第一四六号(昭一四・八・二)
  満蒙国境紛争問題          陸軍省情報部
  事変下の我が連合艦隊        海軍省海軍軍事普及部
  何が「軍用資源秘密」か
  支那事変従軍記章の御制定      賞 勲 局
  ドイツの青年宿泊所
  南支沿岸封鎖の強化         海軍省海軍軍事普及部
  日英東京会談とその反響       外務省情報部
  日米通商航海条約廃棄通告問題
  日独貿易協定仮調印
  最近公布の法令           内閣官房総務課

満蒙国境紛争問題  陸軍省情報部

    一  綜合観察

 日ソ関係の険悪化を如実に物語る満ソ、満蒙国境問題は事件発生ごとに悪質化しつゝある。昨年七月突発した
張鼓峰事件は、ソ聯軍側が執拗な挑戦行動をつゞけたのであるが、わが軍の痛烈なる反撃によつて、わづかに事
なきを得た。この戦闘はソ聯軍としては幾多の欠陥を暴露したのにも拘はらず、又々今年五月以来性懲りもな
くノモンハン附近に於いて満蒙国境を侵犯し挑戦行動を継続してゐる。外蒙ソ軍はわが軍の反撃により多大の損
害を受けるや、早急に之を補ひ一層兵力を増強して飽く迄挑戦行動を継続しようとしてゐるのである。一方、ソ
聯邦は時を同じうして北樺太に於けるわが石油、石炭利権に対し未曾有の無暴圧迫を加へつゝある。先般わが全
国民を憤激せしめた漁業問題といひ、ソ聯の態度の悉くが悪質極まる不法行為に終始してゐるといふのが偽ら
ざる現状である。
 ソ聯邦が、近時かゝる暴戻なる態度に出で来たつた動機がどこにあるかについては、わが国民全部が深く事態
を認織する必要がある。この動機の主なるものは、勿論彼の東方政策によることは申す迄もないが日独防共協定成
立に対する彼のいやがらせと援蒋政策、園内的にはゾ聯の産糞五ケ年計書の進畏及び支那事礎遽行によるわがご
r方んは1J一いい
力の現肌に封するゾ聯の誤断等であると考へられる。徒つて彼の不法暴庚を阻止し得るものは、結局わが囲力、
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わけても封ゾ勒備の売備以外忙術はないこととなる。帝園としてはゾ聯に封し何も好んで戟を桃むものではな
い。然し彼が敢へて不正を以つて桃戦する以上われも之を撃ちくだくだけの準備が必輩となる。われくの最も
てん小いし一い
考へなければならぬことは、ゾ聯軍は現に満ゾ或ひは満蒙図境五千粁の長きに亙つて戦時と同様の展槻姿勢に在
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るといふ事賓である。硯にあの不毛な外家固境ノモyハソ附近の戟闘に於いてさへ、近代的横械化兵圏を四つも
●▲′かつ
五つも持つて来てゐる硯賓忙封して、彼が唯物軍陳として、名‡共に備はつてゐるものと認めぎるむ得ないので
ある。
ひりたいぢ
か1る情勢にあつては、我が方も亦之に封して守備兵力を配竜せざるを得ない。彼牝資力が封峠する場合、而
かも団墟が不明碓で紛争が絶えない状態に於いては、彼我の紛率や小衝突が何時武力戦灯まで拭大するかも知
れぬ。現に哉ひつ1あるノモyハy事件も彼の出方如何ではわれも亦之に鷹じ得るの準備を尭備せぎるを得な
い。かやうに封ゾ考聴は他の囲々に封する準備、就中兵力準備とは比校できぬほど重輩性を持つこととなり、軍
は勿論固民仝部が明日と音はず今日でも立ち得るだけの覚悟と準備が必妥である。ソ支二正而の戟率に入つてゐ
ることを間啓としてハツキりと優悟しなければならないのである。
之を要する忙、固竣紛季問項といひ北樺太石油石米間題、漁兼開塩といひ、すべてクレムリソの極東政策、封
一一い
日政策の根本観念を是正しない眼り解決し得ない。この是正は、わが日本帝図代が一大決意の下に国家紙力を胡
充蟄球することにょつてのみ期待できるもので、それ以外に手段方汝はないものといへる。封ゾ戦力は益モ充茸

03

けつ小ん
してむり囲防上に快陥はないやうになつて居り、現忙張鼓峰事件より今同の方がわが反撃カは強大となつてゐる
ふ一てい●と
が、われく固戊としては彼むして最妃に於ける事態が示す如き不迭の企固に出でしめないやうな哉備充賓む日
ぎして進まねばならぬ。
二外蒙の不法行為
rIくタ●・,
ゾ聯邦の属領と化した外蒙が、今次ノモyハy事件と
・た川r
起すに至るまでに、如何に度重なる不法行焉を敢へて行ひ
つ1あつたかに就いて、吾人は認識を新たにすることを必
要と考へる。
今試みに昭和十年一月以降本年四月に室る四ケ年間に於
・かん‡l
ける主なる紛率事件を調べ上げて見ると、その故‡忙首入
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同の多きに上つてゐる。態項枚致、也墳攻撃、不法射弊、
塘境監祀析の撒温要求、戟境占壊、飛行横を以つ七する鎗
墳偵察等の類である。その一例としてノモyハy附妃に起
。L
つた彼の不法行焉を述べれば次の如きものがある。
ュ昭和十年六月二十三日、ホルステγゴール附近に於いて外蒙兵不法舷境し、作菜中の帥東軍渕童手及び耳人

