第一八五号(昭一五・五・一)
結核に対する認識 厚 生 省
母と乳幼児の体力向上 厚 生 省
外地の保健状況と対策 拓 務 省
税制改正によって個人の税金はどう変ったか 大 蔵 省
海軍病院の現状 海軍省海軍軍事普及部
外貨獲得と農林水産物(下) 農 林 省
三月中の支那事変総合戦果 陸軍省情報部
商業小組合制度 商 工 省
抗日両党の摩擦 外務省情報部
特別寄稿 二千六百年史抄(一二) 内閣情報部参与 菊池 寛
信長、秀吉、家康
戦国の群雄が素懐とした上洛の理想は、尾張に崛起した織田信長によつて遂げられたが、かうして、一躍新武家時代の寵児となつた信長は、上洛の栄誉を獲ると同時に、天下諸大名の嫉視の的となつたのである。
されば、以後の数年間が、彼としては一生の危期であつた。
甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、相模の北條氏康、その何れの勢力が西方に延びて来ても、信長の覇業は忽ち遮断されたに違ひない。
周到な信玄、慄悍な謙信、勇敢にしてしかも緻密な計画性をもつた氏康、この三人が用ひた印章は、それ/"\龍、獅子、虎であるのも興味深いが、まさに彼等は、当時日本の龍であり、獅子であり、虎であつた。しかも、この三人が互に優劣なく固執し、相牽制して均衝の勢力を保ちながら、空しく年月を費してゐたことが、信長に幸したのである。
謙信と信玄とは、軍の編成と統率、団体戦法と用兵に於て、戦国時代の群雄をはるかに凌駕してゐて、我が国に於ける戦術の開祖と云ふべきである。後世、由比正雪が楠木流の軍楽などと称したものも、武田の兵法を太平記に結びつけたものである。
だが、この越後の獅子と甲州の龍は、中央の舞台を外に、十年も対峙してゐる。川中島合戦は、戦史を飾る激戦ではあつたが、政治的には、何ほどの意義もなかつた。後年秀吉が、「ハカの行かぬ戦争をしたものだ」と評した所以である。
甲越の決戦を観望して、「傍毒龍有り、其蹙(つまづく)を待つ」の感があつた北條氏康は、元亀二年に歿し、こゝに均衡勢力の一端は破れた。翌三年十月、武田信玄は大挙して上洛を志し遠江に侵入し、徳川家康を脅かしたが、翌天正元年四月、疾(やまひ)を得て「明日旗を瀬多に立てよ」のうは言も悲しく陣歿した。
入洛競争のテープを切つたのは信長だつたが、甲斐の龍、信玄の鋭鋒を邀(むか)へては、あまり勝味のない桶狭間を、も一度繰り返さねばならない破目になつてゐた信長は救はれたわけだ。
氏康逝き、信玄歿し、関東は謙信の独舞台となつたが、彼も亦、天正六年三月西上の軍を発するに先だち、俄に卒去(そつきよ)した。信長に取つては重ね/"\の天幸(てんかう)と云はねばならない。
豊穣な濃尾の地利に培はれ、人文(じんぶん)に育まれた英雄児信長は、遮るものあらば性来の勇猛心で撃砕した。しかも、彼を脅かす東国の諸豪相次いで世を去つたので、彼の天下統一は必ず近きにあり、と自他共に信じてゐたが、測らずも、十七年間重用し来つた家臣光秀のために、京都本能寺に於て、弑せられた。「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如く也」、彼の平素愛誦の謡(うたひ)のごとく、五十に満たぬ四十九歳で、いかにも乱世の英雄らしい最期を遂げたのである。
この時、中国毛利氏と対陣中の秀吉は、すぐさま媾和して、神速飛ぶが如くに引き返し、摂津山崎の一戦に、光秀を討ち取つた。叛逆後わづか十三日にして、光秀は滅んだのである。三日天下の称がある所以である。光秀の叛逆は、下剋上の最後の場合だつたが、近世に近いのと、相手が大物であつただけに、主殺しと云つた悪名を、相当以上に受けてゐる。
独力で主君の復仇戦を遂げた秀吉の声望は、一時に加はつた。近畿の諸将は、先を争つて彼の麾下に集つた。織田家の宿将たる柴田勝家や瀧川一益は、心中甚だ平かでない。やがて勝家は、賤ヶ岳で秀吉と戦つたが惨敗し、越前の北荘の本城に逃げこみ、遂に滅亡した。
天正十一年五月、秀吉は諸国から大木巨岩を集め、三十余国からの人夫を使役して、大阪に大規模な築城工事を起し、翌年の八月に殆んど竣工した。金城鉄壁、難攻不落の堅城であり、荘厳壮麗、天下統一の覇業を期する秀吉の理想を象徴した名城でもあつた。秀吉は築城と同時に、大都市建設の計画を立てて、堺や伏見から商人を移住させた。
