第一四一号(昭一四・六・二八)
  事変二周年特集 新東亜建設の歩み
  事変二周年と新東亜建設
  北支の現勢
  中華民国臨時政府機構一覧
  北支那開発株式会社一覧
  蒙彊の現勢
  蒙彊政権機構一覧
  中支の現勢
  中華民国維新政府機構一覧
  中支那振興株式会社一覧
  支那民心を把握せよ
  南支の現勢
  陣中文芸(現地軍報道部提供)
  皇軍突如汕頭に進撃         海軍省海軍軍事普及部
  汕頭攻略の意義           陸軍省情報部

 

北支の現勢

 北支は満洲国に隣接し、日本とは最も関係の深い所
で、従来から政治的経済的に密接な繋がりがあつた。
今日北支と呼ばれてゐるのは、臨時政府の管下にある
河北、山東、山西、河南を含み、黄河と白河の流域であ
る北支平野と、その中に人の鼻のやうに突き出してゐる
山東半島及び山西の山地帯からなつてゐる。
 北支は最も早く我が軍に攻略され、建設も最も進ん
でゐる。以下各方面に亙つてその概況を述べてみよう。


   政治建設


 事変前には北支那に冀察政権と冀東自治政府とがあつ
て、日本と密接な関係を保つてゐたが、事変が起ると冀
察政権は宋哲元等二十九軍の敗退によつて自然に崩壊
し、政権の責任者がなく、治安も乱れたので、臨機の処
置として、天津には前国務総理高凌を委員長とする
天津治安維持会が生れ、北平には江朝宗を委員長とする
北平治安維持会が生れた。又皇軍の占拠した各県にも、
逐次に治安維持会が生れ、その中に天津と北京の治安
維持会が中心となり、附近の治安維持会をその傘下に集
めるに至り、後には北支政務の統一のため、天津と北京
の両治安維持会の聯合協議会が生れるに至つた。しか
し治安維持会の目的が臨時的のものだし、その組織も亦
臨機的のものであるから、やがて正式政府が造らるべき
ことは必然で、徐ろにその時機を待つてゐる中に、南京
が陥落し、国民政府が奥地に引込んだので、こゝに愈々
新政権の誕生となつたのである。
 北支の新政権は、昭和十二年十二月十四日を以つて、
中華民国臨時政府の名により北京に成立した。国民政府
が抗日と容共とを政策としたのに対して、臨時政府は
当然親日と防共とを旗幟とした。政府の組織は三権分
立制とし左の三つが置かれた.

 一 議制委員会 施政重要事項を審議決定する
 二 行政委員会 実行機関として議政委員会で決定した事を
             施行する
 三 司法委員会 司法事務を管掌する

 行政委員会は日本の内閣のやうなもので、初めは之
を行政・治安・教育・法制・経済の五部に分ち、行政部の中
に内務・外務・財務・実業・交通の分科を置いたのが、後に
改めて行政委員会の下に財政・治安・教育・内政・法制・実
業の六部に改めた。この部が日本の各省に当るものであ
る。臨時政府の下に各省に省政府があり、省の下に県
政府がある。
 新政府の方針としてその成立宣言に現はれた概要は次
の通りである。

 一 国民党の一党攻治を一掃し、民衆本位の政治を復活す
 二 共産主義を絶対に排撃す
 三 東亜の道義発揚に友邦との敦穆を厚うす
 四 産業を開発し民生を向上す
 五 広く天下に人材を求め相携へて共に新生の光沢に浴せ
    しむ

 首脳者は行政委員長の王克敏をはじめとし、部長には
王揖唐・汪時環・斉燮元・湯爾和・朱深・王蔭泰等、嘗ては
台閣に列した人が多く、いづれも北支那に於ける錚々
たる人物である。新政府の成立以来既に一年有半、だ
んだんと政府の基礎も固まり、民衆の臨時政府に対する
気持も良い方に変つて来て居り逐次治安と交通が完全に
復活するに伴ひ、政府の各般の施設も着々と実施せら
れつゝある。
 新政府と協力し、之を側面から援助するのが新民会
で、臨時政府より十日遅れ、十二月二十四日北京で発会式
が挙げられた。新民会は新政府支持の民衆教化団体で、
新政府の綱領である新民自治の精神によるもので、新民
会の目的とするところは、新政権の主義綱領を基礎と

 

