第一八四号(昭一五・四・二四)
精動機構の改組について 内閣情報部
税制改正によって個人の税金はどう変ったか 大 蔵 省
外貨獲得と農林水産物(上) 農 林 省
新東亜百二十億の貯蓄から 国民貯蓄奨励局
北欧電撃作戦の一考案 内閣情報部
北欧三国と英独ソ 外務省情報部
特別寄稿 二千六百年史抄(一一) 内閣情報部参与 菊池 ェ
特別寄稿 二千六百年史抄(一一) 内閣情報部参与 菊池 ェ
戦国時代
足利時代の末期には、下剋上の実例が到る処に在る。京都に於て、将軍家の権力が、管領
の細川氏に移り、それが亦、細川氏の家臣の三好氏に移り、それが四転して、三好氏の家来の松
永久秀に移り、久秀は将軍義輝を弑してゐる。美濃では、斎藤氏が、その主家の土岐氏を追ひ、
近江では浅井氏が主家の京極氏を圧し、越前では朝倉氏が起つて主家の斯波氏から国を奪つて
ゐる。中国では、大内氏の旗下から毛利氏が起つてゐるし、四国では土佐の一條氏の被官たる
長曽我部氏が勃興してゐる。中国では、赤松氏の権力が家臣の浦上氏に移り、浦上氏の家臣宇
喜多氏が、又之に代ってゐる。関東では、鎌倉の足利氏の権力が両上杉氏に移つたが、その権力
が家臣の長尾氏に移つてゐる。
だから、鎌倉時代以来の大名で、潰れなかつたのは、九州で島津氏、奥州で伊達氏くらゐ
だけで、山名、細川、両上杉、今川、京極、畠山、赤松、大内、九州の少貳、大友、菊池氏な
ど、みんな亡んでしまつたのである。
そして、その家臣もしくは被官の中の実力あるものが、その後を襲つたわけだが、しかも何
等の地盤もなしに、餅起したのは、北條早雲と豊臣秀音のこ人で参る。尤も、北條早雲は駿河
入ん・−たよいづ−は.′−としゆくうけん
の今川氏との線故を鵜りに、伊豆を奪ったわけだが、秀音は徒手峯拳でスクートしたので参る。
との時代の人物をこつに別けると、
(イ)武牌としても政治家としでも一流の人
農臣空口、徳川叡如、織田侶長、宅利元就、北條早琴北條朗呼伊津政索、武田信玄、小
のヌながlと菅亨んlさむねしんげん
たかか畑Vちや’モかペlとちかが●■ふう甘さと
早川隆景、長曾我部元親、蒲生氏郷
(こ武牌として一流の人
けんしん‡つかはもとはるむhしげき▲●■壱▲し。ろ欝l号
上杉託信、青川元春、立花宗堵加藤清正、加藤尉轡覿耶耶厳、島津義弘、黒田長政
みんせい▲▼げ
(イ)に属する連中は、雰音、衆廉以外の人々も、政治家として民政に胡るt人傭の機徹にも
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沌じ、天の利、地の利を得れば、もつと大を為し得た人々で参る。(ヱに拳げた人々は、政治的
しゅhんとほ▼♪がたきつか技もとはるちや’しl¢■
手腕には乏しいが、義理堅く勇敢で、殊に音川元春などは同じ長州の乃木牌軍を息はせるやう
がlさしつはくモきレや’
な剛毅質朴な猛山婿で参る0
もい盲んやlJをけは’lいつくしlか旺ご入9せん
勒圃時代の戦争の中で、租山陽はlニ大戦として桶狭間の戦、厳島の戦、川趨の夜戦の三つを
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拳げてゐる。この中、楓鮒間の戦は、侶長の】址世戦替で参るばかりでなく、天下の大勢にも影
きやういつくし1こうは,かやせん・フぢや丁くhへい
響した。厳島例戦は、宅利氏の輿亡を賭けた戦で参る。川越の夜戦は、北條氏庚が寡兵を以て
げきは.くhいせんモ
雨上杉八常の大軍を襲破した快戟だが、その舌戦場が直ぐ東京の近くに参りながら、殆んど世
じん
人に忘れられでゐづのは、北條氏が亡んでしまつた為めかも知れない。
かばなかじ王がlくhいしゆし9’いつさ’ら
が、この三大戦よりも、川中島の戦争が、有名で参る。これは、参の豪快な主牌の一騎打
こうだいにんきせ,く
が、後代まで人気が参るのだらう。上杉託信は、足に少し引きつりの参る五尺そこくの小姫
●●・)きおモ
だつ托が、その猛気は、敵味方に怖れられてゐた。
普時、哀と妄との戦寧とすれば、幣撃一賭は、もつとも強かつたが、このこ賭と相横の北
さがみ
ぅXや′つらなけんせい
條氏鷹とが、南北の一線上に連り、迩互に牽制し合つて、lニ人とも西方に向つて身動きが出本
なかつたので参る0
こんちんあん・−′ヽ
戦開時代は、一見いたづらに混乳した曙黒時代に見えるが、この中に日本仝固が自ら統一に向
つて、動いてゐたので参る0
ぐんゆ・フ争与フウくh’しりいたrてん
