第一六七号(昭一四・一二・二七)
  昭和十四年の国際政局回顧と展望  外務省情報部
  鉄道貨物輸送の実情       鉄 道 省
  北樺太利権企業の現況      商工省燃料局
  紀元二千六百年元旦の興亜奉公日を迎へる心構へ
  大祓の意義          内務省神社局
  事変第三年の海軍作戦      海軍省海軍軍事普及部
  敵の〃冬期攻勢〃       陸軍省情報部
  青少年義勇軍現地報告座談会
  バルカンの情勢          外務省情報部
  昭和十四年下半期総目録

 

青少年義勇軍 現地報告座談会

 昨春四以月来[ママ]、大陸開拓の重責を荷つて満蒙開拓義勇軍の若人が続々渡満してゐるが、現地の実情はどうであらうか。視察者の報告だけでは不充分なので、現地訓練所で一農年を過した訓練生の中から、一道府県一人づゝ合計四十七名を呼び戻し、故国の各地にその実情を報告させた。これは拓務省主催の座談会で彼等が語つた現地の実情である。

義勇軍を志望した動機と現在の諸君の気持を・・・

稲田繁君(山形県出身、北斗訓
練所) 私が義勇軍に志願した
動機は、満洲で百姓をやらうと
決心したのであります。なぜ満
洲で百姓をやらうと考へたかと
いふと、内地の農法、現在の農
村を見ますと満洲の方がよく、
また我々が満洲へ行くことは国
策の線に沿ふと信じたからであ
ります。
 現地の訓棟所に入断した曹時
一ん
は、内地で考へてゐたのとは全
.‘ん
然邁つて、訓棟断には郎郁融し、
かなく、私達が自分蓮の替管の
捷築から始めました.それで去
年は建築に迫はれて何も考.へろ

噂はありませんでしたが、窺在
は、内地にゐて考へてゐた満洲よりも
もつと決く、相普に研究する飴地もあり、
相普に耕しいものだ、それだけまた我々
の仕事にも紫しみがあるとそんなことを
.考へて居ります。
音8久♯モ(石川瀬出身、大崗訓棟所)
私は高等小畢む牢業して歯科甘の家で
▲rこ,
鼓エの見雪をやつてゐましたが、非常な
▲たいくつ
退屈を感じました.その所偶く官少年我
勇軍の昇集があることを知つたので村に
拝り、島業の先生に満洲の事情を聴いた.
のであります.そして満洲は自分に持つ
て来いのところであると思つて、お父さ
んやお母さんに麻つたのでありますが、

.ど弓しても聴いてくれません。それで軋
の幹しを受けずに麻書を出したのであむ
ます。それまでに心が決つてゐたもので
すから親も巳むなく許しました.
’IイV▲
頚川へ行きますと作業なんかで尉難を
先・乙たことがあつたのでありますが、今