       、う,           ていけい●▲・,▲lい
 し、新政府と表裏一也となり、日満真の捜携共染む持ち
          Jく●つ     ガた− くわん一い
 衆たし、共産主義の撲滅と図民禁の打倒転売成し、東洋
    だ,とく 一ん●ラ       こiけん
 の文化道徳を宜揚して世界中和に貢献せんとするにある.
          け▲′くわだんたい     一い 川ヽ
 新鹿曾は民衆の軟化園墟であつて、政治園膿ではない.
 一ん‘ん        々ん‘ほん          こ▲′はl
 前線で働いてゐるのが宣撫班で、新民合は主として後方
  1_▲ん     く さ▲▼      tし●
 の治安がm発た南域で活動し、組綬としては北京忙中央
 しだう‘ 小ん‡つ ‘
 指導部、濫察部があり、指導部長は膠斌氏で、その下忙
    しだ与一か       し†与も●}
 各省の指導部があり、部長は省長が簸ねてゐる.その
    しだう‘                 しんふんくわい
 下に脈拍等部があり、部長は願長が粂ねてゐる.新民▲曾
      たいし●I
 の主なる封象は農村であつて、殊に青年忙着目し、願忙
   くん一いん‥し上−      し川りんの1フ′▼●−
 青年訓練斯を設け、せた試験農場がある.こ1で訓練む
                 じ lい〃“ん
 受けた青年は、村に持つて自衛囲を辻つたり、その他種
   し山花,         けいr、い
 種の指導をやる.また農村経済の方では、合作址如ち産
      ●−し●                 J,わ′ヽが叩い
 菜組合の組織に力を入れ、その事菜もだんく魂大しつ
 つある.


    †1.−一▲.−1−一l■■●●ll■.I′■
  叩経済建設岬
             】●■.11.一.1一一■lll − I− −■一▲




  けい一rいけん一つ
  経済建設については、約二ケ年に亙つて範々その努力
 が続けられてゐる.経済建設の中心になるのは井Tに♯
            り▲ノつ・,    はム「い
制である.北支那に流浪してゐる法幣に封して、新ら
   し、い    けいくbく
 しい紙幣の敢行が計賽され、そのため忙北東の中央銀行
           いレ●ん ぴ
として、中開聯合準備銀行が昭和十三年の三月に設け
                    か・フつ,
られた.この銀行は北支にある中開、交砲術銀行を始め
        し’つし   はつけん       九ん
 とする八銀行より出資し、中央考券銀行たるもので、聯
 小▲じ−んぴ      し、い            ■▲.いり こく、い
合準備銀行の紙幣が北文に放ける唯→の囲幣となるこ
                   ▲Iんば,けん
と忙なり、三ケ月を限り、北真にある南方券及び雑券の
      ●んし               はくば,けん      −うつ,
流通が禁止され、→ケ年忙して北方券その他も流洩を柵捕
     九rん一■ん付ん ,}つ・’
止した.聯銀券の流池も初め敷ケ月の軋は五、六千草花
                       Jんじ    く▲● くわくだい
む出でなかつたのが、今日では漸次流通直域を錬大し、
   はつか,r叩小
既に簡行績もこ夢冗を超えるに至つた.しかし→方では
    一山い         ば,“い            ●く●   い−
外河租界忙よる流洩の妨寄があり、他方では奥地でも遊
 ▲灯●lい げl山い
♯酸の妨沓があるので、伶ほ流通上達撼の鮎なしとしな
                 小いけつ
いが治安の確立と租界間頼の解決とに従ひ、漸次故事さ
れて行くだらう.
  1ん′ん くわんれん                         小u一
 朝銀と抑聯して考へらる1ことは、北真に放ける焉沓
    好手l● と−一い      小は一 と,一い       九ん▼んいん
及び斉易の耗制であるが名著の溌制忙ついては聯銀券の
    っ,く●    ●d, くわくじ●I                    ひん
貿易賽たる機能を瑞充する薦め*年三月から十二品

