第一八〇号(昭一五・三・二七)
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−中央政府会議の経過−
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戦時統制物資講座(一一)
農林水産業用資材 農 林 省
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報国号飛行機の献納 海軍省海軍軍事普及部
ソ芬講和成る
二千六百年史抄(八) 内閣情報部参与 菊池 寛
二千六百年史抄(八) 内閣情報部参与 菊池 寛
建武中興
元寇は、日本の輝しき大勝に終つたが、その戦禍甚だしく受けたものは、戦勝の殊勲者たる鎌倉幕府それ自身であつた。
文永弘安の両役に於ける莫大なる戦費は、勿論、その前後に於ける辺海警備の費用、諸社寺に於ける祈祷に対する恩賞などで、鎌倉幕府の財政は、漸く窮乏を告ぐるに至つた。
それと同時に、幕府を窮地に陥れたことは、文永弘安の両役に於ける戦功者に対する論功行賞の問題だつた。平家を滅した時は、平家方の土地を恩賞に与へることが出来たし、承久の変に於ても、没収された京方の土地を恩賞に与へることが出来た。が、元寇に於ては、その戦勝に依つて獲たる所は皆無であつた。しかも、幕府は、将士を励まさんがために恩賞を約束してあつたのだから、戦後将士の恩賞を求むる者、引きも切らず、その訴訟は、ニ十年間も続いたと云はれてゐる。
幕府が、かうした難関に直面してゐた時、弘安七年北條時宗が三十四歳の壮年で世を去つたことは、北條氏の運命を決したやうなもので、その子貞時は凡庸、その孫高時は暗愚にして、一族の中の内訌相次ぎ、北條氏の衰運は、著るしいものがあつた。
宛(あたか)もよし、京都では、第九十六代後醍醐天皇が、即位し給うた。御即位の当初は、後宇多法皇が、院政を聴(き)かれてゐたが、元亨元年天皇に政を還し給うたので、天皇は御英明の資を以て、記録所を復し給ひ、絶えて久しき御親政の実行ひ給ふことになりた。
天皇は、後の三房と云はれた万里小路宣房、吉田定房、北畠親房の三名臣を初め、日野資朝、日野俊基等の英才を起用せられ、鋭意諸政を改め給うたので、中興の機運勃々たるものがあつた。
しかも、北條氏が皇位継承の問題にさへ、容喙することを憤らせ給うた天皇は、後鳥羽上皇の御志を継ぎ、夙に、北條氏討滅の御計画を廻らせられてゐた。
正中元年、その御計画は、北條氏の探知するところとなり、資朝、俊基の公卿を始め、土岐頼兼、多治見国長などの犠牲者を出したが、天皇は隠忍してその時機を待たせられて居たが、嘉暦元年北條氏の皇位継承に対する干渉露骨となるや、天皇の御決心いよく深く、北條氏討伐の御計画は、正に一触即発の域に達した。
所が、この御計画が、意外にも三房の一人にして天皇の御親臣なる吉田定房に依つて幕府に密告されたのである。北條氏の大兵が、内裏を襲はんとするを聞召(きこしめ)され、元弘元年八月二十四日、天皇は、俄(にはか)に宮中を出でさせられ、ついで二十七日笠置山に御潜幸遊ばされたが、北條氏は、足利尊氏、金沢貞冬、大仏貞直等を将とし、大兵を以て笠置を襲つた。
楠木正成が、勅命に依つて蹶起し、河内赤坂城に菊水の旗を飜したのは、この時である。
太平記に依れば、天皇がおん夢に依つて、正成の存在をお知りになつたとあるが、天皇も宋学に御造詣深く、正成も宋学を研究してゐたと云ふから、さうした因縁で、夙に正成の忠志(ちゆうし)を御存知であつたのではあるまいか。
正成は赤坂城に天皇を迎へ奉るべき準備をしてゐたが、笠置山の間道を知つた賊兵は、夜中山上に達し、火を放つて猛攻したので、笠置は遂に陥(おちい)り、天皇は北條氏の手に依つて、隠岐に遷され給うた。
笠置の陥る前、護良親王を迎へ奉った楠木正成は、笠置陥落後も、開東の大軍を迎へて、奇計を以て之を悩ますこと二十日に及んだが、遂に弧掌鳴りがたきを知り、城に火を放つて、自殺と思はせ、護良親王を擁し一族郎党を引きつれ、風雨に乗じて、姿を暗ました。
焼死と信ぜられてゐた正成が、吉野に兵を挙げられた護良親王と呼応して、赤坂城を奪還したのは、元弘二年の四月であつた。正成は、更に金剛山に千早城を築いて、北條氏の大軍を悩ました。
千早、赤坂、吉野の中、赤坂、吉野は落ちたが、千早城のみは、金剛山に因んで、賊の大軍に囲まれながら、金剛不壊の姿を示した。
しかも、村上彦四郎義光(よしてる)の御身代りに依つて吉野を落ち給ひし、護良親王から諸国の武士に賜うた高時追討の令旨は、北條氏の無力に愛憎を尽かしてゐた諸国の武士に、有効適切に作用して、勤王の志を起すものが、相続いた。新田義貞、赤松則村、伊予のの土居、得能(とくのう)などがそれである。
この間、隠岐におはしました天皇は、名和長年のお迎へを受けさせられて、伯耆の船上山に行幸遊ばされた。
九州に於ては、菊池武時が、探題北條英時を襲つて、九州に於ける勤王の第一声を挙げた。
中にも、播磨の赤松則村は、京都の手薄を知り六波羅探題を襲はんとしたので、鎌倉幕府は驚いて、足利尊氏、名越高家の両将に、兵を率ゐて救援に上洛せしめた。足利尊氏は途中近江鏡の宿にて、密勅を蒙るや、之を秘して、何気なく京都を通り、丹波に入つて、足利氏の所領たる篠村八幡宮祠前に於て、勤王の旗を挙げ、山陰道を上つてゐた千種忠顕の官軍と合して、六波羅を攻めて、之を滅した。
関東に於ても、北條氏の運命は尽きてゐた。先きに、千早の攻囲軍中にあつて、護良親王の令旨を戴いて、東国へ帰つてゐた新田義貞は、義兵を起して鎌倉に攻め入り、北條氏一族を討滅した。時に元弘三年五月である。
此処に、源頼朝に依つて、始められた武家政治は、百五十年にして一旦滅び、輝かしい天皇御親政の御世となつたのである。いはゆる建武中興がこれである。
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