19

摂り返つて見ますと、この閃耕が一番措
しいことであつたと思ひま†。▲今日では
し●′ヽし†
沖常に立瀕な宿令で、農作物の収捜も十
分であり、食掘の方には心配は要りませ
ん.
貯弥大入郡君(熊木喘は身、李家訓棟
所)私ほ嬰稗時代子供心にも、満洲とは
一稚どんなところかと考へて居りまし
小Jいふは.汀
た.】畢枚を卒業し家庭で家業に勅んで居
りましたが、どうしてもこれから先は浦
Z仰でないとやつて行けない、決い日太で
ほどうしても暮して行けない、さう思つ
たので親にも言はずに義勇隊の試験を受
竹たのであります。いよく出蟄の日に
しJ・,」だく
なつて父母に承仙汚を求めましたが、h現も
私の決心にひかされて漸く許し、「ぢや一
且開を出たなら灯一人前の人間になろま
とぐ一_●左
でこの家の声′口を跨いではいけない。しと
いはれまtた。
てつれい
七月三日錬腐訓棟所に入所しました
が、入つて見れば‥恩つたより意外の‖菅心
てん▲_こん▲けん
をしたのでありま†。天地根元作りとい
ふ虜に入りましたが、.ハラックで雨が降
.1
れば漏る、何の設備もない家で暮して居
りましたが、月日が軽つにつれて「ア、沸
…洲に来て自分は木常によかつた、日木に
ゐた時よりもよい.」とこゝで溌く感じた
のであります.
甘材頻モ(稲岡瀬出考稚銀訓鰊所)
私はお恥しい常ですが、滞洲へ行つて何
をやるか、目的といふものを十分費し
†・♪ひ
て居らず、たど庚い満洲、赤い夕陽のh涌
▲;し小
洲に蜂れて義勇軍に参加しました.入所
以潔一年有牛、その間に義勇軍の使命と
たいけん
いふものを鳩教しまして、我々の賂来の
使命、我々背年の行く途、進むべき途に
かいたく
ついて同いく開布精紳を礁得致しまし
た.義勇軍入所前の自分の心と、一ケ年
牛の訓辣後の柏現在の心とを此校してみま
、んど1フ
すと、その間に大きな心の襲動を襲見し
て、訓稚の有難さをしみぐと感じます。
*年の宿舎速設の就茨を
−つ==
九津芳者(茨城糠出身、大林訓棟所)
去年の柄舎は今年のものに較べて木普に
†ンド〃■たl▼く一_
慈かつたのです.温突の焚口が窓くて宿
脅の中が墟り、それに壁も恵いので、壇に
むされながら朝起きて見ると蒲一屠の上に
一霜が降つてゐるやうな釈況であつたので
′−ろ小T
あります。今年の建築は壁も掘壁でなく、
●へ!一▼
チ十シとした白費であり、焚口も室内に
壇が入らねやうになつてゐます.
内♯‡者(長野辟出身、伊拉恰訓練所)
去年の訓練所も別に恵くほなかつたので
†が、今年のは望み以上のものが出来た
と思つて居ります.
大棟邦次者(佐賀鞍出身、蔓爾園訓錬
所)咋年は九月七日に▲蒲が降り簑くなつ
て釆たのでトビース(土で作る捷瓦)を作
小・)・モ与−
るのに榊鞭Lて」能く乾塊しないトビース
●ンrルしつ●
で作つたために渦突が料気を合んでゐる
▲r叱〜
枯兇、落込んだりして懐突が温まらず褒
つもかT
かつた。それに土壁だつたので部屋の申が
いん・,つ
曙くてとても除欝でした。今軋払は自壁
で窓も二玉ガラスであり、とても明るい
ものであります.
訓棟併の病院はどんな横
」標でナか
斗田光雄者(三重粍川身、恰爾渓特別訓
ハル′_ン
棟朗)恰爾済訓棟所は大訓棟所に類ナる
もので、病院ム鰍郁那の病院と、義勇隙の
!●〜一lし●
柄院の〓つがあります。その外休慈苓も
あります.外科、内科、歯科の先生が三人
と肴韓婦さんその他助手の方が五六名居
られます。柄気は内地にゐるとき串かつ
た方が、現地に行つて少し胸の病に掛つ
小.‘
た者、その他風邪が少し重くなつたもの
わ▲■が
が主で、その他腋臭を手術した人が十人
ばかり入臨してゐまナ。夏にはアミー.ハ
赤痢で入院する人が相曹居ります。十二
月に入所した音い中隊Yそんなことほな
いのですが、新らしい巾隊ほ七月に入折
して急に暖くなつたので、作業に行つ
▲りど
て嘲喉が乾き、飲むなくといはれてゐ
る水を飲んでアミーバ赤痢にか1つたの
です。
拷擦設備ほ整つてゐるし、看護は十分
に行屈くし、大抵軽いのは一ケ月以内で
ハルビン
治りまナ。五い人は恰爾洗の中央輌院に
入暁することに々ってゐます。中央病院
には今年その設備が出来、全満の訓棟所
から相葦い撞椚朱の人が入院してゐま
す。
開柘者のみんな囁る例の
屯蟄病のことを話して下
さい===
_甘正男モ(岩手鞍出身、繋川血訓棟析)
たとひ小さな日木海姦えた満洲であつ
ても生れ故郷を離れてゐれば、大人の人
とんこんぴ●・’
でも必ず故郷が恩はれて、つまり屯墾病
にかゝります。義弟軍に屯墾柄が多かつ
たのは年が若いせいと、これまでの親地
生清が殆んど建設に迫はれた忙しい苦し
い生汚であつた焉めではな心かと思ひま
‘いふく.
す.どうしてそれを征服したかといふと、
家の父母から来た手紙による人もありま
‥しゆんI・一l−●I′−
†し、先生方の辞々たる御詮しによる人
もありますや・つで御座いますが、績局あ
とん’−んぴ一T’
る一時期を過ぎると私蓮ほ々の屯盤病
から枚け切つてしまふのであります.さ
弓して枚け切つた時は前以上に閑蕗地に
しムも●くしん
執芳心を持つて来ますから、私は屯塾
病は決して私蓮の名めによくない、閑蕗
‥レ●●●
の邪魔になるばかりとは言へないと思。
ます。
甘♯大入坪者僕の中隊にJ患ほあ
りましたが、.瀾いてみると「俺ほ沸洲に