 lく         ‥レつし
 日忙ついて為替集中が章雄された.
                  とl′一い  ●くわん
  北支那産業開攻のためには、之を統制する横昭を造る
        ′▼
 べしとの議は早くからあつたが、昭和十三年の三月にな
   一い▲●ん
 つて成案を得、北文型閑教練武官敢を創立することとな
          ていし●つ ●はたKtんい, _,‡い
 少、その法案を譲合に提出し、大谷尊由氏を級数忙、十一
            t,’つtrくわい
 月七日に至り創立親曾を開くに至つた.北支那開黎株
         けいどい小いはウ tくしん    とl山▲て,一い u小
 式甘敢は北東邪の経済開頚を促進し、その統合調亜を飾
 るのが目的で、本店は東京にある.資本金三億五千高潮、
       し_つし         ち∫く一つ
 その年額は政府出資である.この曾敢は直接仕事と
                      >I■●■ し   ●●’ し
 するのでなく、主なる事共に投資又は融資をなし、
   付いlい tl小ふて,一い
 モの経営の綜合調亜をなすもので、主なる仕事とい
         小−わん   杜つ∫,やん くbllん 一いlん
 ふのは交漁・凍橡・穐鴻・洩信・黎逸電・錬産・製盤等であ
 19●
  北安閑蟄が早くから叫ばれながら、−向手が着かなか
       と,小▲  小いはつ   し●つけん f
 つたのは、之を統合する閑蟄曾紅の出現を倹つてゐたた
    ■いはつ             【ぐbいし●
 めで、開蟄曾敢の出現と共に、だんくとチ曾牡が生れ
             づ,しんMレ一汀▲      ■}●▲
 てきた.▲矛−には北東の劫信事菜のためには、應急的に
 生れた北支_政耗局がある稚、資本金三千五官高郷の♯
                                一†ん
 北_什_拝†杜が昨年入月【日忙生れ、また鉾邁の方は溝

 てつ ふ にん汀い丸い
繊が委任総督の形でやつてゐたのが、今年の四月から北
               はつlヽ・,でん
支那交温曾祀が川氷るし、欝迭電の方も着手されて居り、
また井産の方は石炎と繊とが主であるが、鱗の方は北京
       ,■lフlんてつくわ1 ひんしつ        ふくわl
の西北にある寵爛繊鋸が品質も良し、非常な富錦で、
             たん小,      小いらんたん イい
泣くにはコークスに適する狭坑が少くない.開滞衆、井
 付いtん
陛淡、河補の六河港の如きである.′北東には眈に製繊桝
               ▲▼−● 一【
も設けられ閑敬事業の互歩は着々と進みつ1ある.石表
                                          一一−し▲一」1.’
は河北・山出・山東・河浦到る朗にあり、殊忙山西の叫絨
 ’●l                     一つ r
ヱはl千教官憶噸といはるゝが、これ等畑交通便で設備
                      ′♪ん▲Iん  l■いくつ
の削氷てゐる斯から、日本側の各曾祀に分挿して採掘さる
るやう忙なるだらう.
    dく小 こl ′シ′−   灯りかいlんがん      く
 牡は白河口の塘清を中心に緻鯨油岸に塵し、海水と汲む
    はひいネ            いl●†J,   ケ
水ヰと、水色の盈の山とは日本からの遊客の眼を惹く.
       てんぴ           r lん†ん
 建の生産は天日でやるから、生産費が橿く安く、盤田は
                r,‡ん    Jl−い
大分械じてゐる位だから、之を増産するのは容易である.
 ●▲TIるlん             tんとl      一い
 し長濃艶と呼ばれるのがこれで、更に山東忙は山東曳と青
郎凱とがあり、考紗那は昨年から斯叫公司が手を着け
 てゐる.かうして北支開澄も次第忙進んでゐる.
        けい.fいていけい “レつけん
 また日真の経済提携を耳現するため、日華程」済協沸一丁
                   一r一ばlい−_ てlフいん
 が生れ、昨年三月臨時政府との間忙発音が調印された.
      わうこくぴん             ひ′’L’はtl、′♪・’・’
 合長には王克敏氏、副曾長は日本側から平生飢三郎氏が
             付い一rい小いuつ   しだ・,●くわん
 出樹けた.之は北支部経済閑蟄の最高指導横閑で、北
   川いざい小いuつ     ●くわく−つ▲ん しんr
 支那経済閑蟄に関する企壬立案を姦決定する析で
 ある.
       ●I.け∫こく            ∫くこ,
  然し支那は鼻糞同であるから、北東部経済の復興忙は
 よ村の復興が必宴である.臨時政府でもこの鮎には長
           ∫くこl   小しだ
 も注意を沸つて、復興資金の貸出し等を行ひ、内政部
           −▼I▲‘い
 でも北京を中心忙救済事貴とやつてゐる.農産物で一番
                       止−んく▲
 問題忙なるのは棉花である.北支那の棉花生産は事襲前
                  ビ′′
 にはどんく増加して約四有高堆を算する忙至り、種
   じ●lちい じ か ∫,  ば1一●げん砂ん
 軒も従来の自家用から紡榛原棉に菱つて衆たが、事変
          ナ▲小い                ●▲ん               †
 の年には水宰でやられ、昨年は治安と交通の閑係から出
 ●●u         げんし−
 諷りがうまく行かす、減収む報ぜられてゐるが、近年の
 ナl一い r−モん         t▲ん
 鶏勢は増産に向つてゐるので、治安と交洩の改著につ
   砂んくわ し†,ひん      ‡灯
 れ、棉花が商品として幾らでも捌けるやうになれば、共
             ′†1】,小
 の生産額は著るしく増加を見るに至すであらう.
  現にその改良増産の食め忙は従来外紡省の設けて居つ
                           l一んじ・●
 た華北尭実科皐研究併と錬張して夜術的に援助し、更に
す雷瀾改ほの嬰改めて是浮鄭警乗
忙棉花の増産を汲ツてゐる.その他羊毛、小客年の農作
           しガ,     付いくわく
物に封しても鼓術的に指導して増産を計室し、.ハルプの
 しけん                    1し       r,りん
資瀬に乏しい鮎から黄河及び白河の葦に肴眼して辻林計
輩を樹て、また燻革も我が国の工場を進出させて目下東
成便革に依つて年に三十億本の生産が行はれてゐる.・
             し†,小い
 島村復興の−つの大きな陣碍は水音である.北東郡に
              だいこ,〕丁さ
放した人は、今でも一昨年の大洪水の跡が、天津と北京
       ●●ん
の偶にさへ、漢人たる湖水となつて頭つてゐるのを見る
        ナ▲〆い ▲一              のウ一いlん
だらう.この水専を防ぐことが出来れば北真の農生産は
                けん●ウヽ●,
大い忙棉加するので、臨時政府には建設鹿を設け立と
   ▲▼ ◆▲
して治水土木方面をやつてゐる.





