第一四三号(昭一四・七・一二)
  天津英租界問題の経緯       陸軍省情報部
  司法保護事業の指導統制       司 法 省
  外蒙ソ連の膺懲戦         陸軍省情報部
  満州移民と分村分郷計画      拓 務 省
  体力章検定の話          厚 生 省
  汕頭を語る            外務省情報部
  忠霊顕彰について
  支那事変二周年を迎へて   平沼内閣総理大臣談
  公私生活を刷新し戦時態勢化するの基本方策
  最近公布の法令          内閣官房総務課

忠 冤 顛 彰 は つ い て
     一い寸ん    伊一J‘んふんと・’
 今次の聖職に於いて委岡、一身を
 lI■            ▲l−‘●
挿げて鹿北新秩序捷設の礎石となつた盤
   ち血YIJ▲rい        つ
‖萬の忠質を押し之を受け継いで日太国
 の杜たらんことを期することは、我が国
   た1JJ−ん
民の‥常烈月fさねばならぬことであり、そ
      て一・た・ク し一つ
 の矯めには通常な施設を法ることも必妥
       ちゆ・,▲いい ●−つ ●ナJヽほ
 である..即ち、忠環を祀る靖閥紳祀及び
 _ヽ■ナ1▼        さこつ   ちゆ▲ノボいたム
才同紳批のほかに、治骨を祭る忠筍塔
     ば も   心′かつ    もんれつ
や忠死者基地、及び遭物籍撞等を陳列す
 も貫いくbん/     し‘つ
る忠雷飴とも謂ふべき施詣等が考へら
れるわれで、今岡外準内準陸軍、海
                  一rい”花ん
軍布教、厚生六省の畝可息掛て、財廃
 dふ川レん   ち秒・’ホいけんし†1フJ,▲¶い
洗人大日本忠霜勒彰禽が組織され、
貪る七月七日、事欒二周年の口に営り、
               た「い■ソん
畏くも秩父、市松雨宮殿下の台臨を仰ぎ
   はつくわい
 奉り襲魯式を挙げこの窺動に乗出すに
                  山いl,
 至つた.よつてこ1にその極旨の山概要を
 紹介することとしよう.

     噂囲神社

         小い‘ん     ち叶う丸い  ●ナくに
  無音の凱旋をした忠雷は靖囲紳故に
 祭られて、畏れ多くも 天皇吐下の行事を
 仰ぎ、義妹殿下を初め奉り、団居全部の
 ■、う山じいほ・,し
 祭敬奉祀を受けられるのである.息死者
  ゐ∠【つ
 の漬物は宮中の各府に納められ.陛下の
 l・く▲▼ん          ●々くん
 側近に侍せtめられて偉勲を偲ばせ給
      −●・lい          ‘.Vll●
 ふ.死して飴柴ありと冨ふべし.また敬役
                       あひん   い・’し,くわん
 記念品や忠死者の寓農品等は就遊舷
       も●・フ丸い       つ小人
 に約められて、忠窪を受けるに最も都合
      一9ん九つ     はいく▲秒ん
 ょ小情況に昧列し、−般に葬祝せしめ、
 l氷久に保存せられるのである.

    建囲紳祀と氏紳

  ちサ長い †ナくほ
  忠零は靖国神社に入り、故郷に席つ
      rこく          −■
 ては府琳の護国紳祉に入るのである.護
 こく‥しん‥し† †一丁くK
 南紳祀は靖囲紳融祭紳中、その府糠出身
            lん ■ヽ      l
 の者及びその府将に縁故洗いものが洩れ
   ●●つ
 なく祀られるのである.
 市町村に於いては氏紳様の境内にある
 l ’       小・
 檜馬堂に敬学の檜を掲げ、戦病死者の名
  ■_▲r ●ナJヽほ     小い
 を刻み靖図紳就祭紳の窪を日常氏紳の・申
 に邦†るやうにしたい.

