第一八八号(昭一五・五・二二)
低物価と利潤統制 陸軍省経理局
事変下に海軍記念日を迎へて 海軍省海軍軍事普及部
神武天皇聖蹟の調査 文 部 省
日本語の大陸進出 文部省図書局
独軍の蘭白進撃戦 陸軍省情報部
欧州戦争の進展と蘭印問題 外務省情報部
特別寄稿 二千六百年史抄(一四) 内閣情報部参与 菊池 寛
二千六百年史抄(一四) 内閣情報部参与 菊池 寛
尊皇思想の勃興
家康、秀忠、家光と、江戸幕府三代の将軍は、朝幕問題、諸大名問題、切支丹宗問題、外国との通商問題、その他法制、経済、教化などに腐心してゐたが、彼等は幕府の政権の永続化を図る以外、何等高遠の理想を持つてゐなかつた。そのために、日本の民族的発展の機運を阻害した点が甚だ少くないのである。
その上、織田信長にしろ豊臣秀吉にしろ、皇室に対する純粋な敬意を持つてゐたが、徳川氏はそれを継承せず、徳川家康にしろ秀忠にしろ、皇室に対して、終始政略的であり、江戸幕府の朝廷に対する態度は、国史を読む者にとつて、痛憤を感ぜしむる点が、甚だ多いのである。
後水尾天皇の
葦原やしげらばしげれおのがまゝ
とても道ある世とは思はず
の御製に依つても、幕府の横暴が察せられるのである。
然し、天下の政権を握つた徳川家康が、治国の道徳的基礎として、従来の戦国武士道を、学問に依つて、新らしい君臣道徳に体系づけようとしたことは、やがて天下の武士に、君臣の大義名分を知らせることに役立つたが、彼等は自分と主君との各分を知ると共に、主君と将軍との名分を知りそれと同時に将軍と朝廷との間に、より一層大なる名分の存在することに気がついたのである。
幕府の学問奨励に依つて輩出した江戸時代初期の大儒たる山鹿素行、熊沢蕃山、山崎闇斎等は、漢学に伴ふ支那中心の思想を清算し、日本の学者たる自覚を獲得すると共に、日本主義に徹底し、日本の國體の尊厳なる所以は、尊崇すべき皇室あるが為めだといふ結論を持つてゐた。
聖徳太子が「日出処の天子」と書かれた國體精神が、北畠親房の「大日本は神国なり」の神皇正統記となり、而して之等の学者に正んく承け継がれてゐたのである。
幕府が、御用倫理学と頼んでゐた朱子学派の闇斎が、尊皇賤覇思想の一つの源とさへなつてゐるのである。
かうして、江戸幕府が、自家の道徳的立場を擁護せんとして奨励した学問は、國體観念を勃興せしめ、それと不可分なる尊皇思想の擡頭を誘起してゐるのである。
しかも、徳川の御三家として、その藩屏たるべき、水戸の徳川光圀の好学は、大日本史の編修となり、其の中に現はされたる大義名分の精神は、勤皇思想の温床となつてゐるのである。
しかも、その修史の事業は、当時に於ける国史の定本を提供したと云ふだけではなく、水戸三十五万石の財力を傾注したと云はれる編史事業そのものが、学問の奨励となり、学者の優遇となり、国史の研究を促し、国学勃興の動因となり、尊皇精神の昂揚に多方面から寄与してゐるのである。
国学の興隆
江戸時代に勃興した学問で、わが日本の社会に最も大きな影響を与へたものは、第一に国学であり、第二に洋学であるが、この国学の興隆に、直接有力な刺戟を与へて国学復古の気運を創つたのは、前章に説いた如く水戸光圀の修史事業であつた。
光圀は大日本史の編纂に当つて、和文の本原を索ねて古語を研究する必要を感じて、日本全国にその史料を捜討し、それを整理した。即ち、扶桑拾葉集や、礼儀類典や、神道集成を編纂し、さらに万葉集の研究に手をつけたのである。このことは、日本の古典研究に大きな影響を与へ、難解とされてゐた国学書、就中国文学書の一般的研究に、一筋の道を拓いたのである。
当時、大阪に下河辺長流(しもかうべながる)、釈契沖のやうな古典古語に通じた篤学の人々があつて、はやくも光圀の物色するところとなつた。
その上、漢学者も刺戟されて国学の必要を感じ、古典研究に余力を用ひるものが多くなつたが、新井白石や伊藤仁斎、貝原益軒などは、その主なるものである。
長流、契沖についで現はれた専門の国学者に荷田春満がある。
