第一六七号(昭一四・一二・二七)
  昭和十四年の国際政局回顧と展望  外務省情報部
  鉄道貨物輸送の実情       鉄 道 省
  北樺太利権企業の現況      商工省燃料局
  紀元二千六百年元旦の興亜奉公日を迎へる心構へ
  大祓の意義          内務省神社局
  事変第三年の海軍作戦      海軍省海軍軍事普及部
  敵の〃冬期攻勢〃       陸軍省情報部
  青少年義勇軍現地報告座談会
  バルカンの情勢          外務省情報部
  昭和十四年下半期総目録

昭和十四年の国際政局回顧と展望  外務省情報部

   目まぐるしい変転の一年

 ズデーデン問題の余燼収らず、中欧の動揺いよ/\深
刻なるものがあり、加ふるにチュニス問題によつて風雲
の捲き起らんとする地中海の情勢をもち越して迎へた
昭和十四年の欧州は、四年越しのスペイン戦争がやうや
く終末を見て平和の希望が現はれたのも束の間、三月に
は突如としてチェッコの崩壊に瑞を発し、続いてメー
メルの回収、アルバニアの合併となり、独伊枢軸の攻
勢は全欧州を震駭させたのである。
 この情勢に対し、イギリスがドイツを抑へようと、ドイ
ツ包囲政策を進めるや、突如として独ソの提携成り、こ
こに英独の抗争は、遂にダンチヒ問題の爆発を契機とし
て英仏の対独宣戦となり、第二次大戦の勃発を見るに至
つた。
 かくて、ドイツ軍のポーランド進撃と相呼応して、ソ
聯も赤軍を進め、ポーランドは独ソ両国によつて分割さ
れたのであるが、なほも、勢ひに乗じたソ聯は、バルチッ
ク三国を制圧し、さらにフィンランドに迫り、遂にソ芬
の開戦となり、俄然、北欧の事態は急を告げてゐる。
 また、バルカンに於ても、ソ聯のベッサラビア回収が
伝へられ、ソ羅国境を挟んで大軍が動員されつゝあり、ま
さに一触即発の危機を孕んでゐる。従つてバルカンを
繞る英、独、仏、伊、ソの対立は甚だ複雑深刻を極め、ため
に中立維持に苦慮するバルカン諸国の動きも頗る微妙
なものがあり、バルカンの情勢は混沌たる不安に包まれ
てゐるのである。
 かくの如き情勢の下に、英独争覇戦は、専ら封鎖、通
商破壊戦を以て応酬されてをり、未だ西部戦線に決戦
の行はれる模様なく、大体に於て長期戦へ発展しさうな
傾向を示してゐる。しかしこの間、ヒトラー総統の休戦
提議を初め、英独双方に於て、頻りに和平工作も行はれ
てゐるやう報ぜられ、早期休戦説も伝へられてゐる。
 飜つて東亜の情勢を見るに、支那事変は第三年を迎
へて事態は新東亜建設の段階に入り、新中央政権生誕の
機運を迎へて、わが事変処理も漸次具体化されるに至つ
たが、これに伴つて、在支権益を繞る列国の動きはいよ
いよ積極的となり、日英会談が開かれ、日米通商条約の
廃棄が行はれ、ノモンハン事件が勃発する等、事変を繞
る国際関係は一段と複雑を加へて来た。

独伊、中欧制覇の態勢

 新春の六日、チ洪国境に於ける砲声に波瀾を予想され
た欧州の外交は、早くも一月十一日からのローマに於け
る英伊会談によつて幕が開かれた。
 英伊会談は、前年末から持ち越した仏伊のチェニス問
題、及び、終末近しと予想されてゐるスペイン戦争問題が
その中心であつたが、会談の結果は何等の収穫を得られ
なかつた。
 しかし、スペイン戦局は、前年末から最後の攻撃に
移つたフランコ軍は一月二十六日、遂に赤色政権の根拠
であつたバルセロナを陥(おとしい)れ、戦局の大勢は決してフラ
ンコ軍の勝利は確定的となつた。よつて、イギリス政府
は二月二十七日フランコ政権の正式承認を発表し、フ
ランスその他の諸国もこれに倣(なら)つた。かくて三月二十八
日、フランコ軍は首都マドリッドに入城し、こゝにスペ
イン戦乱は全く終末を告げ、昭和十一年(一九三六年)以
来、欧州の平和に大きな不安を与へてゐた禍根が一つ消滅
したのであつた。
 しかるに、三月十一日、突如としてスロヴァキアに勃
発した政変は、遂にチェッコ・スロヴァキア共和国の崩壊
の導火線となり、チェッコはドイツ領に合併され、スロ
ヴァキアは保護国となり、同時にルテニアはハハンガリー
に合併されるに至つた。
 しかも、ドイツはチェッコ合併の余勢を駆つて、三月
二十二日、一挙にしてメーメルの回収を断行し、それと
相呼応するが如く、四月十三日を以てイタリアもアルバ
ニアの合併を成就し、中欧及びバルカンは将に独伊の
制圧に帰せんとする情勢となつた。

