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第一七九号(昭一五・三・二〇)
  支那新中央政府の成立近し
  汪牙ハと新政府への認識
  日支双方の声明
  最近に於ける国共の軋轢      陸軍省情報部
  メキシコ経済使節団の来朝      外務省情報部
  二千六百年史抄(七)        内閣情報部参与  菊池 ェ

 

二千六百年史抄(七)        内閣情報部参与  菊池 ェ

鎌倉幕府と元寇

 平家の衰亡は、武家にして、藤原氏を学んで、大宮人としての弊害を承け継ぐと共に、土地を
根拠とする武士自身の生活を忘れたためである。
 日本に於ける大叙事詩とも云ふべき平家物語に於ける平家の人々の頼りなさと、「風流」とは、
この弊害を、そのまゝに現はしてゐる。
 源頼朝は、前車の覆轍に鑑みて、容易に鎌倉を離れなかつた。
 平家の追討にも、義経、範頼の二弟をしてその事に当らしめ、自分は鎌倉を離れなかつた。武士が、領国を離れ京洛の地に入ることは、その本拠を失ふことであることを心得てゐたのである。木曾義仲が、旭将軍の勢戚を以て、京洛の地に暴威を振ひながら、忽ちにして一敗地にまみれたのも、彼にはよき教訓であつたであらう。
 彼は、建久元年初めて上洛し、権大納言右近衛大将に任ぜられたが、直ちに拝辞した。彼は、たゞ六十六箇国総追捕使、もしくは征夷大将軍として、兵馬の権を握ることに専心した。兵馬の権のある処に、やがて政権も帰属することを、彼は意識してゐたのであらう。
 されば、弟義経と不和となるや、義経逮捕を名として、全国に守護を配置して軍事、警察を司らしめ、又兵糧米徴発のために、各所の荘園に地頭を置いた。これらは、すべて鎌倉と縁故深き、いはゆる御家人を以てしたから、幕府の強固なる統制は全国的に及んだ。また朝廷に議奏の公卿を置き、朝臣を任免せんことを奉請した。かくて、頼朝は、鎌倉に在つて、政権を掌握したのである。
 頼朝が、その武家政治に依つて、天下を統一し、国民生活を安定せしめた功績は、武家嫌ひの北畠親房さへ、之を認めてゐるくらゐだが、朝廷に対する尊崇の念を多少とも有してゐた彼が、日本の國體とは相容れざる武家政治を開始したことは、百世の下、やはりその責任は問はれなければならぬと思はれるのである。いはゆる、大衆間の判官びいきの反動として、世の識者の間には、頼朝を偉人として認める人が多いが、幕府の統制強化のためとは云へ、義経、範頼を初め眷族功臣を殺すこと、百四十余人に及ぶと云はれる彼、又強固なる幕府は建設されたが、彼の正統の子孫が、悉く非命に斃れることを予知しなかつた彼には、どこか人間として、欠陥があつたのではあるまいか。
 頼朝死後、頼家、実朝が相次いで非命に斃れ、鎌倉幕府の命運将に傾むかんとするが如き情勢を示した。折しも、京都には天資英邁文武の諸藝に達し給うた後鳥羽上皇が、おはしましたから、討幕の御計画が進められたのは当然である。これが承久の変である。
 が、関東の将士は、頼朝以来の武家政治を謳歌してゐたと見え、彼等は北條義時の命令一下京都に馳せ上つたのである。
 変後、北條義時父子が、後鳥羽上皇、順徳天皇、土御門上皇を遠島に遷し奉つたことは、兇悪の極みであつて、その不臣は足利尊氏以上でないかと思はれる。
 幕府は承久の変後、院宣に応ぜし人々の所領三千余箇所を没して、有功の将士に与へ、新たに地頭職を設け、幕府の基礎は、更に強固なものとなつた。しかも泰時、時頼等の傑出した人物が相継いで執権となり、鎌倉幕府の全盛時代を現出した。
 承久の変に於ける不臣を敢てした鎌倉幕府が、かくも強大になつたことは、悲しむべきだが、武士の統制機関が出来るだけ、強大となつて、将に来らんとする皇国未曾有の危機たる蒙古襲来に当らうとしてゐたことは、北條氏が、無意識の裡に行つてゐたせめてもの罪滅ぼしであらう。
 蒙古の欧亜征服が、いかに圧倒的で、その勢カがいかに強大であつたかを考へるとき、一島国日本が、彼をして一指も触れしめなかつたことは、世界史上の奇蹟であり、日本民族の優秀性を誇示するに足る史実であるが、その最大の功績は、強固なる鎌倉幕府を統帥した七代の執権相模太郎時宗に帰すべきで、武家政治の罪も、この功績に依りて、少くともその二三割は償ひ得たと云つてもよいだらう。
 時余大勇猛心を以て、蒙古の使者を斬ること数度、承久以来阻隔してゐた朝幕の間も融和し、君臣一如、上、亀山上皇は、御身を以て国難に代らんと、皇大神宮に祈誓を凝らし給ひ、下、鎌倉の将士は驀進して敵艦を襲つて、顧みることをしなかつた。
 弘安四年、七月晦(みそか)より、閏七月一日の夜にかけての大暴風に、敵十五万の大軍は覆滅して、還り得たるもの、わづか五分の一だと云はれてゐるが、十五万の大軍を石築地(いしついぢ)に依つて、よく防禦した将士の奮戦が、やがてこの天佑を待ち得たのであらう。この一大勝報を得た朝野の感激は、如何ばかりであつただらう。
 六十三日間、一堂に籠つて、蒙古調伏を祈つたと云はれる宏覚禅師が、「末の世の末の末まで我国はよろづの国にすぐれたる国」と詠んだのは、その当時の国民的自覚と歓喜とを、代表したものであらう。
 この歌に現はれたる如く、蒙古の撃退は、わが国民の民族的自尊心を向上せしめると共に、海外発展の壮志を呼び醒した。世界の最大強国たる蒙古を撃退した国民にとつて、怖るべきものは、何者もなくなつたわけである。以後、日本の海賊衆は、朝鮮及び支那の沿海に出没し始めたのである。

(この「ニ千六百年史抄」に限り無断転載を禁ず)