第一七三号(昭一五・二・七)
  第七十五回帝国議会に於ける国務大臣の演説
  日米通商航海条約失効       外務省情報部
  電力調整令の発動          電 気 庁
  海上警備の艦船           海軍省海軍軍事普及部
  第七十五回帝国議会に於ける国務大臣の演説
   内閣総理大臣
   外務大臣
   大蔵大臣
   陸軍大臣
   海軍大臣
  二千六百年史抄(一)        内閣情報部参与菊池寛
  紀元二千六百年記念公債と貯金

 

二千六百年史抄(一)   内閣情報部参与 菊池寛

  神武天皇の御創業

 皇孫彦火瓊瓊杵尊が、天照大神の神勅を奉じ、日向の高千穂の触(くしふる)の峰(たけ)に降臨されてから御三代の間は、九州の南方に在つて、国土を経営し、民力の涵養を図ると共に、周囲の者どもを帰服せしめ、之を化育することに依つて、いよ/\興隆の基礎を築かれたのである。
 神武天皇の御世には、その皇化は九州一円に及んで、皇祖の神勅のまに/\大八洲を経営すべき自信と力とを獲得されたのであらう。
 天皇は、御年十五歳にして、皇太子となられたが、御年四十五歳の時に、
 「遼之地(とほくはるかなるくに)、猶未だ王沢(うつくしび)に霑(うるほ)はず、遂に邑(むら)に君有り、村(あれ)に長(ひとこのかみ)有り、各自ら疆(さかひ)を分ちて、用(もつ)て相凌轢(しのぎきしろ)ふ。抑又(はたまた)塩土老翁(しほつちのをぢ)に聞きしに曰く、東に美地(よきくに)有り、青山四周(よもにめぐれり)、・・・余(われ)謂(おも)ふに、彼地(そのくに)は必ず当に以て天業(あまつひつぎのわざ)を恢弘(ひろめのべ)て天下(あめのした)に光宅(みちを)るに足りぬべし、蓋し六合(くに)の中心(みなか)か。・・・何ぞ就(ゆ)きて都(みやこつく)らざらむや。」
と、諸皇兄及び諸皇子に計り給うた。
 諸皇族諸臣達、悉く賛同し奉つた。即ち、舟師を率ゐて、東方へ御進発になつた。
 これは、御東征と云ふよりも、東方への御発展とも云ふべきで、わが大和民族が、理想の大業へと、未知の国土へと、敢然たる大行進を為したことを意味するのだと思ふ。
 日向を出発して、大和に達せられる迄、古事記に依れば十数年、日本書紀に依れば、六年の歳月が経つてゐる。これは、古事記の方が実際に近いのではあるまいか。当時は完全なる船があるわけでないから、沿岸づたひに徐々に東進せられたのであらう。九州、瀬戸内海、大和地方にかけて、既に御稜成の下に、欣(よろこ)んで帰順する者も多かつたが、事理を解せぬ蛮民も多く、途中に於ても、それらに対する警戒平定に、多くの日時を費されたことと思ふ。吉備高島には、古事記に依れば、八年御滞在になつたとの事であるが、此の地方に、古墳等の遺跡の多いのを考へても、此処を仮の都として、山陽四国地方の経営に当られ、武器を整備し、鋭気を養ふと同時に、大和地方の情勢を偵察されたのではあるまいか。大和の長髄彦(ながすねひこ)との御対戦は、古事記に依つても、その御苦戦が察せられる。最初の正面攻撃に、成功せられす、皇兄五瀬命は、敵の矢に当つて戦死遊ばされた。皇兄が戦死された程だから、日向以来従軍してゐる多くの武士を、失はれたことであらう。
 天皇は、これに屈し給ふことなく、紀州の南瑞を迂廻して、南方より大和へ入る作戦を敢行遊ばしたが、時利あらず、潮岬の颶風(ぐふう)に遭つて、皇兄稲飯命(いなひのみこと)と三毛入野命(みけいりぬのみこと)を失ひ給うた。
 稲飯命(いなひのみこと)は「あゝ、わが父祖は天神、わが母は海神であるのに、何故にかくも我を陸でも苦しめ、海でも苦しめるのであるか」と仰せられて、剣を抜き持ちて海中に入り給うたとあるが、このお歎きは、天皇のお欺きであつたであらう。
 此の海上でも、我々の先祖の多くは、皇兄に殉じた事であらう。
 が、天皇は、此のおん悲しみに堪へ給うて、皇子手研耳命(たきしみみのみこと)と軍を率ゐて上陸し給ひ、或ひは敵の毒気(どくき)に中(あた)り給ひ、或ひは熊野の原始林中に迷ひ給ふなどあらゆる辛苦を嘗めさせられたのだ。
 軍隊を率ゐて群敵の中を熊野から大和に入られることなどは、奇蹟的な難事業であると云つてもよいだらう。
 しかも、漸く辿り着かれた大和も、群敵の巣窟であつた。
 頑敵(ぐわんてき)たる長髄彦を初め、八十梟帥、磯城(しき)賊、猾(うかし)賊、土蜘蛛など、兇悪な蛮賊が到る処に、皇軍を待つてゐた。
 神武天皇は、御天性の勇武とあらゆる智略とを以て、これ等を次ぎ/\に征服して行かれた。
 しかしながら、寛宏なる皇師は、これちの者どもに対して、決して殲滅的攻略に出ることはなかつた。
 帰服(まつろ)はぬ者こそ、平定したが、天つ神の子孫が、この中つ古を支配すべき名分を信じて帰順したものには、最大の仁慈を垂れたまうたやうである。
 たとへば、天皇は帰順した弟猾(をとうかし)の献策を用ひさせ給ふばかりでなく、股肱の臣たる椎根津彦(しひねつひこ)と一しよに、敵中天香山(かぐやま)に潜行して、その土を取ると云ふ大役を命じ給うて居られるのである。
 論功行賞に際しても、さうした降臣をも、日向以来の重臣と同様に、県主などに為したまうてゐるのである。
 大和地方を悉く平定せられた後、
 「夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことはり)必ず時に随ふ。苟も民に利(くぼさ)有らば、何ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨はむ。且た当に山林(やま)を披払(ひきはら)ひ宮室(おほみや)を経営(をさめつく)りて、恭みて宝位(たかみくらゐ)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎮むべし。上は則ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまふ徳(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫(すめみま)の正(たゞしき)を養ひたまひし心(みこゝろ)を弘めむ。然して後に六合(くにのうち)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩ひて宇(いへ)と為(せ)むこと、亦可(よ)からずや。夫(か)の畝傍山の東南(たつみのすみ)橿原(かしはら)の地を観れば、蓋し国の墺区(もなか)ならむ、可治之(みやこつくるべし)。」
と詔を下された。
 辛酉正月朔日、橿原宮に即位し給ふ。此の年を日本の紀元とするのである。
 橿原宮の御即位の式には、大伴氏、久米氏、物部氏の祖は、矛を執つて、儀衛に任じ、斎部氏、中臣氏の祖は、恭々しく御前に進み出て、祝詞を言上し奉つてゐる。いづれも、日向以来歴戦の艱苦を顔に刻みつけた戦場生き残りの士であり、その盛儀に列した感慨は、どんなであつたであらうか。
 日向を進発した時の男女で、生き残つたものは、果して幾人であつたであらうか。
 わが大和民族は、神武天皇の御創業時、かくも大なる試錬を経たのである。その間に養はれた如何なる困苦にも屈せぬ精神的骨格、民族としての強い団結力、宗教的にまで高められた天皇尊崇の信仰は、二千六百年を通じて、日本国民性の中核を成してゐるのである。