第一四六号(昭一四・八・二)
  満安国境紛争問題          陸軍省情報部
  事変下の我が連合艦隊        海軍省海軍軍事普及部
  何が「軍用資源秘密」か
  支那事変従軍記章の御制定      賞 勲 局
  ドイツの青年宿泊所
  南支沿岸封鎖の強化         海軍省海軍軍事普及部
  日英東京会談とその反響       外務省情報部
  日米通商航海条約廃棄通告問題
  日独貿易協定仮調印
  最近公布の法令           内閣官房総務課

ドイツの青年宿泊所


(カットの写真は、ヴツベル河畔の城にあるレームリケ・ベルゲ青年宿泊所)

 昨年わが訪独青少年団員が渡独の際、
ドイツ青少年団員と親しく交驩した思
ひ出の深いベルリン郊外テイーフエンゼー
にある、ヒトラー・ユーゲントの代表的青
年宿泊所の模型が、我が学生生徒の夏季
鍛錬を激励するかのやうに、このほどド
イツ青年省フオン。シラッハ統監から財
団法人原田積善会におくられてきた。青
年宿泊所の建設はヒトラー総統が最も力
こぶをいれてゐる問題であり、ヒトラー・
ユーゲントにとつて青年宿泊所は、旅行
の機会を与へる機関といふよりは、最高
唯一の心身鍛錬道場ともいへる重大な使
命をもつてゐる。
 この青年宿泊所がヒトラー・ユーゲン
トの手で経営されるやうになつたのは、
一九三三年四月からのことであるが、そ
の起源は遠く中世紀に発してゐる。ドイ
ツ人は元来が遍歴好きの国民で、中世紀
頃騎士とか修業学生、徒弟などは諸国遍
歴を一つの修養と心得盛んに旅にでた
ものである。修業学生などは敬愛する教
師が他郷に転じたりすると、百里の道も
遠しとせず後を慕つて遍歴にでかけたも
のだつた。ところが中には途中で志が挫
けて不良になつたり、腹がへるまゝに、
農家の家畜を殺したりする者がでたので
農民から毛嫌ひされるやうになり、修業
学生の言葉は、今日なほドイツ語に不快
な言葉として残つてゐるほどである。
 徒弟なども三年間位遍歴しなければ一
人前に見なされず、遍歴のおかげで職人階
級からもドイツの歴史に名が加へられた
者も相当現はれたのである。わが国にも
「可愛いゝ子には旅」の言葉があるが、ドイ
ツでは中世紀頃から遍歴は立派な一つの
教育手段と考へられ、旅行者が非常な数
になつた。従つて農村に簡素な泊り宿が
自然できるやうになつた。ところが十九
世紀になると一時この遍歴熱が下火にな
つたが、ボヘミア・ホーエンエルベのグ
イド・ロッターが一八八四年学生生徒宿
泊所をつくつたことが刺戟となり、今日
の宿泊所の前身となるや、木格的な宿泊
所が次第に生れるやうになつた。
 その後結成されたワンダーフォーゲル
(渡り鳥運動)も自身の宿泊所をもつやう
になり、宿泊所の数は急にふえてきた。
ところが折角軌道に乗らうとした矢先、
欧州大戦の勃発で一時中だるみの状態に
なつてしまつた。しかし戦後国民体位向
上の波にのつてヒルへンバッハに全国青
年宿泊所聯盟が創立されるに至つて、以
前にもました勢ひで普及するやうになつ
たが、一九三三年四月、ヒトラー・ユー
ゲントの手に移り、ドイツ国再建運動の
重要機関として計画的に統一されるやう
になつた。宿泊所に於ける軽佻浮薄的な
気分は一掃され、あくまで厳粛な心身
鍛錬場であり、ドイツの祖国愛、郷土愛
を青少年の胸底に培養する温床に一変し
た。翌三十四年にはハンブルク港工場協
会から一隻の古船が寄贈され、大工場の櫛
比するハンブルグ港のまん中に名も新た
な海の宿泊所が生れるやうになつた。こ
の宿泊所は断然青少年の人気を呼び、一
年十万人からの若人が訓練を受ける盛況
振りを示してゐる。
 かくて青年宿泊所は短期間に急激な発
