第一四三号（昭一四・七・一二）
天津英租界問題の経緯 陸軍省情報部
司法保護事業の指導統制 司 法 省
外蒙ソ連の膺懲戦 陸軍省情報部
満州移民と分村分郷計画 拓 務 省
体力章検定の話 厚 生 省
汕頭を語る 外務省情報部
忠霊顕彰について
支那事変二周年を迎へて 平沼内閣総理大臣談
公私生活を刷新し戦時態勢化するの基本方策
最近公布の法令 内閣官房総務課
天津英租界問題の経緯
陸軍省情報部
一 英租界の敵性
支那事変発生以来、天津の英租界は英帝国の名に隠れ
敵性を発揮しつゝあつた。今その一例を挙げると、次の
如きものがある。
即ち日本軍の作戦行動を無電む以つて香港や重慶に通
報し、北支に蠢動する遊撃隊に便宜を与へ、或ひは臨時
政府要人の暗殺を企図する不逞分子を匿すなど、天津に
於ける戦慄の根源をなしてゐた。そこはまた北支共産
匪に対するコミンテルンの資金供給地点でもあり、北支
聯銀券の偽造使用、北支金融攪乱工作の策源をなしてゐ
たのである。そして旧法幣の流通を援護し、北支に於け
る物価を昂騰せしめて大衆の生活に脅威を与へ、租界内で
は抗日言論教育が行はれるのを黙認してゐた。
これ等の事実に対し、軍は今日迄隠忍に隠忍を重ねて
ゐたが、治安と生存の必要上何時かは断乎たる処置に出
でざるを得ないといふのが現地を中心とする朝野の輿論
であつた。
二 封鎖の原因
去る二月より四月にかけわが軍下士官兵三名は天津市
内で国共側テロ団の毒刃の下に倒れ、また中国聯合準備
銀行経理兼天津海関監督程錫庚氏は英租界内で不穏分
子の兇弾の下に東亜建設の尊き犠牲となつた。而して
テロ団一味のうち四名は捕はれて工部局に抑留せられ、そ
の犯跡はわが方の調査により一点の疑ひもない。現場実証
に立合つた英租界当事者も当時之を確認したのである。
軍当局としては抗日テロ団の採りつゝある実力的行
動が無辜の支那人及び第三国人に及ぼす影響の大なる
ことを考へ、隠忍自重、忍び難きを忍んで英租界当局と
の間に外交的折衝によつて犯人の支那側当局に対する
引渡しを要求し、且つ北支特に天津市内の治安維持に協
カするやう要請したのにも拘はらず、英租界当局は再三
遁辞を設けてその回答を遷延して際限がなかつた。
遂に痺れを切らし六月七日を期限として諾否何れと
も回答をなすやう要求した。
英租界も問題の解決を回避し得ない破目となり六日
次の如き回答を行つた。即ち、
第一には日本側は程氏狙撃犯人たる藍外三名の支那人
の引渡しを主張するが、彼等の犯行に就いては単なる自供
あるのみで、他に何等物的その他の有力な証拠の提示
がないから目下のところ引渡し要求には応じ兼ねるとて
狙撃犯人の引渡し要求を全面的に拒否した。
第二には今回の事件発生前、英租界内に於いて爆弾携
帯等の廉(かど)で英租界側で逮捕監禁してゐる第九路軍参謀長
外一名は支那側に引渡す。この引渡しは彼等が前記藍外
三名の上官だからその取調べの結果、藍等に関する更に
有力なる証拠を発見し得る可能性ありと見られると称
してゐる。これは現在までわが方には全然通告のないこ
とで且つそれが事実参謀長なりや否やも疑はざるを得ざ
ることを申出でた。
第三には英租界工部局には他に十数名の抗日分子を逮
捕監禁中だがこれらの者に就いてはこの機会に情状に
より之を追放その他適当の措置を講ずるといつて如何に
も微温的な言辞を弄してゐる。
第四には将来の英租界内抗日分子取締に対しては近く
厳重なる布告を発すると共に英租界内の警備を厳重に
し、これら不穏分子の策動を徹底的に弾圧する意向であ
ると申してゐる。この内容に至つてはわが方で再三再四
協力を要求してゐる問題であるが、只表面上のみで何等
実行してゐないのである。
以上何れも英、独特の老獪なる外交手段と見られるの
である。わが方の要求は云ふ迄もなくかやうに曖昧な、今
後の調査を俟たなければ罪性も明らかでない様な一般的
不逞分子ではなく、現に皇軍の勇士を闇討にし、また臨時
