、一九〇八年の日米交換文書及び一九二一年の太
平洋における領土に関する日英米仏四ケ国協定等、既存の
条約尊重の立場に立脚するものと異り、わが国は東亜の
平和及び安定維持のため戦火が蘭印へ波及することを防止
すると云ふ見地に拠つてゐるのである。
 かくて、十三日に至りクレーギー英大使は外務大臣を訪
問し、帝国政府の申入れに対し、英国政府は日本政府の蘭
印に対する関心に全く同感であり、蘭印におけるオランダ
の兵力は同島の現状維持に十分と信じ、且つ英国は同島に
関し干渉するが如き何等の意図をも有せざることを閘明し
た。
 ついで十五日には、パブスト和蘭公使がオランダの意向を
齎し、十六日に至りアンリ仏大使も、仏国政府は日本政府
の蘭印現状維持に関する見解に全く同感の意を表するもの
であるとの本国訓令を齎した。
 これによつて、去る十一日に外務大臣が帝国の意向を通
達した交戦国英仏独蘭四ヶ国の内、英仏蘭三ケ国の回答が
齎されたわけで、ドイツの態度はトムゼン駐米代理ドイ
ツ大使が数日前ワシントンにおいて、「ドイツは蘭印の現
状維持に関し、何ら干渉がましい態度に出る意向はない。」
旨を言明してゐるので、四ヶ国によりそれ/"\一応是認さ
れたわけである。なほ、米国の態度は未だ不明であるが、
去る四月十五日の外務大臣声明の直後に、いはゆるハル声明
として前述の通り発表されたところによつて、その意向も
大体に判明してゐるものと言へるのである。