           【l●く ●一ヽ     ●▲ん
 治安工作はすべてのエ作の基礎であつて、治安が巧
         】レ●んてl
く行けば他のエ作漑膚網に進むものであるが、士た他の
工作例へば産兼剛削が行はれ⊥ば、その地方の人民は
               ▲y ▼く
生活の遭転籍るから、自然匪械も無くなる.北東四省と
 いつても日本よりずつと東いし、人口も一律萬もあるか
     一んヾん        1い‘             【ん●▲
 ら、前線は支那軍に封時しながら、西北に枚挽と有する
    しだ, い−け●一ん   ●●ん l ●
 共産軍の指導する遊撃戦に封し、治安を保持して行くと

                  ー一1・い
とは、L門地の人上が考へるやうに容易なものではない.
 もぅけ●lい         一ん一い こん●J
遊学隊の中心をなすものは、陳西を横線とし、山商の山
     ご ‖斤い1ん
地、殊忙先台山及び中條山脈に根を張る共産軍で、その
   小 付く                 rだいtん
一部が河北、山東にも‖てゐる.先頃から皇軍は五台山
 ヽ†l†▲フモんけい      きうた・1
や中條山系の紫産軍の締漣を行つた.共産軍の外に支
    一いlぐん  はいでん、い                        し・,▲
那の正規革や敗球兵が入り込んでゐるし、その欄間に多
   ∪こ ひ ぐん         ‡う・た・’
くの土桝準がゐるので、之を稲城する忙は非常に骨が折
         くわ}ぐん       lIてん も●・,で−い
れる.我が方では鼻軍が中心となつて斐鮎に駐在し、
      も▲ん‘             ● 小ん
臨時政府に朽安部があり、斬らしい軍隊の基幹となるも
  ●l一い  川▲んtい 、ん一い  ち▲ん
のを葬成し、保安隊を綿成して治安に常らせようとして
          こん.灯ん」モく        山与tん じ▲いだん
ゐる.また的安の根本策としては、各郷村の自衛鰍゙
 くわんぴ  ‥し ▲い   と
 売価して自衛の道を碑らせること忙済めてゐるから、皇
  くわつ●く ‥し▲いだん           い,▲け・▼たい
平の活瀾と、由衛牌の頚達により、これ等遊撃隊の完全
   くbいめつ
なる血肌滅も蝕めて近き忙破る.
     みつ一つ くわん几ん
 治安と斬接な閲聯を持つものは交温である.治安と
 い・’つ▲フ  ムくくわつ
交池とが復活すれば、放つて想いても農村等は復活す
る.鞭邁は始め北京・天津の間を入十数時間を要したの
                       いレ●1′・たい
が、今では二時間飴となつて粂く事襲前の状態に復し、
 ▲.どん         ちJくつ与         し▲▲フとく
 叢山と北試問忙新たに直通列車が出水たし、承徳と北