20

来て牛年になるが、まだ家から手紙も来
ず、何度山しても返寄がない。それで僕
もかうしてやつて架たが、どうしても働
小ひ
く甲斐がない気持が†ろ。どうぞ僕の家
へ手紙を出†や・つに玖んでくれ。」と市三
頼むのです。椛まれて手紙を書いたこと
が二三適ありま†が、「病気をしてゐて
存分に手が埠らないからどうぞ激働の手
統をくれ.」と彰いてやりますと武ぐ来ま
した.その人も元親づいて今では人に負
けない働き舵りをしてゐます.
谷川正lモ(硝非粍帖身、紫陽訓棟析)
自分も憤験賓の一人ですが、浦洲へ行つ
たら無茶昔茶に内地のお父さんお母さん
のことが思ひ伯されて日木海がなかつた
ら飛んで蹄りたいやうな気持がしまし
とんこん山丁●I
た。しかしこの屯繋病も日本人であれ

\小、
ばこそ罪るのだと考へます。西洋人は個
人主義で、家のない者は決してこんな病
気は起さないと思ひます。家からよこす
お母さんの伐り、小撃生から叔く撒働文
の外には「築」といふものは御馳いません。
私の治つた「染」はお付さんからの手紙で
あります.養勇軍に入つてはじめて母現
の有難酪が分畑ました。
大林二即者(愛知僻伯身、大和訓棟所)
一t●−4
僕は屯艶柄に一渉足を人れ損つただけで
†が、チプスの熱のやうに家から手扱が
来ると上つたり下つたりするのでありま
†。手紙が来ないときはl日に十通ぐら
ゐ手紙を智いたことが御座います.今で
か・
はも・つ秤りません.
蛾邁自響村の訓練併のお話皇
津谷車入者(秋円垢川身、務環訓糠併)
▲いぐんわ,ごん‥レ
入月に大洪水があつて球輝と賀金子の
間が山朋壊して域造が不通になりましたの
で、私速巾隊三官人の者が三日三晩室夜
けんか〜
乗行でエ車して四日目に復苫しました。
ん“●
列串の爽客には訓練所から三度々々炊