必死の戦争回避工作

 チェッコの崩壊に次いで来るべきものは、ポーランド及
ぴルーマニアの危機であると一般に見られてゐた。
 よつてイギリスは仏を誘(いざな)つて、ポーランド、ルーマニ
ア、トルコ、ギリシャ等の諸国に対して保障を与へ、こ
れ等の諸国を糾合してドイツ包囲陣を結成して独伊の進
出を抑へようとしたのである。イタリアのアルバニア出
兵と時を同じうして、英波の暫定的相互援助条約が発表
され、続いてルーマニアその他の国との間にも保障協定
が結ばれた。
 なほ、英仏はソ聯をも対独共同戦線に起(た)たしめるため
に、三月下旬からモスコーに於て三国の交渉を開始した
が、バルチック諸国の保障問題が難関となつて、交渉は
容易に進捗しなかつた。
 しかるに一方二月頃から独波間にダンチヒ問題に関す
る交渉が進められてゐたが、チェッコ崩壊後は、ダン
チヒに於ける独波の抗争が激化し事態は刻々と悪化の傾
向を辿つた。
 かうした情勢を打開して、第二次大戦への危機を避け
るために英独仏等の各国によつて幾多の努力が試みら
れた。四月十四日にルーズヴェルト大統領がヒトラー総
統竝びにムッソリーニ首相に送つた平和勧告もその一
つであつたが、これ等の努力は事態を緩和するのに効果
がなかつた。情勢はますく悪化するばかりであつた。
 しかも、英仏ソ三国交渉は難航を重ねて進捗せず、ト
ルコを繞る英、仏、独、ソの外交戦は深刻を極め、英、仏、土
協定も正式調印に至らず、イギリスの計画するところの
ドイツ包囲陣の結成は頗る困難を来しつゝあつた。
 その上、ポーランドの態度は、英仏等の援助を恃んで
頗る強硬であり、これに対してドイツ側もダンチヒ工
作を積極的に開始するやうになり、大戦避け難しの風
説が頻りに伝へらるゝに至つた。

欧州戦争遂に勃発

 五月六、七両日に亙つて行はれた独伊両外相のミラノ
会談の結果、二十二日に至つて独伊同盟が締結された。
この同盟によつてドイツの立場は一段と強化されたと見
られたが、さらに、ドイツとして敢然ポーランド進軍の
決意を固めさせたものは、独ソの提携であつた。
 八月二十一日、突如として独ソの間に不可侵条約が
締結されることが発表された。条約は二十三日調印され
たが、この独ソの百八十度転廻は、英仏の立場に大き
な打撃を与へたものであつた。即ちこの独ソ提携によつ
て、英、仏、ソ三国交渉は粉砕され、イギリスの計画すると
ころのドイツ包囲政策はその一角が崩壊したのである。
 こゝに於て事態は急転し、二十三日から行はれた英独
の最後的の交渉も遂に妥協を見るに至らず、また、米国
大統領を初め、ローマ法王、ベルギー皇帝及びオランダ
女皇等の平和勧告も、ムッソリーニ伊首相の平和工作
もダラディエ仏首相の妥協交渉も、遂にこの危機を回
避する力なく、ヒトラー総統は九月一日を以てポーラン
ド進軍を命じたのであつた。
 かくて、英仏はドイツに対してポーランド進軍中止を
要求する最後通牒(つうてふ)を送り、ドイツがこれを拒絶するや、
三日を以て英仏共にドイツに対して戦争状態を宣言し、
こゝに第二次大戦の幕が切つて落されたのである。
ポーランドに進撃したドイツ軍は破竹の勢ひを以て
ポーランド軍を席巻し、一方、十七日進駐を開始したソ
聯軍と相呼応して、全ポーランド領を征服し、二十八日の
条約を以てポーランドは独ソ間に分割されたのであつた。
 よつて、ヒトラー総統は十月六日、英仏に対して休戦を
提議したのであつたが、英仏側が飽くまでもヒトラー主義
打倒を強調し、戦争続行行する旨を宣言して、ドイツの休
戦提議を拒絶したので、戦争はいよ/\深刻なる英独の
封鎖戦を演出るに至つた。

