第一八七号(昭一五・五・一五)
  派遣軍将兵に告ぐ          支那派遣軍総司令部
  武力作戦の重要性         陸軍省情報部
  その後における仏印ルートの爆撃  海軍省海軍軍事普及部
  近東の現状            外務省情報部
  特別寄稿 二千六百年史抄(一三)  内閣情報部参与  菊池 寛

 

  鎖   国

 秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮を討つためではなくて、大明国を征するのが目的であつた。そして、この半島出兵は、結局失敗に終ったが、当時の日本は、民族的にも国家的にも、このくらゐエネルギーが横溢(わういつ)してゐて、倭寇以来の大陸進出の風潮が、国家的に発現したのだ。然し、この旺盛な海外発展の本能も、徳川氏の鎖国政策によつて萎縮したのである。
 秀吉は、聚楽第の造営や大仏殿の建立、大阪、伏見の築城、朝鮮出兵と、華美(はで)好きに任せて莫大な費用を使つたやうに見えてゐて、少しも金には困らなかつた。大阪城が陥るまで、秀吉が蓄へ置いた金銀は、家康を怖れさせたといふのである。
 家康は、あれほど質素倹約を旨とし、金銀の貯蓄に努めながら、彼の死後四十年で早くも財政
の窮乏に苦しんでゐるのである。だから、秀吉の天下は、制度や法令のカではなくて、財政の力で支へられてゐたと言へる。しかも、その有力なる財源は、外国貿易に依つたのである。
 それを、江戸幕府は、何故に鎖国したか。表面の理由は、キリスト教が口実になつてはゐるが、事実は、海外からの活気ある自由な商業資本主義的風潮が、土地と農民を経済的基礎とする封建制度を、侵蝕すると信じたからである。徳川封建政府を維持して行くためには、日本を永久に農業的鎖国にしておく必要があつたのである。
 鎖国令の実施は、寛永十年が第一回で、十三年、十六年と、三段階に分れ、次第に厳重になつてゐる。以後、日本の造船術は、全然後退してしまつたし、日本人の頭には、鎖国は祖法であり、国是であるといふ観念が成長し、外国人と交ることを、極度に怖れるやうになつたのである。そして、日本民族が得意とする、他国文化の吸収同化作用は、一切止んでしまつた。だから、鎖国以後は、固有の文化は発達したが、何となく不具的で盆栽的で、活気のない、いはゆる島国性を感じさせるやうなものとなつたのである。
 しかも、江戸時代に、日本の人口が殆んど増減しなかつた理由は、五十年毎に襲つた大飢饉のためで、鎖国令が国外からの食糧輸入を遮断してゐるから、飢饉となると、今なほ古老が語るやうな悲惨な状態を現出したのである。
 もし、鎖国令といふ桎梏を受けないで、日本民族の進取の本能に任せて海外発展が続けられてゐたなら、二、三世紀前、すでに南洋一帯は我が版図になつてゐて、今ごろは日本は、東洋の平和、世界の平和のために、有力な役割を果すことが出来ただらう。いかにも残念なことである。
 維新後、日本は再び開国して、世界文化に追ひ付かうとして焦つた。その焦燥は今日に於ても、欧米の模倣や、模倣から生ずる種々の社会風俗問題などとなつて露呈してゐる。
 一たい、我々の祖先は、他を蕪雑に模倣するには、あまりに高い文化的感性の持続を伝承してゐた。それは大陸文明の輸入時代に建立され法隆寺が、大陸の原物よりは建築学的にも美術的にも、はるかに優れてゐるといふ事実を見ても明らかである。この高い文化的感性の伝統と、天才的な吸収同化力とが、弱まつたことも、鎖国が与へた大害の一つである。しかし、三百年前の西欧の文明は、それほど高いものではなかつたから、日本は、まるきり三百年、西洋から後れたといふのではない。我々の血の中に、祖先の天才的な力を目覚まして、鎖国が生んだハンディキャップを克服し、邁進して行くべきである。