政府要人を暗殺した犯人の引渡しであり、これを端的に
拒絶する以上、最早や問答無意義といふことになる。
かくの如く明々白々の犯人を庇はんとする英当局に誠
意ある協力を求めたところで、所詮無駄の話で、この態度
こそこの租界をして益々陰謀テロなどのあらゆる抗日策謀
の温床たらしめる所以である。仮令将来、犯人引渡しの
原則を認めたとしたところで、今回の如き明瞭な事件が
適用されぬやうな原則は一片の空文に過ぎない。軍はこ
れ以上押問答を繰り返すことの徒労を知つて勘忍袋の
緒を切つたのである。軍は東亜新秩序建設及び北支明朗
を妨害する凡ゆる陰謀と策略の巣窟たる英租界を他の
地域より隔絶するため適当の措置を採ることにしたわけ
である。
尚ほ既に当地の特殊事情を理解しわが方に協調的態度
を示しつゝあるフランス竝びに英租界内に在住する独米
その他第三国人及び善良なる支那人がこの措置に捲添
へを喰ふのは遺憾千万であるから、なるべく速かに租界
外に居住を移さんことを希望し、なほ残留するの已むな
き事情にある者は迷惑でも諦めて貰はなければなら
ぬ。このやうな隔絶は現情勢に於いては、軍の任務達成
上絶対必要な最小限度である。
而してこの事態は犯人引渡し拒絶を契機として惹起
したものであるが、これは楯の一面であつて、従来に
於けるイギリスの援蒋政策に対する日本朝野の憤激がこ
の形式によつて反撥したものである。問題は単なる犯人
引渡しを以つて納まるべき性質のものではない。軍はこ
れによつて、英国の援蒋態度に猛省を求めると共に、前
述の如き天津租界の敵性を根絶するやう要求するもので
ある。従つて英租界当局が百八十度の転換により北支
の新情勢を認報し、衷心より日本と提携し、東亜の新
秩序建設に協力するに至るまでは鉾を収めない。
天津軍当局ではかゝる決意の下に六月十三日十二時三
十分、重大声明を発黎表すると同時に布告を発し、日華両
文を以つて日本租界竝びに華街に−斉に掲示し、天津に
於ける抗日共産分子の活動を禁止するため六月十四日六
時以後英・仏租界に通ずる道路は六時より廿四時に至る
間万国橋を、六時より二十二時に至る間山口街、旭街、
芙蓉街、英国競馬場、泰安路(たいあんろ)、中街の往復を許す以外に
は何人と雖も通行を許さないこととした。
わが現地当局では今回の英租界問題に対して断乎強
硬態度を以つて臨むこととなつたが、わが方の方針とし
ては、英国側が検問検索実施前、即ち十四日午前六時以
前に発いて当方の要求たる程錫庚氏狙撃犯人引渡しに応
ずる場合には検問検索は実施しない。若し実施後に至り
犯人引渡しを応應諸するも断乎これを峻拒し、英当局が全
面的に態度を改めるまでは方針を変更せず、今回の検問
検索及び白河航行船舶に対する検査は英国側の反省ある
まで長期間に亙つて決行する決心である。
かくして十四日午前六時断の時は遂に来た。
軍は二月以来今日あることを予期して万国橋が通れ
なくなつた場合の用意としてイタリア租界に日本橋
を架設し新興路む租界側に拡張し検問所を新設し高圧電
流線を租界の周囲に張り繞らし万般の準備を完了して断
乎たる決意を以つて交渉したのであつたが、彼等は恫喝
と思ひ込んで多寡をくゝつてゐたのである。
三 封鎖実施後の天津租界
六月十四日午前六時より緊張裡に実施せられた天津英
仏租界の徹底的隔絶は、天津は勿論全世界に一大センセ
イションを起したが、封鎖の実施は軍の周到なる準備
と日支官民竝びに理解ある第三国人との協力によつて極
めて整々に行はれつゝある。一日平均三十万の通行者の
あつた万国橋も今日は閑散で唯、検問・検索所前に通行
者の行列があるのみである。英租界内はひつそり閑とし
て人影も見えない位である。然し軍は食糧攻めにする
が如きことは行つてゐない。
租界隔絶の第二日、十五日の午後競馬場道検問検索所
に於いてイギリス兵は突如武装デモを行ひ一時非常な緊
張の空気が漲つたがわが方の適切なる態度と断乎たる