しかも、群雄の胸琴盗ハ通した思想は、京都に出で、皇室を戴くといふJとで参つた。天
亡つおははつらくモんモlめr
日を掩つてゐた雲が除かれたごとく、・足利洛軍が没落ずると典に、皇室食朱の思想が日費めて水
むちゆうぐんゆういたy〆うれい
た。領土涛蝦に歩中に見える群雄達も、鼻宴を戴くに参らざれば、天下に戟令することが不可
能で参みことを、骨心得てゐたので参る。
けんしんじゆげだんじ†,せうひつじよにんてうおん
上杉誅信の如きは、年二十lニの時、朝廷かち従四位下坪正少弼に鎖任されると、朝思の厚き
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に戚敢し、「我坐ながらにして「官俸を受も是恐らくは人臣の大養に翠ノ。・耶勤削して天
カ▲‥dり一●’巾ノ1」r▲りIL一「くかいh−’
はいしや
風首秤謝ゼんJと云つて、ニ度まで京都に上つてゐやじ普時、趨後から京都まで、敵か味方か分
なみ〈
らない固々の間を出かけて行くなどハ並々なら申心がけで参つたq
lI。もとなり奇んh・J・ヽ1ろrしのヌひでくわ,きよし’。・けんきん
宅利元就も、勤島の志が参つ陀し、俄田侶虜は、父侶秀の代から、亀居の修鹿に献金など
してゐる0
急r}せいほ是いぐんゆlノがr▲
枚等に忠誠の志も参つたので参らうが、鼻室を奉戴するのでなければ、群碓を駕御出水ない
ことを知つてゐ陀ので参る。
・】・’はん¢†’らくきや・}モ・,
だから、破固時代の後牛は、彼笹の上洛競足になつてゐたのである。
モの中で最初にゼ削行動のヌ久−トを切ったのが今川義元で参る0
ヽ▲しlと
JV・−く¢や’rせい.めいか
今川家は、下剋上の犠牲にならなかつ灯足利時代の名家だ。義元は相普の人物で、蹴灘叡の
よ’ふ−はウウふつ月
大兵々擁して、・尾浜を簡いて一皐に、.侶長を踏み糖して、京都に入らぎとしたので参る。曹時侶
長は、・尾張二固を蔓へ溌一してゐないし、兵カから云つて今川の敢ではなかつたが、「カ粥ルβ
すてみl_しふよしlといつし・’しゆきふ
・と云ふ檜身の奇製戦洪に依って、彗昔−蹴して、・その首級を雀げた秒で参るゃ
よしlとだた・】亨と’りよゐ
撃昔打倒し陀信長は、義元の壮席だけを承け紐いで、その勒腱の飴威に轟じて、.月湘行動
¢ゆんげ・じ。ウ・−▲フしゆと’めいこ’こ●フh。たみの
の準備を名し、先プ今川から自立した徳川家康と攻■璧同盟を耗んで、後願の菱を絶ち、美漁の
藤藤を浪うて濃針開き、批むの浅井長政に磯を掛して、汝中の不安を除キそのゼ削の.、魂1
一ハいろく●рッばrl
を淫し陀のが、永仙呼丁一年であ々。桶狭間の大腱から一八年日で参る。
ミつむ“rげ・−くルレや・’ち山rけんし血Tくしんこ・,′,ん」▼い
三好、松永などの下剋上の兵除と蓮ひ、h親律の巌粛な新輿兵士とも云ふべき僑長の軍勢は、
しlフがlノ●рゥしんはlノ
京都払は入っても、秋轟も犯さなかつたから、忽ちに上下の侍望を得て、信長の京都に於ける位
澄を、堅貸なものにしたので参るい
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織田信長が、先づ京都に入つて彼の理想たる「天下布武」の第一歩に成功したのは、彼が他の群
ゆlの,伊い月†すyか
l胡に此して、最も地の利を得てゐたからで参る。汲尾の地は、伊吹、鈴鹿の縦走山脈に依つて、
▲†ん▲▼かくrつほと’てlノrん
近畿と隔絶してゐた瀬め、や央政局の汲動から、超戯としてゐるこ上が出本たし、叉本州中部の
けんせいた土Jt・.●し与
上杉、武田、北條の渚勢カは、互に牽制し合つてゐたし、偶々伸びて本た今川には、奇腱する
くhんれいしはせいウl
と→が出本叱。それに足利三管領の一なる斯洩氏の重定家だから、京都の諸事備にも樺租して
けいがん・てつは’lつ壱きさいよ●’
ゐた。その上、薔眼な信長は、新兵器たる銀砲を重観して、鹿先に珠用しでゐる。銀砲を主カ
とし蒜世的脇欝かゝつては、戦固の渚菅手を尉い等雷う。と椅の澄の嘉靂
や。
は、僅かに二三十間だつたといはれるが、それにしても槍のニーニ十借は届kわけだ。銀砲が、腱
さい,てんしや’な〆しのをは●
敗を左右した著るしい例は、天正三年の長篠の戦で参る。しかも蛾砲を武器とする以上、尾張
でつか,hんべいヌつさん人いゆ,じ
卒野は紹好の練兵場になるわけだ。その上、尾張は物産にも紫宮で参る。この英雄兄は、地理的
∧・什−
にも、いろく慈萱れてゐ托のだ0
(この「ニ千大首年史抄」に択り無断輪載を楽ず)