第一三九号(昭一四・六・一四)
  物の国勢調査            内閣統計局
  百億貯蓄と国民生活         国民貯蓄奨励局
  ノモンハン事件           陸軍省情報部
  海軍作戦経過  (自 五月上旬 至 六月上旬)   海軍省海軍軍事普及部
  バルチック諸国の情勢       外務省情報部
  最近公布の法令           内閣官房総務課
  新東亜読本(完) 満州帝国協和会とは何か  満州帝国協和会中央本部弘報科長 呂作新

ノモンハン事件   陸軍省情報部

   一 国境

 満洲国、外蒙古共和国は共に嘗つては支那領であつた。
従つてボイル湖附近の境界は単なる満蒙の行政区画に過
ぎない曖昧なものであつたが、満洲国及び外蒙(ぐわいもう)の独立に伴
つて茲に確然たる国境の確定を必要とするに至り、昭和
十年満蒙両政府は国境査定のため会議を開催せるが外蒙側
の不誠意によつて何等の結果を齎し得なかつた。然し当
時満洲国側は各種の資料に基づきハルハ河の線を以つて国
境とすべきことを主張し、以等事実上に於いてハルハ河以
東は満洲国領となつて居つたのである。

   二 交戦地附近の地形

 ノモンハン附近交戦地一帯は、固より広大なる平坦地極
めて緩徐なる大波状地の連続した広漠たる大平原であ
る。然しノモンハン附近はこの蒙古沙漠地帯中でも、水と
草に恵まれたハルハ河に近く放牧生活の蒙古人にとつては
天恵の地である。ハルハ河はその源を興安嶺に発しボイ
ル湖に注ぐ二百数十粁の長きに亙り、水深は八〇糎から一
米五十位で処々渡河点がある。外蒙軍はこの渡河点を渡つ
て越境するのである。ハルハ河を渡つて満洲国領内に入
るとノモソハソ附近は一帯の砂丘でホルステソ河の両側に
あるバルシヤガル(右岸)、ノロ(左岸)の両起伏地は人馬を潜
伏せしめるのに都合がよい。この地で越境した外蒙軍は
この砂丘の起伏の中に潜伏して居つて満洲国警察隊や放牧
の蒙古人を見付けると不法にも之に対し発砲するのである。
 同地附近に越境する外蒙軍の根拠地はタムスク(ノモン
ハン西南方約三十里)にあり同市には相当の軍隊が駐屯し
てゐる。タムスクから国境線に通ずる自動車路の如きも立
派なものが数線あり絶えず前線と連絡を取つてゐる。最近
では国境警備を厳にし盛んに軍事施設をやつて居るため悠
長な放牧の景色も見られなくなつた。これに反して満洲
国内では国境線近く迄住民が住まひ草を追つて放牧して
居り皮肉な対照を見せてゐる。
 この国境線に於いて日夜警備の重任に当りつゝあるのは
わが勇敢なる興安軍である。

    三 戦闘経過の概要

 五月四日正午頃、軽機関銃三を有する外蒙兵約五十名
がノモンハン南方に当るバルシヤガル附近に於いて不法越
境し来たつたのでわが満洲国国境警備軍及び警察隊は之を
撃退した。本戦闘に於いて敵に与へた損害は少くとも三、
わが損害は下士官一名戦死した。
 更に五月十一日、重機関銃擲弾筒を有する約八、九十の外蒙
兵がノモンハン西南約十五粁附近に於いて不法越境して
来たので同地警備隊は之をハルハ河以南の地区に撃退し
た。この戦闘に於ける敵の遺棄死体五、われに損害はなか
つた。
 外蒙兵の執拗なる不法越境によつてしば/\戦闘を惹起せ
るに鑑みわが軍の一部隊は満洲国軍と連絡、ノモンハン附
近に進出敵情偵察中、ハルハ河以東の地区に尚ほ越境せ