春満の家は代々京都伏見稲荷山の神官である。彼は家を弟に継がせ、自らは国学の復古を以てて任とし、国史、律令、古文、古歌および諸家の記伝に至るまで渉猟した。
当時は支那かぶれの荻生徂徠が、日本を東夷と称してゐた時代だが、春満の「ふみ分けよ、大和にはあらぬから鳥の、跡を見るのみ人の道かは」の一首は、実に彼の一生の抱負であるばかりでなく、門下から門下へと伝承して行くべき建学の根本精神であつた。彼は契沖のやうな後援者を持たない一介の町学者でありながら独力で契沖とは別の方面において古学を開拓した功労者である。そして彼が遺した功績の中で、最大のものは、彼が樹てた学統から、賀茂真淵や本居宣長のやうな偉大な復古学者を輩出させたことである。
真淵は遠江浜松の新宮の禰宜岡部定信の二男で、享保十八年三十七歳で京都に出て、荷田春満の門に入つた。足かけ四年で師の春満は死んだが、平田篤胤は玉襷の中で、
荷田の門の人も多かりしと聞ゆる中に、一人ぬけ出て、その正意をば得られてぞ有りける。
其は荷田の門に大人(うし)(真淵)をおきて、外に大人の如く、師に勝れる人なきにて知るべし。
と、許してゐる。
その門下にも加藤千蔭や村田春海のやうに、国典の研究者といふよりは、寧ろ歌文の秀才が輩出した。真淵の学統を真に受け継いだ者は、本居宣長唯一人と言つてもよい。それだけに宣長は、国学の真精神、大眼目を、いかにも鮮明に照し出してゐる。
彼の著書「玉くしげ」に、
凡て天下の大名たちの、朝廷を深く畏れ、厚く崇敬し奉り玉ふべき筋は、公儀の御定めの通りを、守り玉ふ御事勿論也。然るに朝廷は、今は天下の御政を、きこしめすことなく、おのづから世間に、遠くましますが故に、誰も心には、尊き御事は存じながらも、事にふれて、自然と敬畏の筋、等閑なる事も、無きに参らず。抑本朝の朝廷は、神代の初めより、殊なる御子細まします御事にて、異国の王の比類にあらず。下万民に至るまで、格別に有りがたき道理あり。(中略)されば一国一郡をも治め玉はん御方々は、殊更に此子細を御心にしめて、忘れ玉ふ間敷御事也。是即ち大将軍家への、第一の御忠勤也。いかにと申すに、先づ大将軍と申奉るは、天下に朝廷々軽しめ奉る者を、征伐せさせ玉ふ御職にまし/\て、此ぞ東照神御神命の御成業の大義なればなり。
と、いつてゐる。即ち宣長は自分が仕へてゐる紀州侯に向つて、朝廷尊崇は幕府に対する第一の忠勤であると説いてゐる。彼は将軍職を、朝廷のために不義不逞の徒を討伐する役目で、幕府は独立して存在するのではなくて、朝廷のために存在するのである、と大義を説いてゐるのである。彼が師の真淵を超えて、国学者の魁首とされる所以である。秋田の人平田篤胤は、宣長の門に入つてニケ月にして宣長が歿し、親しく教へを受けることができなかつたが、宣長を先師と尊んで、その遺著によつて国学を励み、さかんに尊皇愛国の精神を鼓吹した。
篤胤は、春満、真淵、宣長と共に国学の四大人と呼ばれてゐるが、その尊皇愛国主義の主張は実行的であつたために、幕府に忌憚され、天保十二年江戸を逐はれ、秋田に帰郷を命ぜられ、その著「扶桑国号考」は絶版となつた。
ふみわけよ大和にはあらぬ唐鳥の
跡を見るのみ人の道かは 荷田春満
みたみわれ生れけるかひありて刺竹(さすたけ)の
君がみ言を今日きけるかも 賀茂真淵
さしいづるこの日の本のひかりより
高麗もろこしも春をしるらん 本居宣長
人はよしからにつくとも我が杖は
やまと島根にたてんとぞ思ふ 平田篤胤
国学の研究は直接的には江戸幕府の脅威ではなかつた。多くの国学者も幕府には何等の反抗的思想を懐いては居なかつた。だから幕府は国学に対して幾分の保護を加へてゐるほどである。
併し、国学の究極の観念は、皇室中心主義である。幕府絶対中心主義とは根本的に相反するのである。
この尊皇思想は、江戸幕府の内部的な矛盾が発展するに伴れて、国学の大先輩たちも予期しなかつたほどの国民的な力と化して、七百年も続いた武家政治を根柢から覆すやうな偉力を発揮したのである。
(この「二千六百年史抄」に限り無断転載を禁ず)