第一八八号(昭一五・五・二二)
  低物価と利潤統制         陸軍省経理局
  事変下に海軍記念日を迎へて    海軍省海軍軍事普及部
  神武天皇聖蹟の調査        文 部 省
  日本語の大陸進出         文部省図書局
  独軍の蘭白進撃戦         陸軍省情報部
  欧州戦争の進展と蘭印問題     外務省情報部
  特別寄稿 二千六百年史抄(一四)  内閣情報部参与  菊池 寛

独軍の白蘭進撃戦 陸軍省情報部

戦火白蘭に拡大

 五月十日未明、ドイツ軍はオランダ、ベルギー、リュクサ
ンブールに向つて一斉に進撃を開始した。時恰かも英国議
会においてはノールウェー作戦の失敗が論議され、世界の
注目を惹いてゐた際であつた。ドイツ軍当局はポーランド
作戦終了後、対英攻撃基地としてオランダ、ベルギーを占
領すべく早くから準備に着手し、既に昨年十月リュク
サンブール以北オランダ、ベルギー両国境及びその後方
に七、八十師団約百五十万の兵力を集結してゐた模様であ
る。
 先に海上の危険を冒して決行せる北欧作戦の成功の目途
がつき、英国主力艦隊が東地中海に集中、イタリア牽制に専
念してゐる好機に乗じ白蘭進撃を開始した。この日ヒトラー
総統は全軍に対し「ドイツは過去三百年間英国と友好関係
を維持すべく努力してきた。しかし事茲に至つては最早決
戦を交へる外はない。各人一層奮起せよ」との布告を発し」
その意図を明らかにし決意を示した。
 独軍は九日夜半地上では機械化部隊を先頭とし、空中で
は大空軍編隊によつて白蘭両国の後方陣地に落下傘部隊及
び有力な空中輸送部隊を送り、陸海空の三軍を挙げて最短
期間に白蘭両国を屠るべく作戦を進めてゐる。

オランダ方面の戦況

 オランダ軍は十師団内外の兵力を以て、アイゼル河を第
一線、ユトレヒト南北の線を第二線、アムステルダムを最
後の抵抗線として、水と築城とにより防禦戦を行ふべく
準備しつゝあつた。
 これに対しドイツ進撃軍は、オランダ軍の抵抗及び橋梁
の破壊、その他の障碍物を排除して急速に前進を続け、
落下傘部隊は各所に着陸して重要橋梁、渡河点その他戦略
要点を占領するとともに、後方の攪乱、戦果の拡大に努め、
連続的に出動せる空軍は敵の要塞施設、行進中の軍隊、兵
営等を空襲潰滅しその威力を発揮してゐる。即ち北方進
撃部隊は開戦三日にしてゾイエル海に進出、アイゼル河方
面進撃部隊もユトレヒト要塞附近に進出、南方白蘭国境方
面を猛進撃した独軍は、十四日ロッテルダム城のオランダ
軍を降伏させた。
 独軍は今次の作戦にも落下傘作戦を活用してゐる。即ち
十一日にはアムステルダム、ロッテルダム附近の地方数ケ
所に落下傘部隊を投下し、飛行場の占領、国内謀略部隊
の支援を敢行し、敵の戦意を喪失させるのに效果があつ
た。昭和十年九月、ソ聯邦軍当局がキエフ附近で行つた大
演習に、約一聯隊の空中降下により敵背後攪乱を実施した
のに端を発した近代戦術が、今日実戦に活用されるに至つ
たわけである。
 かくて精鋭なるドイツ軍の猛攻に辟易したオランダ軍は
忽ち戦意を喪失、開戦以来僅かに四日にして降伏、十四
日オランダ軍最高司令官は全軍に戦闘停止を命じた。

ベルギー方面の戦況

 二十七年前の第一次欧州大戦劈頭、全国土を挙げて戦場
と化したベルギーは、こゝにまた再び同一の運命の歴史を
繰りかへさせられるに立ち至つた。
 ベルギーは今日あるを予期し、自国の存立を全うすべく
独力国防の充実に努力を払ひ、戦時総動員兵力七十万を以
てリエージュ(ドイツ語リェッチヒ)東北地区より、概ね国境
に沿ふ線を第一線陣地、リエージュよりその南方オルテ河
に沿ふ線を第二線陣地とし、天然の地形と近代築城とに
よつて国防を全うせんと企図してゐた。
 十日独軍ベルギー進入に伴ひ、英仏軍はベルギー軍急援
のため行動を開始した旨当局より発表した。
 これに対し、ドイツ進撃軍はこれを一挙に突破すべく、
オランダ、ベルギー国境に近いマーストリヒト方面において
マース河を渡河せる軍は、アルベール運河の陣地を貫き、そ
の機械化部隊は十四日フランス戦車部隊と遭遇、空軍協力
の下にこれを撃退、十七日ブリュッセルを占領した模様で
ある。またアーヘン方面より進撃したドイツ軍は第二日、
前大戦で有名なリエージュ要塞中最強の防備力を誇る
エーベネメール堡塁を劃期的攻撃法により陥落させ、要塞
司令官以下一千名のベルギー兵を捕虜とした。リエージュl
要塞の残存せる部分に対しては、一部の兵カを以て包囲し
たまゝ他は進軍に努め、アルデンヌ森林、山地による敵陣
地を突破、ミューズ河の線に進出、さらに数ヶ所において
ミューズ河を渡河し、フランス領内に進入、マジノ線の延
長部にあるセダンを攻略した。次いでセダン地区において
ミューズ河を渡河した部隊は、マジノ線延長部に対し十五
日その一部を突破し、十七日夕にはサンタンカン、ラオン北
側の線に達した。攻撃を進め、十五日この一部分を奪取し
た模様である。
 英仏軍は、概ねミューズ河西岸の線に逐次後退して防戦に
努めつゝあるもの。如く、両軍の戦線は百七十粁に達し、
こゝに開戦以来始めての独対英、仏、白軍の本格的大会戦が
展開されてゐる。(五月十七日)

ノールウエー方面の戦況

 ノールウェー南部を放棄した英軍は、北部ノールウェー方面
を確保しようろする企図を未だに棄てず、ナルヴィク市街
の山上に防禦する独軍二、三千に対し悪天候を冒して攻撃
中であるが、攻撃はなか/\進捗しない。ノールウェー方
面の戦況は左図の通りである。