    忠 生 巧

      も■ エーい・た▲         ▲一
 戦頓には忠霧堵が出来て、忠死者の辻
 ▲こつ な⊥rこつ   も−’・,巾い   こl
 骨が納骨せられ、忠電ほ之に籠つて第一
 線の活動を続けられるものであろ.我等
  ’よレゆん
 は披順の.白玉山に登りT一萬五千有飯の
 ちウ,小い     ’ヽ,‥レ†i−   くわいこ
 忠蜜に壊し、雄順攻城の常時を同額すろ
時、血濁き肉躍るを党ゆるのである・対
       ち わ   にJヽ▲lノ■

 ■ん J与てん.爪う†▲フ しん●†▲フ ハ ル ビン ナ 、 ハ ル
 迎、奉火、滋陽、新京、吟爾演、清々吟爾、
 し▲17とく ▲んとク   ちゆク小いたT′       けい丸い
 承徳、変電等の忠零堵は皆大陸経営の
 人柱である.
         ん−一
 今次和戦に起れた六瀦有飴の戦病扱者
  わ,−. こシ ▲ {イ●
 の故骨は興他の碓石として支部大陸に満
      も叶・}一‥.ヶ■▲ H.ん一り
 洲同様に忠呼堵を娃設しなければなら
 ない.そして今後支那に於いて汚動†る日
     l一りろん
 本人は勿論、支那満糾その他各閥人もこ
      . い允▼
 れキ仰ダ患箇を欺いて、再びかくの如き
  L三つ    ∫し●,じ
 日文節突するが如き不畔事を起さない
 やう努力しなければならない.

     忠死者さ■祥

       一β 二つ
・忠死者の潰骨は、陸軍に於いては盛大た
 島隙旬勧頓祭後に、分骨は各附郎地の
      さ小い

 陸軍韻地に鮒められその他は市囁町村荒
     ん“て
 の後、租族に渡され、また海軍に放いT
 は各所属の鎮守府で合同葬を行ひ次い竹
 市横町村窮め後、濃淡に渡される.潰狭け
什 之を自己紗那の墓所に那轡Tる賃あえ
 が、徒釆は、陸海軍基地には戦病死考及
    し●き†17イ“つし†
・ぴ平時傷病妓老の一部の基はあるが、
     ▲こつ    ゐ山でく
 大部分は泣骨の余部を潰族に交付した馬
                  .y ペ 吋 丁
・町、明治初年からロ清、日琵、西伯制止
            l・いし ▲々     u ●
 役に至る古いものは、祭祀仙杷え或ひは破
 tん もゆ・フrい ▼●つ
 損し忠電を祀るに拍を軟くむのが砂く
             小い1〜1・いてん
 ない.甚だしきは基地の改非移挿等の慢、
 ▲U lんた・♪           ・′ん
 無線堵の巾に入れられ或ひは紛失して行
 」々不明となつてゐろものがある.
  明治初年の忠死者基地に至つてはその
 けん一づ       けいくわ
 建設後六、七十年を軒過してゐる馬め、
            ●ん〜     l・い し
 たとひ遭族があつても縁遠くなり、祭祀
 は全く絶えてゐるものが多い.現存すろ
           けいくわ
 斬らしい基も年月の粍過と共に明治初年
         くわ・,はい ●  一r一−
 のものと同様に充厳に厨する浜れが甚
          ▲▼●●つ
 だ多い.故に之を粗末にせぬ様にする横柄
 めにはどうしても府輔市町村営として水
     ていも−‡ け▲フし
 久に且つ鄭重に塵丁祀することが最も望
 ましい●
                ∫Jヽ
  現在の様に各自の寺や、山腹や、自宅
内や、紺卿に両した所等に各個人種の墓
            ●‥レ●ん
を建てて濯いては千年を基準として考へ
    ん−与・てい      こん▲−ん
た堵Aq到底、その佗存は卵難であるし、
  ふ ● ふとI     ●†Jヽに
大小不親不統」であつて靖囲紳能祭紳の
    ふlT川】
基として相鷹しくないのもあろし、また
†いてん                       tん
祭典墓前で行ふにも各個各所に散在し
                   ”ヽ・‘
てゐては不便であるから、.府嚇市町村い守
に合同の基とし、墓前には周棉参拝に便
         l、いてん
利な贋均があつて祭典を行ひ、参拝†るの
に通常な場所にせを造ろやうにしたい.
   灯 ひ
 ム自国基坤は一戦役、一事襲母に常時の人
            ▲▼叶▲フし
が自分の身代りとなつた忠死者の賃めに
奉仕によつて建設することとしたい.教
学に行かずに命を氷らへてゐる同民は、
自分の身代りとなつて戦死した人の馬め
には(皆が囲の馬めに戦死した気持にな
つで翻伽によつてその基を造るべきであ
らう.敬死者の墓を劫ると云ふ串は、その
               一r ▲り
時代に生きてゐる濱の食い学務である.
・戦死者の紗那が野つた時に市町村葬
           ′一一こつ
 ほ行ふが、息とは池骨々家族に湾tて市
                た「いど
 町村ほ知らないと云ふや†な態度を巾堺る
 事は間違やである.どうしても市町村葬
 は−水久に撹けなければならない.さうし
        ちゆ,ホい      ▲ヽ●1・_いい
 て市町村全部が忠蜜を挿して、その忠亜
    つ
 を受け抱いで日東の焉めに働くと云ふ決
 心をしなければならぬ.特に子供に封し
   ち●・乙いい
 ては、忠空を充分に受け担がして、日本
          lヽ
 の領民を期すろと云ふ事が大切であろ.
 今迄の各助役の分を集めるのでオるか
 ら、故死者の少い▲市町村では、彗の敬
        ▲●d叩    l▼
 役事襲の分を併せて一基とするも一策で
 あ山る●