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−名、その他器材を故敦した。
たい托
2昭和十年十−月六打、ソクトスムプル監硯節哲属の外蒙兵二名不法越境し樹木伐珠中を速捕した際、外蒙部
験から射撃む受けた。
さ昭和十三年十月甘日、わ恥調査隊竺行l芋四名ハルハ河外蒙団境の状況調粛に赴き規沌調査中、封岸外斉
側丘陵の外蒙騎兵五騎より射轡む受けね」
4昭称十四削月十二日、ノモ芸y西軒ドyゴルルオボに外蒙兵が鎗境して釆てノモγハy分駐盾貝之む
′〃ん▲ヽ■・’川レト●
宰温した。
さ昭和十四年‥月十七日、東新已凍ドyゴルルオボに於いて旗艮ツヤクドル妄)は也境外蒙兵に裸健にされ暴
行された。
6昭和十四年〓月十九す1′東新巳旗′モヱyに外儲兵十五名越境して釆て同地替察分瞥月止交我温却した・
7昭和十四年一月二十二日、東新巴狭ノモyハyに外蒙兵趨境して釆てわが分駐質は之と交戦襲温した・〓
十三日、ニ十四日にも同様の小戟開む繰りかへしてゐる。ニ十五日にはノモソハハLソ前方十粁の地鮎に軽横を有
する外蒙兵七名也境しわが舟駄朗興撃を企てた。
一月二十入日には軽横一を有する外琴彗蚕ノモソハy分駄朗北方六粁の地鮎に勉境射撃の後温却した。ニ
十九日にも同楼斡攣を有す計外蒙兵七名ノモソハミy紺方士再から進撃して雑たがわが方の反撃忙よつて逃
走した。三十言Rにはノモyハy分駐朗西南約ニ○粁ハ囲境Jり滞領内四粁の地鮎)に於いてわが靖境巡察隙は
外禁鹿祀兵十飴名と交軋之を弊温した。

04

’ヽ・9▲。り
8昭和十四年二月二日、輿☆替備ポ松本小隊はノモソハソ西
甫方約二〇粁ハ満領)に於いて外毅蛸兵八名を準見騒遽した。
ニ月八日浦軍巡祭隊はノモyハソ分駄桝団墳附近に於いて外
−モ・フぐ■’
蒙兵凹○名と遭遇交戟の後撃退した。二月十七日外蒙兵二名
小んし一,
がノモyハソ蹄方四粁の地鮎に現はれ、わが監祀哨を射撃し
た後引揚げた。
9昭和十四年三月十七日、ノモソハソ西南方約七粁の地鮎に
外蒙兵約四〇名魅境して釆てわが替察隊に撃逸された。
以上のやうな外蒙例の不法行薦に封し、わが方としてはその
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都度揖識はしてゐるのであるが、蒋三蒋四不法行虜を繰りかへ
しっ1あつた。
三ノモンハン事件の費埼と経過
ほつたんい●‡りぢ●与くも
今次ノモシハソ事件の蟄端鳥亦仝く従衆の不法行名と同1の経緯に1ろて起つてゐる・潮ち五月十ニR頃、重火

券む有する外蒙軍七、入十名がハルハ河を渡つてノモyハy西南カバルシャガル附紀に踏塊、満洲固側の鹿硯噌を
♯宰したのに瑞を黎する。衣ノモyハy浦軍囲境替備験によつ・て宰温されたとの外蒙軍は十三日吏に兵力を埼強
して薄び♯衆した。

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鞄に敬いて海枚蠣から怠準見た東部保は浦軍協力の↑に十五日外蒙ゾ軍をハルハ河以西の地直忙撃嬢し、
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園項貯硯潮隙を竣檻して駐屯地に蹄退した。
然るに聯琴品た外蒙ソ軍は、その後史に兵力を埠加して騎境線を鶴えハルハ河に架橋すると共に、右岸地直
小け・’
く七んてつ
(満領内)に陣地を構築し始め勉くまで不法行鳩を貫徹せんと
●と●士山た
企圏した。依つて軍は吏に山願部隊を派遽して之を撃嬢せしめ
た。この部隊は敵を攻撃して五畑二十入日頃ハルハ河の線に進
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出、敵を一靖して六月一日原駐地に蹄還したのである・常時の
外蒙ゾ軍の参哉兵カは外蒙軍騎兵第六師瀾(砲十門内外よりなる
。的一千ヒ亦軍プイコつ部隙(少くむ自動車搭戦歩兵一大隊及び彗丁十
教輌より成る的五首)及び在ウラソバートル計動革化狙撃部隊の
少くも一大陳合計二千であつた。‘
っ,げ●さク
かく日沸軍の痛撃を受けた敵はその後六月牛ば頃まで鳴をし
つめてゐたぜ、‡はこの間急速にソ聯本囲より績々と飛行隊横
械化部隊むクムスク方南に途りつ1あつたのである。六月十五
し●・’
旦剛筏切より叉汚びハルハ河合拭馴附近より遡墳し陣地を構築し、モの一部隊は進んで浦領内深く便入し輝
ぐん;げ,‡一
軍廟のわが守備隊に釆製し、一方爆弊械を以つてハロソ7ルシ†ソ等後方地置までも爆畢するの暴畢を敢へて
した。

