ー 持 別 寄 稿 −
 『天 皇 ノ 名 工 於 テ』
                       尾 佐 竹   猛

 大日*帝国寮法第五十七備には「司法権ハ天皇ノ名
−1於テ法律エ依X裁判桝之ヲ行フ、裁判所ノ構成ハ法
律ヲ以テ之ヲ定ム」とあり、すべての・官吏は 陛下の
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随條たるに、特に司法官に眠り「天皇ノ名二於テ」と規
定せられたるは、良き極みにて、如何に司法権に重き
            】−】柑一み■し−▲ワ
 を低かせ給ふかの大仰心を禅察し奉るべく、司法官た
                         ‘い し
 るものは、唯々感激、以て奉公の至誠と毒して、重曹
 忙‥刺ひ奉らなくてはならぬ.
 故に、裁判所構成洩施行五十年記念忙際し、この有
          くわい‡▲フ
 難き條文の由米を周想するに、これは憲法以前に、
 今の裁判所構成法の前身ともいふべき「帝圃司法裁判
                l ■一l−▲T,
 朗構成法」が超革せられ、その第−傭にr凡ゾ裁判権
 ハ天皇ノ御名ヲ以テ司法裁判所之ヲ行フ」とあつたの
             とрオ」アT
 である.これに付き法律取調委出貝の間では、これで
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 は、裁判音に御名を書き添へるやうに]見えて穏常では
     くん ▲▼
 ない、勅記等に御名を御書き.忙なるのと混」同され易い
 といふ議論が起り、文輩を練り直すこととなつたが、
 一方磁址が起革せらる1こととなり裁判所構成法の
 こん小ん
 根幹たる此の條文は、憲法にその地位を占むること
 となつたのであるが、その最初の案では「裁判ハ尊法
 律三位ル、裁判官ハ天象ノ名代トシテ共職抒ヲ・行フ名
 言不稲ノ柑ヲ有ス」とあつた.然るに裁判官は天皇の
 代珊者ではない、裁判の決定を君主の名を以て立合
 するに過ぎないのであるとの試論が出て、「裁判ハ法
 律三伏り天皇ノ名ヲ以テ之ヲ立合ス」となつたが、
 また「司法権ハ天皇ノ名ヲ以テ裁判朗法律二依り之ヲ
 施行ス」と修正せられ、更らに「司法権ハ法律二依り
 天由ヲ名ヲ以テ之ヲ施行ス」と改まつて憲法合議に捉
 山川せられ、これには
 抑々君主ハ裁判官ヲ使命シ裁判析ハ君主ノ名魂ヲ以
  テ裁判ヲ立合スルニ拘ヲス君主自ラ裁判ヲ施行セス
   ▲ l†
 不礪ノ裁判所ヲシテ専ヲ法律二依迩シ威樺ノ外二之
  ヲ施行ヤシム是ヲ司法権ノ礪立トス此レ乃チ三憶分
  立ノ誼二依ルニ非スシテ仇不易ノ大則クルゴーヲ失
  ハス云々
 といふ理由が誰明となつて居つたが、これに封し、委員
 曾より現行法文通りの修正案が提出せられ、その委員
 の一人たる司法大臣山田押韻は「法律に依り天皇の名
 を以てとあるのは穏かでない.」とその修正の理由を主
 張したのである.成稗原案では、法律の方が天皇の上
 に凍るが如く讃まれて不都合であるから、一同、この
 修正に賛成し、「天皇ノ名二於テ法律11依y」となり、
 また「施行ス」が「之ヲ行フ」となつたのは、裁判析構成
 法の川例に従うたのである.
  斯くて有難き條文は出来上つたものの、司法権の還
         しん‥しん
 用に付いては深甚の注意を川珊はなくてはならぬから
  山悶司法大臣は「裁判長は如何に精選すればとて紳
  では舛く人間である、人間である以上は時とんては
  聞速つた裁判を下さぬとも限らぬ、其れを天皇の
  名に於てすとは如何にも痛心に堪へぬ」と論ぜられ

  云々
                     み つく■ワーんし†▲▼
 司法大臣は軍人であるが、次官に箕作燐群といふ
 法律拳者が居たので山川伯の詑蛙最も聴くべき椚値
 があつた(抑眼蛇故)
                                                  幸
とは金子伯の述べらるゝところであ絹「山E地相の杷
 い−
 薮は、司法官たるものの、恐れに恐れて日夜に反省す
 べきである.
 扱てまた、右の窓池條文の第二項に遊づき裁判斯様
               は,γ▲てん
 成沈が、憲法附属の大池興として敬布せられ、こ1に、
 司法柚の確立を見たのであるが、この有難き條文の趣
               灯▲7ト●▲フ
 旨を奉戴すべく、判決原本の胃頭に、御紋章と「天皇
                              −モん
 ノ名二於テ」 の文字が先にて印刷せられ、族として
 くわ〜主い                    ‡す▲ん
 光杉を放つたのである.始め裁判所構成法革案第−
 條の講事のときにも、その書式に付き試論があり、審
 式として掲ぐる必婆はないと小ふ詮も出で、いづれ細
 別で規定するといふことであつたが、斯く極つたので
 ある.昭和三年忙司法却へ行襲のあらせられた際、此
 の郡の判決原本を天野に仇し率つたのであるが、金子
   らいくわん
 伯も雑駁せられ、茸は、自分も判決曹の何鬼に普くの
 か知らなかつた。或ひは最後の音波の日付の虚へでも
 普くのかと思つて居つたが、今始めて資物を見て承知
 したといはれたのである.
         1し lんし●・’
  しかし、この御紋章と文句のある判決原本は一年
 開捏川ひられたが、飴りに畏れ多いとて、爾来用ひら
 れなくなつたのである.しかしその有無に拘はらず、
 恵法の有難き文句は苗世に輝いて居るのである.司法
 官たるものは、虞に、民衆の信頼を博して、御名に於
 てする裁判たることにふさはしき内容の充資と、信念
  はつろ          一
 の敬路を念とせねばならぬ.偲りそめにも、裁判に批
               しtん
 難のある如きことあらば、至昏に封し奉り、長れても
 長れなければならぬ.裁判節構成放資施五十年記念
                かいしん
 は、此の意味に放て厚−盾の戒心を、司法官に要求す
 る記念日であらねばならぬ.
           −策者は大審院判事、法畢博士T