    紀 怠 拝

           ●ねんヽ一       々
 日清、日東役の記念碑が澤山各所に鐘
                ●ねんひ
 ってゐるのを知つてゐるが、記念碑と云
          t−こつ
 ふものはその巾に浪骨が入つてゐないの
           ●I V●Iつ   わ
 で、お詣りをしても希求の念が湧くやう
                ▲●ねんひ
 な気が鬼らない.これでは折角記念仙岬を
            ・’ ▲−
 建ててもその▲慣値は非常に少いJ この一記
念坤の凱幻は考へものである・
    ‘い々・レ       くつが
 今度の尭敬は世界の歴史が窃へるや
  一い一ん        ▲▼ねんひ つく
ぅな奔放であるので、その記念碑姦ら
    ねんぐわん  ∫こと.・花・’.■ん
ぅと云ふ念願は、渦に営然のことであ
                ・■ん一ソつ
るけれども、この際この記念碑の乱立を
 い一‡し      小は
 戒め、記念碑の代りに忠濱堵著しくほ
 一▼■・,しし◆          ●・ん■_1J
 忠死考義地む盆つて、永久に舟崇を挽け
 て行く上云ふ風にした方が‖漕常であると・
思ふ.
            ▲・ふ
 特に記念仙岬の巾たは寄附金を出した人
      一いい   ▲†ど
 の名前など正々し〈刻み込んで、全く寄
         、・’し†▲7
附した人の名前を表彰するやうな記念
仙岬もあ右が、それではその目的を毒しな
                左つ‘い
 いと恩ふ.また記念碑の中には出征者
               ヽ一
 の名前なども彫つてあるのがあるが、こ
 れは生死を共にしたことを記念する意味
                   だい
でよいL思ふが、併しさ・つ云ふことは第
   r一ヽ▲■
ニ義的のものである.
 園のために命を捧げた戦死者が第一で
 ある.生きて虜つ七来たものは第二であ
 る.徒つてぎう云ふ記念碑姦むことな
       川レ●んし  ●’,しし● ▲こり
 く、屈のために殉死した忠死者の遭骨
  モ
 を酌めて、それを市町村有にして、.永久
     ∫つ            もサI払い々・♪
 にお祀りを挽けて行く息覆塔、若しく
 は忠死者基地を以つて記念碑に代へると
       て▲是・’
 云ふことが通常だと思ふ.