決意に恐れをなし対峙四時間にして彼等は退却した。
英租界住民の苦悩は日につのるばかり如何に彼等が
表面強がりを称するも心は見えすいてゐる。
軍は益々検問検索を強化し十九日午後十時に至つて租界
を包囲する電線全正面に電流を通ずることとした。これ
は全く無益な犠牲者を出さないためにとつた手段であ
る。
四 英国側の態度
これに対し英国側では、今日迄帝国の真意、就中事変
に対する根本的の態度を理解せず、帝国は先づ英租界を
処理し、次いで鋭鋒をフランスその他の租界処理に向け、
遂に各国の在支利権の閉め出しを喰はさうとするもので
あつて、英・米・仏等は一致結束して日本に当らなければ
ならないと放送し、また我が国に対しては経済封鎖を以
つて報復せんと威嚇してゐる。
これに就いては、去る六月十九日天津に於ける軍当局
の声明にも明瞭に述べてゐる様に、本事件は英国一国を
目標としてゐるものであつて、現に帝国と完全な協力を
なしつゝあるイタリア租界なり、比較的好意的態度をと
りつゝあるフランス租界等に対しては十分好意と表し、
便宜を供与してゐるのであつて、これ等を毛頭目標とす
るものではない。英国側の出方次第で、即ち英国側が報
復手段を採る場合には自ら事件は拡大し、英の欲せざる方
向に発展するの已むなきに至るであらう。事件が今後如何
に進展するやは一に英国の誠意如何に関するものである。
次に経済封鎖の点に就いては英国一部に於いても危惧
してゐる様に、英国自体の内部事情、属領例の態度よ
り見て実行は困難である。これは武力戦に迄発展する
危険性を包蔵するものであつてこの決意なくしては実行
不可能である。
一方英国宣伝機関は天津に於いて日本軍が非人道的行
為を為しつゝありと盛んにデマ宣伝を行ひつゝあるが事
実を歪曲するも甚だしい。
然しわが毅然たる態度に対しては如何ともしがたく最
近稍々態度を改めつゝある気配が見える。かくして英帝国
政府は現地事態の遷延を許さず慎重考慮の末、遂にわ
が国に本問題解決のために会談を申出で来つたのであ
る。
五 我が軍の態度
今回英国の申出により東京に於いて日英会談を開くこ
ととなつたが、右は天津における局地問題を主とするも
のであつて、従つて現地における治安維持竝びに軍の
生存上必須の事項につき現地英国側の態度変換を求め
んとするものである。
しかしながら、叙上の如き現地英国側の態度変換は、
畢竟英国の今次事変に対する根本的認識と現事態に則
応するやうな態度の是正を見ない限りその実現は不可能
であつて、こゝに本会談の重大性が強調せらるゝ所以で
ある。さきに現地陸軍当局が自衛上緊急の必要に基づき
英租界に対し断乎たる措置を採るに至つたことは周知の
ことであるが、帝国陸軍中央当局としては出先軍当局今
次の適切妥当なる措置に対し積極且つ全面的にこれを支
持してゐる次第である。
然るに英国側に於いては帝国の措置に対し、或ひは英国
の正当なる在支権益をも全面的に排除せんとするが如く
誣(し)ひ、或ひは更に進んではこれを他の第三国権益にまで
も及ぼさんと企図してゐるかのやうに宣伝てゐるが、
今回軍が直接に目標とするところのものは公然援蒋的態
度を継続し、多分に敵性を発揮してゐる現地英国側を対
象とするもので、現にわが軍に協力し或ひはわれに好意
を表してゐる他の如何なる第三国に対しても絶対に他意
のないことは勿論である。
要するに今次会談の目的は、天津英租界に於ける英国
の敵性を完全に芟除(せんぢよ)しようとするものであつて、このこ
とは英国自らが進んで既往の援蒋態度を放棄し東亜の新
秩序建設に協力するに至ることによつて実現せられるも
のと確信してある次第である。従つて英国にして以上の
如き態度変換を示さざる限り今次会談は何等の意義をも
認め得ないものであつて、その成否如何によつては現地
軍としては独自の所信に従ひ更にその施策を継続強化す
るの已むなきに至ることあるべきを予想せられるのであ
る。