はしをして蓬びました.その時は我々も
漸く牝間から諷められるやうになつたと
菩びました.
池*久男者(穂島蝶出身、迫分錬慈自管
村訓棟所)今年の七月十一日の零時牛
替詫隙本都から電♯が来ましたので、一
つの辞に五名なり六名なり、七ケ所に分
小ん
れて、接逼治操の替備、鞭軋魂琴防婁監
し‘lフ
祀唱の佗置についたのでありま†.それ
を約〓十九計の聞圭夜擁けてやりまし
た」
■香北の方で持別地苛にある
大額訓練併の就茨麦・‥・
佐久問丈作者(宮城鞍出身、大額訓溌
‡い付くたん
所)あの附近は北緯五十床む趨す最北瑞
であります.どうしても今まで収穫したこ
とのない作物や絹を作らなくては島家七
して立つて抒けないといふわけで〓町五
一●
殴程作りました。太陽勲を利」用して蒔い
た稽が、今度立洗に収硬を得ました。あ
▲l_′ヽ
の地帝ほ土質は他上り怒いので†が、作
lつ
物を作り得るだけの自信がついて居りま
にんい∨ん
ナ.作物を大分緑づて来ましたが、人参・
は内地では見れないこんなに大きな、し
かも内地のより良い人拳、その他いろい
tモい
ろの稟も十分に作ることが出来まし・
た。
黒龍江の向ふには堂々たるプラプエの
町が見えます。白分達は漁業砺といふも
’■け
のを作つて黒龍江のまん中で鮭やその他
の魚を取つて来て食べます.そのために
蟄動磯船二竣を又ひました.他に小胎三
♯があります。先だつて襲動機船の一叔
が、蟄動槻が動かなくなつて流され、ソ
帝兵にとられてしまひました.向ふ岸へ
五十米程壊近したところソ聯兵が来て糖
の中へ乗り込んで来た.出口が一つしか
ないので乗つてゐた三人ほジツとしてゐ
て、ツ斬兵が降りて来て引張らうとした
はだ小
時、裸になつて河へ飛込み堂々とこつ
ちへ泳いで来た.あんなことほ義勇羊
でなくては出来ね仕事だと思ひます。
(拍手)
どんな方法で増作皇やつてゐ
ますか
後山♯♯‡(長埼蠍出身、皐旧拳鼠訓錬
い音Jヽ
所)棺作といつても▲浦洲では簡畢であ
ります。内地で湾を作つてゐて満洲へ行
つてぴつくりしました.どんなにするか
一けん●
といふと、庚いく原貯がある。そのちよ・
・▲一
つと平たいところばかりに呼を作じる.それ
に水を入れる.二三日洞してから草を沸つ
丘r’●−
て少し均しただけで種を蒔く。山帝いただ
けで穂構もうズソく出て釆る。
最初はやはり、革が茂つて稽が≡寸ば
かりの時室丁が五寸にもなる.それで棺の
項の迎まで水を人れて、長さ二尺五寸か三
小∫
尺、柄が一問位の銀で.ハサツとやる上革
全乱鮮にとれて港ひます・すろと稽の
方がどんく生えて来る.そのうちに‡
ほ楕に押されて自然になくなつて抵廿ま
’●
す.それで草耗りはt別に一同位したらい
ひ一▲
いのです.稗が津山あつてこれをとるの
が一菅弊ですが、ニ度位で済みますかち
頼構で、内地同様とはいへませんが、大
▲Iん
差ない好鴇果を得られます.殴常エニ亀.
乃至四俵で、米の管大して感くほあり
ません。手不足ですがもう少し考へれば
内地と菱りありません.
允山●
内地では二虎も三床も桝し、その上此
料を施したりいろ〈なことをします
が、満洲でほたゞぱら蒔いてこ三べん草を
とれば鈷構一人前の相がとれますっ肥料

をかけたら全然仙笹れません.蒲洲では浬
小’
くとも十月の中旬下旬までには苅取らな
いと霜でやられますから肥料をやろと⊥育
いうちにやられてしまひま†。それで窺
もひ≠,
在でほ十年位は水円は無肥料で頼構出来

21

るといふ確仔を得ました.ノ水田は牛島人
の方が現在では上手です。
貯藤大入即者僕等の訓棟所の傍に川
ふ.つた王ソ
といへば川、水渦といへば水溜のやうな
ものがあつて、・そこら一背の土を接道エ
lTゐでん
事に凋つてしまつた。その跡へ水田を作
ら弓と種を帯いたのです.その蒔き方が
▲Iは●レろ
内地の簡代のやぅにたゞバラ帯く、その
,′と
ま1他ゑて置けば立溌に自分で肥つて行
Jく.僕等の方ほ革も大鳩苅らなかつた.
今年の十月牛ばに収稜したらl揆とない
ところで二≡俵あつたのです。
内藤‡革農業のことほ満洲でも内地
モくlつ
でも作物に奨りないことは私が許明し
阜T。満洲で出末ないといはれてゐる
小んし一モとい・l
甘舘、里苧、山苧等が咋年訓練所の試作
地で見事に出来ました。それから内地
ほ九レ†,
′√」セは肥料をし漣すが、自分蓮の方渦望餞
な土地で別に肥料をやらないで何でも州田
罪ちのをぜ際瀬灘く思って居りますJ
満洲は五旗協和の園ですが、
満人乏どう見ますか
我山繁義君附合つてゐろとこつちの
や小た●‡
出方によつてほ向ふはどんなにでも儀し
い.こつちから正車に行けばとても正直
に出て来る.一年牛向ふにゐて内地へ舟
ろと、内地の人より満人が附合ひ易いや
’こ
うな泉がしま†.内地の人ほ利己主義に
尭り挽徳に走つてゐるからち上つとした
けム」V
ことでも感清に尭る.五族協和ほ第一日
太人が愛を以て温く、即ち日太精紳が最
も肝套だと信じます.
高臥徳重君(栃木蝶出身1孫典訓礁所)
始めの頃は晋糞が分らないし、政な日
つきだといふ感じで飴り親しまない.豚
なんか渾山あるんだからl頭ぐらゐ上
しっけい
.からうといふので失敬して来るものもあ
・り、そんな関係で親しまない.その頃は
′Iレン
恐れてゐたせいか自分蓮を大人と冨つて
一一Irシ†★ハ一「
ゐたのが、この頃では個的小接(子供)
と友達にされてしまつた。不思講に恩つ
つ′か
たのは満人の馬がみんな片目波れてゐ
る.満語が分るやぅになつて閲いてみる
ひかヽく
と、曹匪舷が淳山ゐて直ぐ馬を敬襲すろ
つ‘
ので、取つて行かないやうに洪したとい
ふことです。
井上敬之者(山梨聴出身、南山市訓棟
いa
所)‖冶めて満人の家に行つた時は異臭
′ヽわん・lい
がして入れなかつた。敬待してくれます
が、お茶なども汚い油の浮いたや弓な茶碗
で飲む気になりません.今でほ平気です.
1津芳者蓬動合は満人と一拷にやり
ます.ぶ祭の時には浦人はロ木人を敬迎
して御傲を出して無理に食べさせる.満
人の方から日満親事といふ宣葉を晋つて
しん小▲′
来る.何虎へ行つても日満親交を叫んで
ゐろ々い行つた時沸人が8の丸を持つて城
門の所へずつと並んで最敬線をして迎へ
て英れたのには感謝しぜした.
姪申功章者(層鳥晦出身、寧安訓棟析)
始めは漂か日本語を数.へてくれとい
ふ、儀等も満語を教へてくれと習ふ−お
正月に浦人が御馳尭するかち是非来てく▼