ソ聯のバルチック進出

 ドイツのポーランド進撃の機会に乗じてポーランド分
割に乗り出したソ聯邦は、さらにその余勢を駆つて、バ
ルチックの制圧を進め、エストニア、ラトヴィア及びリス
アニアに対して相互援助条約の締結、竝びに軍事的基地
の設置等を要求したのであつたが、エストニアとは九月
二十九日、ラトヴィアとは十月五日、リスアニアとは同
十日、いづれも条約の調印を行ひ、この三国をその勢カ
下に収めた。
 次いで十月十一日、フィンソランド代表一行をモスコー
に招いて上記三国に対すると同様な交渉を進めたが、こ
の交渉は妥結を見るに至らず、十月二十六日、ソ芬国境
に於ける衝突に発瑞し、二十九日にはソ聯軍はフィンラ
ンド領に進軍を開始するに至つたのである。
 このソ聯のフィンランド進撃に対して、英仏は勿論米国
を初め中南米諸国等も、ソ聯のフィンランド侵略を非難
し、十二月三日、フィンランドが国際聯盟に提訴するや、
アルゼンティンによつてソ聯除名の要求が聯盟に提示さ
れたのであつた。かくて聯盟は、先づソ聯に対してフィ
ンランド攻撃を即時中止すべきことを勧告したが、ソ
聯がこれを拒絶するや、十四日の総会に於て、遂にソ聯
の除名を決議したのであづた。

遂に長期戦と化す

 また、これより先、ドイツは十一月上旬を以て、英国
本土総攻撃を敢行するため、オランダに侵入すべしと伝
へられたが、十一月七日、オランダ及びベルギー両国元
首は英独仏三ケ国に対して和平調停の意向を提示したの
であつた。しかし英仏側はこの提議を受諾する回答を発
したのに止まり、ドイツ側がこれに応じなかつたので具体
化するに至らなかつた。その後、一時重大化を伝へられた
ドイツのオランダ進入は中止されたと報ぜられてゐる。
 かくの如く西部戦線は、依然膠着状態を続けてゐる
が、一方、英独の封鎖戦或ひは通商破壊戦は日を追ふて
深刻となり、多数の中立国の船舶がその犠牲となつて、拿
捕されまたは撃沈された。わが照国丸も十一月二十一
日、英国東海岸沖に於て爆沈したのである。
 英仏両国政府は、ドイツ側潜水艦の商船攻撃に対する
報復手段として、ドイツの輸出貨物の一切を拿捕するこ
とを決意し、十一月二十八日を以て公布し、十二月五日
から実施したたのである。
 これによつて、英独の経済戦は一層深刻となり、同時
に中立諸国もその渦中に捲き込まれる危験が非常に増
大し、国際関係は一段と複雑を加ふるに至つた。
 また、ソ聯邦はフィンランド攻略を終れば鉾(ほこ)をバルカ
ンに転じて、予ねての計画あるルーマニア進入を行ふ
ものと見られて居り、ためにバルカンの情勢は非常な不
安に陥りつゝある。
 即ちバルカンに於てはドイツのルーマニア乃至トルコ
方面への工作と竝んで、ソ聯の黒海政策、或ひは汎スラ
ヴ政策が進められ、十二月に至つてソ聯とブルガリアと
の間に航空協定の締結を見るに至る等その進出目ざまし
きものがあり、またこれに対しイタリアの中立ブロッ
ク工作があるが、英仏も十月十九日、大戦前よりの懸案
であつた英仏土の相互援助条約の調印以来、独ソの攻勢
を阻止すべく、非常な努力を試みて居り、これ等列強の
工作が錯綜せるバルカンの情勢は大戦の帰趨を決定する
ものとして重大視されてゐる。