る外蒙兵が満洲国軍に不法攻撃を加へて来たので十五日
断乎之に反撃を加へて国境線外に掃蕩した。
 十八日午前外蒙飛行機一機ハンダガヤ附近に飛来、同日
午後外蒙騎兵百二、三十騎アルシヤン方面国境に向ひ進出
して来たのでわが軍は更に警備を厳にした。
 敵は逐次ノモンハン正面(コロベンネーラ----ポイル湖間)
に兵力を増加し戦闘準備の態勢に移りつゝあるものの如
く、自動貨車戦車等数十輌の移動活溌となりハルハ河対
岸には蒙古包(パオ)の構築も亦増加した。二十日午後一時ノロ高
地に越境我に攻撃態勢を示して来た外蒙兵約五、六十名に
対しわが満洲国警備隊は之を反撃して国境線外に撃退し
た。次いで二十一日夜砲二門、戦車六を有する約三百の敵
はノモンハン附近満軍に対し攻撃し来たつたが、満軍よく
応戦、二十二日未明之を撃退した。敵は午後再び攻撃を反
復せるも激戦に至らずして後退した。
 茲に於いてわが軍は満軍に協力徹底的に敵を撃破する
ため戦闘準備を進め、二十六七日頃より行動を開始し二十
八日払暁を期してノモンハン附近に侵入せる外蒙軍に鉄槌
を加へた。ソ聯自動車化歩兵約千、外蒙騎兵約千、戦車装
甲自動車数十輌及び砲数十門(十五榴を含む)合計約二千の
敵に対し日本軍は二十八日払暁よりバルシヤガル高地方向
より、満軍はホルステン河南岸地区より、敵の退路を遮断
し午後二時三十一分頃敵に殲滅的打撃を与へた。わが軍は引
続き残敵掃蕩を開始し、三十日夜敵が最後の拠点たる渡河
点東南方高地に対し夜襲を敢行し敵を完全に国境線外に撃
退した。事件以来本戦闘に参加せる山県部隊、東部隊等各
部隊は三十一日兵力の集結を終つた。
 六月一日迄に判明せるわ軍の戦死者将校東部隊長以下
十一名、下士官兵百十四名、敵に与へた損害満領内の遺棄
死体約四百五十、戦車及び装甲自動車二十一、重機関銃四、
軽機関銃八、その他小銑弾薬、通信器材等多数であつた。
 一方我が飛行機は地上戦闘に呼応し、ソ聯飛行機に対し
恆に赫々たる戦果を収めいやが上にもわが軍の士気を作興
した。即ち
 十九日ノモンハン附近に越境飛来したソ聯機に対しわ
が飛行隊は直ちに之を攻撃し、その一機を撃墜、二十一日
再度飛来した敵機に対しわが部隊は之を追撃しノモンハ
ン南方二十粁の地点に於いてその一機を撃墜、二十二日午
後わが三機編隊の戦闘機はノモンハン西北方国境附近に於
いて「イー十五」三機、「イー十六」八機よりなる敵編隊機と
遭遇し四倍の敵機を相手に奮戦その三機を撃墜、更に二十
六日三機、二十七日九機計十七横を撃墜し、尚ほ二十五日
東ウヂムチン附近に越境逃亡し来たれるソ聯「イー十五」
改造型一機を抑留した。
 情報によれば敵の飛行根拠地はクムスク及びサンベー
ス(ノモンハン西方約七十里)にある模様である。
 二十八日各方面に現はれたる敵機は百機を越え、わが飛行
隊は劣勢を以つて優勢に当りホロンバイル高原上空に壮烈
なる空中戦を演じ、その約半数四十二機を撃墜し得た。わが
方も亦一機を失ひたるも搭乗者は落下傘によつて満領内
に着陸無事帰還した。二十八日の空中戦に完全に敗北せる
敵は爾後殆んど姿を現はさず外蒙国境の空は再び平静に帰
した。

     四 本事件に関する観察

 本事件は外蒙兵の不法行動に対し満洲国軍がこれに応
酬した事に端を発したものであつて、外蒙軍はソ聯の後援
の下に不法行為を執拗に継続しつゝあつた。茲に於いてわ
が関東軍は日満共同防衛の本義に基づき自衛上満洲国軍と
行動を共にするに決したのである。戦闘の結果によれば外
蒙国境満領上空に現はれた飛行機中には多数のソ聯機が、
又地上部隊中にもソ聯兵が多数参加してゐた。軍は自衛権
の発動に基づき我より敢へて積極的に行動せず彼の不法
排除に終始した。彼が如何なる企図に基づき事件を発生
せしめたかは詳かでないが、歪曲された宣伝に乗つて日
満軍の実力を軽侮し敢へてかゝる挑発的行動に出でたこと
は明白である。今日迄の経過を省みるに、昨年東部満ソ国
境に勃発した張鼓峰事件と性質を同じうした問題ではない
かと考へられる。
 この事件は、広大なる蒙古の地に於いて一局地の帰属の
如き意に介するに足らざる問題とも見らるゝが、実質に於
いては決して然らず、わが正義貫徹力の強弱如何は直ちに
以つて満洲国及び蒙疆地方蒙古人の人心に深刻なる感銘を
与へ是が延いては治安に政治に重大なる影響を齎すもの
であることは議論の余地はなからう。
 本戦開に於いて陸に空にわが日満軍が優勝を獲得せる
ことは一に平素の訓練の賜ものに外ならない。
 本事件と前後して琿春、東寧等の方面満ソ国境各処に於
いて彼の不法行為が頻発したが軍はその都度本然の任務に
基づき断乎之を撃退した。将来もかゝるる事件は尚ほその跡
を絶たないものと覚悟してよからう。