れといふ¢で中隙全負で符つた。彼等が
とくd
由浦l穂一心と大きく事いて窓口に粘つ
て置く。満人からかう叫ばれるのでは僕
等もたゞでは見てられないといふ気持に
なります.
橘缶繁者一拷に暮してみて自分蓮の
心持を劉合つて見る、これが大事なこと
ではなからうかと思ひます.
慰間郎、報蕪朗について
篠山筆♯者義男軍硯察とか、移民顔
覿察とか冨つて来られますが、・一定の
コースだけ、それも埠道附埠、義勇軍で
ハル}−シ
官つたら吟爾渓あたりをちよつと見て、
いろくなことをたつた一日か、牛日見
,,一けん
て内地に帝りいろくな塗甘雀飛ばす・
硯察に来たち庚範園に亙ろよりむしろ一
ケ所にゐて木普にそこの梵情を調べるこ
かんl・フ
とが肝妥ではないかと思ひます柏行かれ
ろならなるたけ山の奥のやうなところへ
行つて、そこにゐる青少年を汲励して茸
つたら最も敷果が琴がると思ひます..
衣食佳についての希望
▲−いL▼†
甘♯大入軒者自分等の掌ほなかな
か設備が盤つてゐてどんな裳い時でも
ル川だ小
裸で暮せるや弓になつてゐる。何の望み
もないのですが、た々一つ、部農に天皇
陛下の御せ影をどうか御願ひします.
はい●ふhVん
竹田♯者普通現地の配給品は一夏服、
多服、防衷服、手袋、シ†ツ、その他日
用品の要るものは一月にl岡づ1決つて
ゐる.いくら塞い時でも十分でありま
一い▲▼’
す「その他必要なものは何でも符求して
し小,ひん
くれろので不自由はあ寸ません。嗜好品
し●d”りん
としては今度潜保券が出来ました.現在
のところでは小魂は一銭も妥らない有
櫻です。
・好頻大入即者∵庚等は竣慈自管村で朝
l●▲は
は米の御飯、丑夜は変の蜘飯、時には莱
の御飯か−食べ・てゐますから、穐封に食物
の心配はありません.
竹汚♯肴今度内地・へ符つて旨い御飯
を食べようといふ考へで汽車の中でも真
べたけれども、上品ではありますが本曹
の昧ほとても義勇陳の御飯や味せ汁にほ
及ばない・大抵適は淑鮎に味噂咋壷は
にりけlのlln一−
煮付物、魚、夕飯は味甘汁ですが山盛二
杯ぐらゐあります」内地に来て義勇隊の、
御飯がとても旨いとつくぐ感じまし
た.