江戸幕府の構成

 徳川家康は、秀吉の死後十五年も待つてゐたが、余命が幾ばくもないことを覚つて、遂に秀吉の子秀頼を大阪城に攻滅した。
 百年間も戦乱の舞台にされてゐた社会の全体は、戦争には厭き/\してゐたから、家康が立てた江戸幕府は、その徳性はともかくとして、天下安定の重鎮としては大盤石であつたから、平和に飢ゑてゐた人心は、これに帰して行つたのである。
 江戸幕府の政策に一貫してゐる精神は、善政も悪政もない。自存であり自衛であつて、徹頭徹尾徳川本位である。
 家康は、頼朝の鎌倉幕府の組織に傾倒したが、単なる模倣はしなかつた。旧制度の研究に熱心ではあつたが、法制道楽ではなかつた。彼は時代に順応して巧みにこれを参酌した。彼は天才的な立法者であり、巧妙な運用者であつた。だから家康が立てた政治の根本方策は、「神君が定め置かれた通り」に自動的に適用されて、代を経るに従つて、どこまでも巧緻精妙化されて行く力を内臓してゐたのである。
 家康は、鎌倉幕府や室町幕府の政策の跡に鑑みて、皇室に対し奉つて十七箇條の公家諸法度を制定し、陽には尊崇して陰には圧迫した。天皇に専ら花鳥風月の学間を御奨めし、天下に行ふべき経世有用の学は、それとなく御止めしてゐるが如きである。その他、皇室に対しては、色々誠意を欠いてゐる。
 諸大名に対しては、私(ひそか)に婚姻するを禁じ、築城や無届の修築を禁止するなど、十三箇条の武家諸法度を厳に励行させた。福島正則の家や、加藤清正の家は、この法度に触れて断絶した。
 江戸幕府の制度は、外面は最も地方分権的体裁を示してゐるが、内面は最も精緻な中央集権制で、自領内では行政権、警察権を持つてゐる百万石の大名も、幕府の一片の命令で蟄居、国替、減石、断絶せしめられるので、その何れも今の内閣が地方官の変更任免を奏請するよりも、まだ容易であつた。かうして、幕府は譜大名が臣事するも支持しないも問題でない。自身の財力と兵力とで絶対的に服従させたのである。これは、家康が手本とした頼朝さへも、企て及ばないところであつた。
 江戸幕府の制度が整備したのは、三代の家光の時代で、その職制は、幕府の重職に大老、老中、若年寄の三役があり、その下に三奉行がある。
 大老は一人で、諸役の上にあつて大事を総裁した。これは適当な人物がなければ、闕いたまゝであつた。老中は年寄とも云ひ、譜代の五、六万石から十万石の大名を任じ、一切の政務を執り、大名の取締を掌つた。定員は五人である。若年寄は、老中の見習のやうなもので、旗本の取締りをした。定員は六人で、五、六万石の譜代大名が任ぜられた。三奉行は、寺社、勘定、江戸町奉行の各奉行である。
 大目付、目付は、それ/"\老中、若年寄の耳目となつて諸大名及び旗本を監掌した。何れも旗本の士を任じたのである。
 側用人は、初めは将軍に近侍して老中へ取次役をしてゐたのであるが、後には五代綱吉の時の柳澤吉保のやうに、政事に参与して、権勢を振つた。やはり大名を任じたのである。 地方行政機関としては、幕府直轄領に郡代または代官を置いた。特に京都には所司代を置いて、朝廷守護の名の下に、公家及び畿内以西の大名を監視させたのである。なほ、大阪と駿府には城代を置き、その下に町奉行を置いた。この外、奈良、伏見、山田、日光と、金銀山の佐渡、貿易港の長崎、堺、下田等にも奉行を置いたのである。
 大名の取締りは最も重要問題だが、徳川氏の一族たる親藩と、関ヶ原役以前から家臣であつた譜代と、関ケ原までは徳川の朋輩(ほうはい)であつた外様とを、大小親疎に従って、その領土を犬牙錯綜させて配置し、牽制の妙を極めたのである。
 又、参勤交代は、信長、秀吉の時にも、安土や大阪に諸大名が邸を置いて滞留したことがあつたが、家光の時代に制定したものは、全国大名の大がかりな定期点呼であり、人質制度でもあつた。この参勤交代は、諸大名の財政難や地方の疲弊と、いろ/\な弊害を生んではゐるが、国内要賂の発達とか、貨幣制度及び流通組織の急速な発展、地方産業の振興、都市の繁栄、中央文化の地方伝播など良い意味での副作用をも起してゐるのである。
 又、徳川幕府は、頻々として諸大名の移封(いほう)を行つたが、それは鎌倉、室町の時代のやうに、諸大名を同じ領地に定着させては、中に財政家がゐて民心を得、富強を致す者ができては、江戸幕府が危いからであつた。

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