        小いウI       も●I ■ lヽ} ‘●小 †I
 束の間の鋳造も開温し、北京から張衆口、石家荘及び
     しんげ一心 tい●ん     小−1い
 天津から津浦線で済南、済南から膠済線忙よる青鳥間は
    いレJI●●く ●つ‘            川レ∫,し●
 →般に乗客に切符む井出し、その中にこの乗車宮間
      ・lん▲▼●1フ
 は次第に延長されて行くだらう.鋳造に次いで重要な
                     」’く ▲●   ‘つ し
 のは河川交洩である.最汲河川忙よる奥地からの物資出
               ひ一rく げ・J小い       t▲▼ん
 怒りも多くなつたが、時々匪賊の坊事があるので、治安
  く▲わいムく
 が快復すれば一斉順調になるだらう.





             はん▲
 文化工作といつても範囲は廣いが、井一忙は畢校であ
          杜いにt lんし●l
 る.事華南の畢校は排日教官の租界であつたから、之
 こん灯んて●            はいKt
 を根本的忙改めるため、先づ中小皐攻の沸日軟科曹から
 小いてい            、いt
 改訂され、梯日系の大単音門畢校は閉鎖され、紡日軟投
         ●んげ,
 畢生は主として南方に去つた.その後には鹿面目な大草
          け▲’一く   ▲くくわり
 帝門畢校が、日本の協力により復活しっゝある.また
        たん粧ん   いレん▼い
 北真の新捷設を港催すべき人材養成のため、紘時政府の
 下に斬民牢晩が設けられてゐる.
 官論検印としては新聞が主なるものであるが、事襲前

     げんろん●くわん    ■lほt
の北東邪の官給機関は、仝く抗日記事によつて満たさ
                      だい’←▲フは・’
れてゐたが、事奨後は排日系の支那紙は大公報が先づ
      l▲▼一いはI l
逃げ出し、姦せ報を最後として全く跡を絶ち、之に代少
   ∫,d,       トんじ し と−いつ
天津に府報が生れ、北京の漢字紙も統】され、防時政府
  ●くbんし                                 tいlん
の横帥紙新民報と日本系一となつた.また青島、済南
  】qいにも
にも耕日紙に代り親日紙が生れた.
     .けん定い一ん     ●くわ’
 ヲヂオは現代戦やは大きな役割をするもので、支那側
            ●●11    ‘●lけい
では始めは南京から、後には長沙、◆日では重度から
    は,t●          小くちん
盛んにデマ放遽を飛ばし、北東邪の民心を増乱したが、我
が方でも之忙封し北京に強力な放迭局と設け、日本語の
外に、支那語の放迭をも行つてゐる.
         一ん†ん     ●くわ’
 映lも事奨前には抗日宜侍のため大きな役割を演じて
                 一ん●つ
ゐたが、事襲忙より支那例のスタヂオは全滅し、東郷映
  dい●∫            t小い
韮の配給が無くなつたので、現鹿は租界で外囲映賽をや
つてゐるのと、日本側の映婁館で日本映書む“ポ晰して
ゐるだけであるから、丹木はどうしても正しい支那映壬
                        小i■ツ▲
を敢達させる必要があ少、モれについて種々の考慮が沸
はれてゐる.
 文化工作の主要なる】両は思想封米である・之には共


                         一つ●つ
 売渡の宜侍忙封するものと支那人の抗日思想の絶滅とが
               しんみんく一りい
 ある.前者に封しては、新民合が主として之忙首つて
           がd    灯く●つ けん一つ しん●▲く
 ゐる.抗日思想も支那倒立侍域閑の撲滅と建設の進捗
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 とによ少、漸次綬和されつ1ある.
一画‥〓求n
 旦上並べたやう席、北東速溌のやうな重大なる‡薫
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 が、きう簡早に進まないのは昔必であるが、我が皇羊の
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 嘉と、北東忙ある日東南音‡者の努力によタ、汐−
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 歩、力強き建設む進めつ1あることは東亜の食め求心
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 慶賀に堵へない.蕗時政府の陣容も鼓ひ、モの財政的基
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 礎も、押税と曳挽とによ少筆観となタ、た地方財濠
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 に梢†未だ充分ならぎる憾みがあるだけである.卒は年
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 月と努力とである.ニケ年間の経験は北東の速故に自膚
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 と希望とを輿へ、又多くの経験を輿へた.之によつてわ
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 れわれは一斤の精進を要するのである.

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