天正十二年には、秀吉は統一の功を急ぐために徳川家康と同盟し、一方では長曾我部元親を降して四国を平げ、上杉景勝と和して北国固を定め、島津義久を討つて九州を従へた。
越えて天正十八年三月、自ら大軍を率ゐて北條氏を小田原に攻囲して之を滅し、関東を平定したが、その陣中に、奥羽の雄伊達政宗が来降し、こゝに天下は全く統一したのである。
足利時代は暁暗期である。その中から生気に満ちた近世の朝は明け初めて、豪快な戦国の舞台は展開したのだ。そして、信長と秀吉と家康は、満身に照明を浴びつゝ相踵いで登場して、英雄の名を攫(さら)つてしまつたのである。
信長は気象の荒々しい性急な乱世的英雄で、彼の活躍は実に日覚しかつた。秀吉は戦国的英雄であると同時に、実に平和を愛する英雄であつた。戦国百年の焦土の上に、絢爛たる桃山時代を現出させたのは彼である。家康は信長のやうな目覚しさはないし、秀吉のやうな華やかさもないが、実に緻密で組織的で建設的で、近代的な英雄である。この三人の性格を比べると、秀吉と家康は、信長に比し、滅多に人を殺してゐない。政略以外には、人を殺してゐない。秀次の妻妾を殺したことは、秀吉の晩年の過失である。秀頼母子を殺したのは、家康として政略上止むを得なかつたのである。それ以外は秀吉も家康も、人を殺すことを嗜(たしな)んでゐないのである。
結局、英雄といふものは、時代が生むのだ。世の中が真に必要に逼(せま)られてゐる大事業を遂行する人物が英雄なのである。信長も秀吉も家康も、それ/"\、大きな社会的需要に応じて現れて、独自の役割を果した人物で、真に英雄である。
もし家康が応仁の乱時代に生れてゐたならば、精々細川か山名の一将で終つたかも知れない。又、信長が家康の時代に出てゐたら、叡山や本願寺を焼打したりして、日本のネロとして悪名だけを残したかも知れないのである。
叡山の山僧の跋扈は、歴代の朝廷も将軍も手を焼き、国政上の大患だつた。信長は、この末世の悪僧共が浅井、朝倉と通謀して彼の大志を妨げようとしたから、徹底的に焚滅し、永年の禍根を絶つたのである。新井白石の読史余論は、これを信長の大功の一にさへ数へてゐるのである。
信長は一切の旧きものの破壊に続いて、直ちに建設に着手してゐる。皇居の造営、首府たる京都市街の復興、検地や金山銀山の経営、朝鮮との外交政策等を見ても、決して単なる癇癪もちの荒大名ではない。頭脳的にも、創意に満ちた英雄であつた。彼の茶と学問の奨励は、元亀天正の荒武者たちの品性を高めるためであり、同時に、幼時から粗暴と云はれる自らの性行の反省修養のためであつたとも考へられる。
信長は荒木村重との初対面に、刀で餅を刺して、壮士ならこれを啗(くら)へ、と云つて突き出したが、後年叛かれてゐる。秀吉は吸収島津氏の猛将鬼武蔵(新納武蔵守忠元)との初対面で、主家のため最後まで戦つた忠節を褒め、当座の賞として薙刀を与へた。渡すとき、自分は刃の方を持ち、武蔵には石突の方を向けて出した。匕首(ひしゆ)を懐にしてゐた武蔵も、思はずハッと平伏して、薙刀を押し頂いたのである。
信長は畏服させたし、秀吉は悦服させた。そして家康は、智慧の力で服従させてゐる。
家康は、関ヶ原合戦の時にさへ、貞観政要を印刷させてゐるし、その後も吾妻鏡を刊行させてゐる。さらに元和元年、大阪方と対戦中に、群書治要を刊行させてゐる。彼の学問好きは、学問の骨董的価値を賞翫するのではなくて、先人が残した治国平天下の要綱に対する研究心から発してゐるのである。秀吉に圧倒的な人気があるのは、よく分る。しかし、わが国二千年の伝統を捉へて、そこに自家の政治の根柢を求め、徳川三百年の太平をかち得た家康は、やはり近世的な大政治家たる資格の所有者と云はねばならないと思ふ。しかし、皇室に対する態度では、秀吉が一番よい。聚楽第に後陽成天皇の行幸を迎へ奉つたことは、どんなに皇室の貴むべきかを当時の天下に知らしめたか分らない。信長も皇室の貴むべきことを心得てゐた。家康は、その転で一番劣つてゐる。
(この「ニ千六百年史抄」に限り無断転載を禁ず)