アメリカの態度

 今次の大戦に直接間接に重大な役割を務めてゐるアメ
リカは、既に十四年初め、第七十六議会に対する大統領の
教書に於て、欧州大戦勃発近しとして軍備の大拡充竝
びに中立法修正等が示唆されたのであり、早くも大戦に
処する態度が重大問題となつてゐた。
 かくて中立法の修正問題は七ケ月に亙つて論議された
のであつたが、遂に七月十一日、上院に於て一切の審議
を次年一月の議会まで延期することが決議され、欧州大
戦勃発近しとのルーズヴェルト政府の主張は孤立論者に
よつて否定されたのであつた。
 然るに九月、遂に大戦の勃教を見るや、アメリカ政府
は五日を以て中立を宣言すると共に中立法を発動せしめ
たのであつたが、一方直ちに中立法修正のために特別議
会を召集した。よつて新中立法は十一月三日議会を通過
し四日を以て実施され、自働的禁輸条項は廃止され、現
金払自国船主義は復活されて、こゝにアメリカの英仏側
援助の体制が整へられたのであつた。
 さらに全米州諸国の大戦に対する共同の措置を協議す
るために、前年のリマに於ける汎米会議の決定に基づ
き、九月二十三日よりパナマに於て全米州二十一ケ国の
外相会議が開催され、全米州沿岸の水域約三百浬に互る
海上に於ける交戦国の戦争行為を排除することを決議
し、なほ、各国の戦時下に於ける財政経済問題を協議す
るために、ワシントンに財政経済委員会を設置すること
を決定したのであつた。
 このパナマ会議に於ける水域三百浬内に於ける戦争行
為の禁止に対しては、英仏側を初め各方面に於ても相当の
異議があつた模様であつたが、十二月十三日ウルグァイ沖
に於て行はれた英独海戦竝びに独艦グラフ・シュペー号の
自爆事件に対して、米州側はパナマ宣言の違反としてこれ
を問題視して居るのであり、その成行が注目されてゐる。

支那事変と帝国の外交

 第三年を迎へた支那事変は、わが国に於て一月五日、
平沼内閣の成立を迎へて愈々新東亜建設の段階に入つた
のであつた。
 しかし、これに伴つて第三国との関係は頗る復雑とな
り、前年末よりの在支権益に関する問題は相当深刻な発
展を示し、恰も、一月以来天津、上海、廈門等の各租界
に於ける抗日テロ事件の悪化は、遂に五月十二日、廈門
にわが陸戦隊の上陸を見るに至り、六月十四日を以て天
津租界の封鎖が断行さるゝに至つた。
 かくて七月十五日より東京に於て日英会談が開かれた
のであつたが、この会談は遂に完全なる妥結に至らずし
て月末に至つて決裂したのであつたが、しかも、二十六
日、米国政府は突如として日米通商条約の廃棄を通告し
て来たのであつた。
 然るに、一方欧州に於ける情勢は悪化の一途を辿り、
その情勢は頗る複雑を極めてゐた。こゝに於て予ねての
問題であつた防共枢軸の強化も、八月二十三日、独ソ不
可侵条約が成立するに及んで白紙に還元するの已むな
きに至り、ために平沼内閣の辞職となり、八月三十日阿
部内閣の成立を見たのである。
 しかも、九月三日、英仏の封独宣戦を見るや、四日、政府
は欧州大戦に介入せず専ら支那事変の解決に邁進する旨
を中外に声明して帝国の立場を明らかにしたのであつた。
 なほ、一方日ソ関係に於ては、前年よりの漁業交渉は
頗る紛糾し、やうやくにして四月二日に至つて妥結を見
たのであつた。然るに六月上旬よりノモンハンに於ける
ソ蒙兵の越境事件が重大化し、遂に七、八月に亙つて日ソ
間に大規模なる戦闘が開始されるに至り、事態は極めて
重大化したが、やうやくにして九月十五日、日ソ間に停
戦協定の成立を見、引続き日ソ満蒙間に国境確定に関す
る交渉が進められてゐる。
 なほ、支那に於ては汪牙ハを中心とする新中央政府の
誕生が着々として進められつゝあり、これに伴つて第
三国との国交整調の機運が動き、曩に決裂した日英会談
も再開されんとする事情にあり、また米国との間に於て
も通商条約問題を繞つて微妙な動きを示してゐるのであ
るが、恰も、十二月十八日野村外相は米大使との会談に於
て、予ねて英米側の要望してゐた揚子江竝びに珠江(しゆかう)の開
放を近き将来に於て実現すべき旨を言明されたのであつ
たが、かくして国交整調問題もやうやく本格的の進行を
示しつゝある。