05

てう一、ん
笹は彼の桃職が愈モ*格的となつたので汚びこれむ昭接するに決し、七月一日夜牛より行動を開始し七月二日
け▲て‥し†与
夕軌抑地前に政噂畔備を薮へ敵を力攻すること十日問、十】日これを国境線外に撃操した。常時敵の参加兵力は
もT7し−ゆワ・
外黎加部兵儀の大部、ザバイカル、シべりア、ウラル、泊ウォルガ尊の各節管慌よ々紬出泥造した線虜力杓−甫と
Jこ}ノlいかん。し
椚せられる。わが碍は以氷確敵を掃鴻すると北町厳に敵の動静を看硯中であつたが、敵掛依然として桃戦的態庇
もく“し・,小J
を改めずハルハ封岸衣上に捷勢な各縄砲兵吋を展粥し、恥革及び歩兵部隊を遽次増加して再度也境の横を窺ひ、
しっtうっど
しばく執拗な小規梯の反聯む墟固したがその都庶わが方に聯温された。七月十六日牛蹄三時牛外欝ソ聯横は
フ,ル′
。官枕潮基附近に飛米爆抑八筒を投下するの不法を敢へてした。
た●一
偶L二十三町単執、・敵は恥車約首嘉歩兵約二千を以つて梢モ大規模に魅境政撃して釆た。これに封しわが軍は、
こ▲′さ■▲
ニ十三日午蹄七時砲兵及び飛行隊を以つて封岸純頻陣地に猛烈な政撃を加へ、越境部隊の複塚をなすハルハ河封
くわいめつ々い
岸の紋机兵を流滅すると兆にわが地上部隊は槻境部隊に封し一斉に政撃を閑始した。わが新銃砲兵の射撃はハ
しんかん。へ甘■・lさI
ルハ河附沈勒場の天地む磁撼せしめ、態ちにして封岸敵砲兵む制磨した。わが線攻撃灯砕易せる敵は卑くも動格
怒凍十→しつ1ある。
ぐんくわんく・lと
陳茄、六ケ放園と粥せられ、飛行部隊はザバイカル軍管院は固よりγベyア、ウラル軍管直その他より補充せ
られた8B、T温窮爆準横を始めとしイ十五、イ十六型め戦闘横が参加tてその敦今何ほ二、三官磯に上つてゐ
る材秘である。
四他の方面の状況
今攻事件頚生以米他の鴻ソ囲境方南に於ける状況を見ると、未だ大なる奨化を認めないが瞥戎は−舷に舵重と
ノI・’山
なつてゐる。そして相奨らず小事件は各虚に賛生してゐる。例へば五月二十入畑儀河(東部)方面に於いて満洲固
江上軍舛屠小砲彗憂がゾ聯砲艦の不津射撃を受け火災む超して沈漫し出動人貞約官名中多教死傷者を生じた事
件がある。叉六月二日衆ソ聯軍は噂春東南十四粁長嶺チ西南方ナマコ山滴領内に踏境し渕量旗を樹てたのでわが
tく’●,▲モ
歩兵−部保偵察に向つたところ、之と衝爽交戟、故の遽棄屍健八、わが方負傷者六名を出した・
六月−音夕、ソ聯飛行横二横が埠春方面の長嶺子東北四粁にある小馬鞍山に飛衆爆牲五箇を投下し、六月十ニ
モつ‘
日にはゾ聯二横ガyヨソカ方面から三倉口南方上峯に舷墳飛米宣倖丈を撤布した。
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之を妥するに、−般に平静で特に異状は認めないが、外蒙後方ウラル、ザバイカル方面に澱いては軍者輪途が
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転榛しゐる横様である。−
国壌戦の戟果
■一−11■−−−II−−・−1−III一−†I■1−−I■1■一一●ll■ll■■■■■■【−−■■■
掬兼‡我慈申−1十入口隻華l一専
一、二十七日以後ノモyハソ附近勒場ほ依然苧辞なり
二、木日迄に剤明せる教果左の如し
確♯に撃峯せる飛行槻欺七首十五、破壊炎上せしめたる
琴輩甲自動車、自動蓋丁五曹廿、携滅したる砲兵七
中隊、大なむ損事を輿へたる砲兵十二中喝敢の治棄
したる死惟三千を下らず、溌降者也に伴庚九十「由狭
品戦革、装壌自動貨革、火砲、機湘銃、小銃、
帯器、各種静窄地園、曹頬等多歎にして日下蒐集盤
理中