第一八三号(昭一五・四・一七)
少年保護事業の前進 司 法 省
国民政府に対する列国の動向 内閣情報部
勤労所得の源泉課税とは 大 蔵 省
機械技術者検定について 厚 生 省
神武天皇聖蹟の調査 文 部 省
委託又は郵便による戸籍の届出 司法省民事局
市町村義務教育費国庫負担法の改正 文 部 省
北欧に戦局拡大 外務省情報部
戦禍の北欧事情 海軍省海軍軍事普及部
特別寄稿 二千六百年史抄(一〇) 内閣情報部参与 菊池 寛
特別寄稿 二千六百年史抄(一〇) 内閣情報部参与 菊池 寛
足利時代と海外発展
足利尊氏は、後醍醐天皇の御親政に背き奉つて、足利幕府創設に成功したが、その天罰は彼の在世中早くも報い来つて、一生涯部下の諸将を初め肉親との内訌に苦しみ、血で血を洗ふが如き骨肉相剋をつゞけてゐる。
足利幕府十三代を通じても、同じやうな、内訌軋轢に悩まされてゐる。武士階級の勢力を利用して、擅に幕府を樹立したことは、やがて武士階級をしてその勢カを自覚せしめて、下剋上の姿を現はし幕府を蔑視し、自己の好悪利害の赴くまゝに行動して、陰謀叛乱の絶え間なからしめてゐる。その極端なのが、十一年間続いた応仁の大乱であつて、その大乱の余波が全国に及んで、爾後百年に亙る戦国時代となつたのである。
だから、足利十三代を通じて、わづかに太平を楽しんだ将軍は、三代義満と八代義政くらゐであるが、義満は驕奢に耽つて、財政窮乏を切り抜けるため、明と屈辱外交を結んだり、愚物が天下の権を取つたときの見本のやうな事しかしなかつた。八代の義政は、権臣や諸将の勢力から身を避けるために、風流の道に逃避し、下剋上の当時に、やつと一身の安きを保ち得た将軍である。前者が金閣寺を、後者が銀閣寺を建てたのが、日本建築史の標本として残つてゐるくらゐが、せめてもの功績である。
されば、民政の上にも悪政が続いたが、その著るしいものは徳政である。徳政は、元来仁政に基づく社会政策であつたが、足利幕府では、その意味が変つて、重税を課せられた窮民が、貝を吹き鐘を敲いて徳政令の発布を幕府に迫り、一切の貸借関係を一瞬にして、無効にさせるのである。中には、負債に窮した幕吏が、暗に暴民をそゝのかして、徳政令の発布を幕府に迫らしめるといふ有様で、義政の在位三十年に、徳政令を出すこと前後十三回に及んでゐる。かうなつては、信用取引は皆無となり、金を融通する人もゐなければ、現金取引の外、物を売る人もない。経済的にも、万民が困窮するのは当然である。
さうして、窮民が一揆を起すと、鎮圧に赴いた将士の部下が、一しょに掠奪を始めるといふ有様である。その上、応仁の乱が十一年も続き、京都は戦塵の巷となつて、将軍の威令が地に落ちたのだから、天下は分崩して、実力ある者が各地に割拠する戦国の世となることは、当然の帰結であつた。
日本歴史を読んで、この時代くらゐ、頽廃的な感じを起させる時はないが、たゞ一つの欣びは、日本民族の海外に対する膨脹運動が旺んになつてゐることである。
元の来寇を撃退して、わが国民は対外思想を刺戟されると同時に、「日本人強し」の自覚を得たのである。その上、国内生産力の発展や、地方都市の発達から、貿易思想が起つて来たのである。四国や瀬戸内海諸島の士民は、足利時代の当初から萱岐、対馬、九州の北部を根拠として、支那や朝鮮の沿海で、半貿易半海賊の活躍を始めたのであるが、倭寇と呼ばれる頃には、かなり大がかりなものとなつたのである。
倭寇と云ふのは、支那人が付けた名で、日本人自身は八幡船と云つた。八幡大菩薩の船旗を掲けたからである。春は、清明の後、秋は重陽の後、順風を得て渡航するのを常としたが、朝鮮や遼東に向ふ者は対馬から、直隷、浙江、山東に向ふ者は五島から、福建、広東に渡るものは薩摩から出発した。遣唐使を乗せた遣唐船も、三に一つの割で、難破したのだから、八幡船も同じ割合ぐらゐには、途中遭難して、乗組員は魚腹に葬られたのだが、当時の勇敢なる日本人は、そんな事は意としなかつたらしい。
彼等が、海洋を行くや、疾風の如く、遠く安南、シャム、ルソソ、マラッカ、フィリッピンにまで押し渡り、貿易が許されない場合は、忽ち両肌を脱ぎ、長刀を振つて命知らずの奮闘をした。
明の史書には、「国患は倭寇に在り」と書いてあるし、わが太平記にも「賊徒数千艘の船を揃へて、元朝高麗の津々泊々に押し寄せて明州福州の財宝をうばひ取り官舎、寺院を焼き払ひける間、元朝三韓の吏民朗、之れをふせぎかねて、浦近き国々数十ヶ国、皆栖人もなく荒れにけり」と書いてある。少し、大げさかも知れないが、八幡船の猛戚が想像出来る。
欧州でも、貿易の濫觴は海賊なり、と云はれてゐるが、当時の日本に、具眼の武将政治家があつりて、この八幡船隊の活動に、統制と指揮とを与へたならば、日本の勢力は数百年前に、支那大陸及び南方に伸びてゐたかも知れないのである。
日本民族の本能の一つは、常に海外へ向けての発展にあるのだが、それが徳川幕府の鎖国政策で、その跡を止めなくなつてゐたことは、いかにも残念である。
徳川幕府の世になつても、ルソン、安南、シャムなどには「日本の植民地があつて、日本町と呼んでゐた。シャムなどには、寛永の頃には、日本の居留民が、入千人居ると云はれた。山田長政が活躍したのは、かうした日本人を指揮してゐたからである。
秀吉の朝鮮出兵も、その目的意識がハッキリせず、たゞ秀吉の大陸進出思想の現はれとして了つたことは、甚だ残念である。秀吉は、貿易の利をよく知つてゐた男だから、半島出兵などをしないで、これら南方に於ける日本人居留者に、国家的掩護を与へたならば、日本の南方に於ける発展は、どんなに目ざましいものになつたであらうか。惜しみても余りある機会であつたのだ。
維新後、日本民族は再び海外発展を開始したが、三百年のハンディキャップが、いかに我々にとつて、不利であつたか、しみ/"\と感ぜられてゐる。が、このハンディキャップを克服して、邁進する点に於て、われ/\の先祖に劣らざる勇気を発揮すべきだと思ふ。
(この「ニ千六百年史抄」に限り無断転載を禁ず)