     忠 生 枠

     .くわ小く                  はく‘つ
 近代科挙の進むにつれて∵各地に博物.
 くもん     やん▲●くわん
 館、動植物喝電気舘、科畢‥博物館等が
 一つ・●    しl▼        L▼一・’‡
 設昏せられて頻りに心耳物教育が墟潰さ
      小1   ●、
 れてゐるに拘はらず、動も†.れば精紳教
      小ん▲▼†く
青の方南は閑却せられを併剛があろこ‥
   さかん
 とは池撼に堪へない所である●
           づt       −●
  畏くも明治天皇は夙に大御心を故に寄
 せさせ姶ひ宮中に根天府、・建安府等を設
              ●すゆI▲r九つ
 けJれ、廣く教学史料、特に恵弟義烈
      .あ▲ひん l■l
 吼戦死老の故品を収めさせられ給うて天
              しん小 さ.●てく
 党に供せちれたのみならず、臣下溝族等

      H川.し′ヽレりん
に槻しく秤吼を許させ給ふこの大御心
         ●一こと lIJ・}′ヽかん.けlさ た
を然し窄つては、油に恐怖感激に堪え
ないところである.
    い1フし・,くわん
 また遊就舵にほ御物及び各宮家の勧
〓払出びに乃木火締出下朗郡部の掛
 ひん        ちん小つ み
 品、出びに戦牢史料を排列し戦る老をし
  ん仰▲J爪い ふ ひ←−・
 て瓜冤に触れ等しく感激を琴乙しめる
のである・近くは剛附一時海軍館、或
 ひは記念艦三笠等の新設もあつて精神敷
   こ▲うけん
 苛に賀鰍しっ1あることは誠に事ぷべ女
 帝である.
            ▲てつ▲てい
 抑も〈国民教育を徹底せしめる鴬め汁
  けいしんtし●.・’
 ほ、収沖合扶の念を畝威し、忠覆を挿しで
 自づから閥の杜たらんことを自費せし肌
 る必映があり、之が岱めには各所にそ爪
 ●†lど し  ▲つ                一いし・
 郷土史を蒐め、この史料に依つて精細
 ・た一山hいん
 折錬を行ふのが池常であらう.例へば海
 軍兵撃校に記念館を設け、海軍史は血
                        一’
 静、忠義烈を表象すろ各頓の史料を愉
 九つ        ▼・7、
 列し、職死者の名を刻して寝日之を挿止
            ■たん_いん′▼†,
 しめるが如き、持紳鍛錬場として最も
           み   ひ♪I  小ん
 適切なるもので、之を観るもの等しく感
 け・一l
 激を探くするものである.その他各地
      き●うソーし        小しj−
 方に於いて・郷土史を陳列せられる個所
 があるが、い.つれも小親楔で、その利用
 等に於いて何ほ敏けろものがあろので、
        し一つ し†うれい
 将来このやうな施設を奨励し、以つて
        ゼ・’ぢ▲Tフ
 園児柄紳鍛錬の造壕たらしめるの必要
 ありと信ピTる.
  併し、町村のやぅな小さい所では、忠窪
                  あ‘つ
 館の代りに小学校の中に敬柁者の遭物を
 青          か・ くわいぐb
 酌め、戦死者の落度を掲げ檜輩を以つ
 てその奄戦の状況を表現し子供に忠宰を
 】柑・1・たい
 奉赦せしめるに通するやうにし、忠勇義
   山んくわ
 烈の感化を受ける様に生きた教育を焉
.し、或ひは氏紳楼の中に戦利品、又は忠
    あ‘つ          fつ
 死者の池物、若しくは籍塵等をお祀りす
 るやうにすればよいのであつて、決して
 樫済力の堅かでない市町村に一律に完全
  もゆえrいくわん
 な風塵飴を迂る必要はない.たとひ簡
                               ー 一「一. .一ヽ 1 q
仙申であつてもさちノいふ拷紳で施飢硯を盤へ
息質が魂り移り易い山様にしなければなら
ない.
     ▲′かつ     きんいつふんしつ
 忠死者の遣物は年と共に散逸紛失すろ
         aしふ
からして今の内に蒐焦して永久保存の方
  山・7
法を試じて置かねばならない.北陸に大
演習のあつた時、日露教学常時の忠死者
  ゐ▲ばく
の迫盈を集めてゐた村があつて天党に供
せられた事があつたが心掛に止って経費
を宰せずに出来る事であるから一貫行せら
れ乾いと思ふ.
            ‘んイJい  一▼■,
 軍人は一兵士に至る迄先輩戦友の忠
 小い けんし†}          けん●ん
覆を嶽彰する馬め一日分の月給を献金
                        空
奉仕したならば、国民皆之れに倣ひl
億萬人→日戦死献金奉仕すればこの嘗業
 ほ必ず完成するものと信Tる.