達を見せ、ベルヒテスガーデンのヒトラー
山荘の「アドルフ・ヒトラー青年宿泊所」、
ヒトラー・ユーゲント団長シラッハ氏の
名をつけた「バルト・フオン・シラッハ青
年宿泊所」、故ヒンデンブルグ元帥を記
念する「フオン・ヒンデンブルグ青年宿泊
所」等々大ドイツ帝国建設の功労者に因
んだ宿泊所や、伝統を袴る名城古跡に
続々青年宿泊所が設けられるやうにな
り、一九三三年から三五年に亙る僅か三
ケ年間に百二十二の宿泊所が新設され、
改築されたもの四十八、一九三五年の調
べだけでも、宿泊者総数約六百五十万人に
上り、同年現在宿泊所数約二千といふ素
晴らしい成績をあげるに至つた。
 その後も逐年増加の一途を辿り、昨一
九三八年には新設百四十に達し、ヒト
ラー青年宿泊所などは一千台のベッドを
増設したといはれてゐる。
 これ等の青年宿泊所には、ヒトラー・
ユーゲントや学校生徒の場合は、一日
二十ペニッヒ(一ペニッヒ邦貨約一銭四
厘)の廉価で泊れ、その他の青少年は三
十ペニッヒとなつてゐる。大人も空室の
ある場合は利用できるやうになつてゐる
が、宿泊料は青少年と殆んど違ほぬ安さ
である。
 青年宿泊所は、一年を通じての宿泊者
の多少によつて三区分され、五千人から
六千人の宿泊者があるものはAクラス、
六千人以上一万八千人あるものをBクラ
ス、一萬八千人以上を収容してゐるもの
をCクラスとしてゐる。宿泊所の世話に
は夫婦者を傭つてゐるが、子供がある場
合なぞ居室を調理場や事務所から遠い所
におくと、細君の注意が子供の面倒のた
めに散漫になり、そのため細君以外の人
手が要ることになると調理は勿論、賄費
などにも非常な影響を蒙るといふやうな
所まで考慮にいれて、世話人夫婦の居室
と調理室、事務室を一緒に設けてゐる点
なぞ敬服の外はない。その他板張りは、
ふつう壁よりも費用がかゝるが、部屋に
親しみを与へいつも清潔に保つことがで
き、その上長持ちがきくから、一時は高
くても結果から見れば安上りだといふ見
地から、宿泊所の壁は板張りを原則とし
てゐるなどあくまでドイツ式である。
今日宿泊所の建築様式をアメリカ風から
ドイツの伝統的精神のこもつた建築にド
シドシ改められてゐる一事も見逃すこと
はできない。
 宿泊所の世話人は決して単なる世話人
でなく、ドイツの青年宿泊所事業の盛衰を
決する位の心構へで働かされ、宿泊所を
経済的に上手に処理していくばかりでな
く、自分の仕事を一つの教育事業と考へ、
土地の風俗習慣等に関しても一応の知
識をもたねばならないことになつてゐ
る。世話人の仕事は全く忙しい。ヒト
ラー・ユーゲントの講習会に、学生生徒の
野営に、政治講習会に全く寸暇もない有
様だ。
 しかも居室や寝室は後からやつてくる
青少年団体のために絶えず整頓しておか
ねばならない。これでは如何に有能な世
話人でも到底手が廻りきれない。そこで、
こゝに泊る青少年は人手を借りず自分の
事は自分でするやう厳重に言ひ渡され、
しかも驚くほど秩序正しく守られてゐ
る。当番の者は世話人の良き助手となつ
て掃除万端に励むことが義務とされてゐ
る。この宿泊所で彼等青少年が暮す時間
は数時間乃至数日間に過ぎないが、ドイ
ツ各地方の青少年が一緒になり、北ドイ
ツ人は南ドイツ人を、東ドイツ人ば西ド
イツ人を知るやうになるので、居ながらに
して血を同じうするゲルマン民族の交驩
が行はれるわけで、くだらぬ先入観や偏
見は忽ち一掃され、ヒトラー総統の念願
する独逸民族の融合一体はきはめて自然
の中に達せちれ、かくしてドイツ青少年
宿泊事業は真に国民的事業になり、ヒト
ラー・ユーゲントの生活からも切り離す
ことのできない存在となつてゐるのであ
る。