    忠死者の心を吐し七の奉仕

       いレゆ,’■    かた
 この事莱は銃後の守りを堅くする国
    l   ‘l一い   持}し
 民全部が洩れなく赤誠を以つて奉仕して
 山元−域しなければならない.」開民全部が
 めつしは1こ・1 :J14ん 々・′
 域私晦公、靡榊に松れた忠宅に奉仕†れ
     ●ウ叶11小い
 ば必ら†忠電は閥揖に飛り移るであら
 う.この布業をやる際は千年先を考へへ
 めつしJうこサ         ムlは
 璃払*公した瓜霞に答へるに相戯しい公
            しゆ▲うし  ナん川レ†
 平伽‥払の窄仕を以つて終始し、寸邪の賃
           け〃
 めに神聖なる耕策を汚されない注意が必
 環であろ.
 硯郁に於いても職柁賓の多い地方に行
 くと、亀山愕して膵潰した常は再び戦線に
     こひね山  ムし々う    ▲でくわん
 立つ帝を絨兜ひ、負傷もせずに改印還除
       ‘∨り▼●17げつ
 降する賄兵は仙戦病技せし血戦友に封して
 おめくと故糊に飾る事が柑来ないと
 雷ふ有様で、一般人民に至つては誠に
 ・■′∨ち●▲了 ’▲く
 緊張の極に蓮してゐる状態である.
 戦地より掃濁除隊する沖兵ほ敬病後せ
     ち●1フ丸い ・たい
 し戦友の忠霞を憎して郷里の模範とな
   ∫ん机いごウJく         つく      . はたら
 り爾脚努力その水分を毒し故人分の。働.
 きをせねばならぬ.
  陸軍航空部隊の戦果

 〔大本替陸軍都黎表〕 (七月六日)
 支那事攣勃蟄以来、支那及び満蕪図境
 方南に於ける陸軍航建部陳の活動情況泣
 びに血戦果左の如し

 l、支那に於ける活動情況
      (胴和竹綜批朋如bm
    一■l■ll●lll▼l 一 一 ■lll −1−I −1   I− 11−・−一− − ■r一1
   地上との協力作戦  進攻作戦

 出動延縄欺▲買竺四槻 三、買○横
 出動程飛行時間九竿七実時間羊七望時間
 投下爆押丑5ハ九∧嘲 ∋至噸

 、合    計

 出動筏槻敢望、天日横
 付動程飛行時間岩q彗九時周
 投下爆弾丑七宅○嘲
ニ、散銭重機に異へたる捕手ハ槻救)

   支那高
打十一i削」彗
 舶椚祁年 垂○n入
   十二月皇で
 謂竹謂蓋 一五 ;
   同月十五日 求態 犬 h ;
  〓月十〓H l巧州−∧ 云 天
 同月富男責 薫桝基準不
                    窄弘域】玖に
                   は多大の川研
   同月廿三日 故州 五大   彗ハ 曹あ典へた
                    ろもの的〓
                   十様な食む
 三月十日臥 古蛍 ニニ
……揃撃≡桝城島
 合  計す…≡老
   〔備考〕 我軍の掲審  七四山横
         (昭和十〓年七月上り玖在lで)

   満蒙国境方面

 撃墜 三四入仙桝 地上撃破  四五梯
   ハ潮背ノ鶉軍の絹キ 十六様なり)

      l▼■l l ●一▼ 一 ■一l l▲■l l l■l ll l ■■一.11 一 l 一 一 l ll一▼
   支那及び浦蒙国境を含む戦果
      − 1■− − ▲・l■・I l一一 一I●■.・一 −一・一 一 lIl● −・■●−一1.■■■●
 撃墜 六七二撰 地上撃破一九大枚
 弗計八大入横 (謂附諾箭に針川)