米国海軍と太平洋 (上)
海軍省海軍軍事普及部


 米国の新大陸開拓の所謂西進運動が、一八五〇年太平洋
岸に達して以来、太平洋はいよ/\米国将来の発展舞台と
して進取の気象溌剌たる米国民の視野に上つてきた。
 尤もこれより先き一七八四年二月二十二日(ジョージ・
ワシントンの誕生記念日)、商船エンプレス・オヴ・チャイナは、
野生の人参四十噸を積んでニューヨークを出帆し、喜望峰
経由広東に至り、こゝに米支貿易の端緒を開いた。
 一七九柑年、初代の大統領ワシソトソは、廣東領事サミス
エル・シすりを通じて支那政府に封し、「支那は米国の薦め
                              ハ ク一「
に門戸を開放すべし.」と申し入れた.一入ニ○年頃布唾の
ホノルル港は米国商般保と捕鯨船との根撮地となり、一入
〓三年には米南捕鯨船トラソシットの賠長カツフインは小
三原群也に氷り母鳥列鳥を敬見した.かのモンロー■主義が
中外忙▲克明されたのもこの年である.
  ′∧三〇年噴山道忙は米一圃の商船と捕鯨船は太平洋及び印
            は▲しいfヽ
度洋の至る虞に活搾を檀忙し、一方これらの膚糖及び捕
鯨船の保護の馬め武力を行使する必婆ありとの試論が起
り、一入三六年になつて漸く請合はこの計賽に妥する費用
 け一かl‘一山
忙協賛む輿へ、海軍代絡チャールス・ウィルクスの指坪下に
編成され多数の料率者を乗せた六隻の一小楷抹は、一入
三入年八月ハソブナソ・ローズ敬マゼラン海峡む経て太平
           ん〜l・・し一
洋に進出し、多数の島喚を探険した上三年有牛の後「書望峯
経由蹄萌した.ウィルクスはサモア及びフィジー南群島の
し・フ▲サ●,
酋長をして通商保護む背約せしめ、又一入四t年ウエー
キ島を卑見し米国の領土なりと宣言したが、一入九九年産
に米囲の領有に挿した.
        ▲−、ん
一入四一年、阿片戦率に際し、米岡アジア艦隊司令官カー
ネー代郷は、「英図が戦争に依つて得た樺纂には米喝はす
   幸,レて■山
べて均零する.」といふ方針の下に行動し、●黎年囲鞍桝ダ.ミ
エル・ウェブスターはカレプ・カツシソグを支那に特瀬し
(18)
  ・モいけいこJヽ
 て最血息▲開催約の締結を迫り、−八四四年カ’シソグ」條約
へ笹原條杓)を結んだ。ウシソトン大統領以来二度日の封支
門戸開放主義の硯はれである.
 一入咋三年、上海は閑池場となり、同年英租界が出来、】
入五三年米闊租界が出水、後一入六三年英米雨租界は合併
して一の共同租界となつた.
 かくて →入四三年、サイツアム・エツナ・ツーワード(後年
大統領リンカーソの丙教榔)は、「措来世界の大事件は太平洋
に放て起るべしJと濠首した.
 】入四五年、米固議合は「朝鮮と日本を開園せしむべし.」
との決散策を漁過し、】入四六年海軍代丼ビッドルは九十
門艦ゴロyバス及びフXゲート艦ヴTyサヌのこ隻を率ゐ
                 山r し
て江戸潜に入り、幕府に閑静互市を迫つたが、大鶴領の訓
                            ▲ばく ¢−
令に基づき、日本の感情を普するが如き行動を憤しみ、幕吏
の拒絶に曾ふや直ちに去つて長崎に赴いた.これが最初の
                  ●▲y▲▼.●
黒楷駄ぎで、その結果水戸斉昭の主唱に依り品川滞忙七
つの嘉場が築かれたのであつた.この年(一入望ハ)米鼻戦
                     一い†う●
季の結果カザフォルエアを取り、金円滑預に星條凍が桝つ
たのであつた.
 かくて太平洋岸から直榛東那に至る舵路を開く必斐を認
め、】入五三年ペルyは「太平洋上に貯米所の連鎖を件
くけ)

                                ルー は
れ∵といふ佃令を受けて江戸潤忙米た.そして珊瑚には梅
                                    た
節純純と貯淡桝を設け、二見港にも・根線純綿設計奄を樹て、
一時小紋原秤仏むパ領した稗であつたが、英聞流榊の抗議に
沌つてこれた故梨するに艶つた..ヘルリは一入五四年再び
江戸撃ノ氷り、途に同年三月三十一日紳奈川恨約の調印と
                               てんiつ
なつて戦が団が二宮年の及夜の歩から覚めるに至つた樽末
は榊加の逸りである.
 次いで米国は、一入六七年ロシアからアラスカを買収
し、一八九入年ハワイむ併合し、米西戦争の結兆フィりッ
ピン謂良とグγムを接待した.一入九九年サモア群践のツ
ツイヲを得て造かに漆洲む望み、こ1に太平洋方南に封し
“驚くべき領土的確展を完了した.
 同年閉路卿ジすソ・ヘイは、かの支那に放ける通商上の
門戸開放及び横合均等義弟を尊明し、爾来これがノ支那の領
                           ▲▼ て.’
土保全とともに米国の東沖政紫の基調となつて今日に及ん
でゐるのである.
 二十世紀の初頭、かのセオドル・ルーズヴェルナ大統領は
サンフランジスコに放て「金円滑頭に立つて造かに太平洋
上に刺する水平線を望めば、米団が将来大をなすと香とは、
一忙太平洋を史配すると香とに依ることを知らねばなら
                           し ヽ く
ね.二十世紀は太平洋の時代である.」と獅子吼し、また「吾
人は吾人の太平洋上にパ有する僚渉の地位を悟らなければ
ならぬ。太平汀は今世紀に於て我が米図比の勢力範鞄に蹄
すべきものであつて、太平押上の貿易とその煙勢とは世界の
雁史に於て東京東大である.」とも」軍首し、海軍改新を確立
           し●・’・もく
して太平沖の純梢を掌捜することを以てその固第とした.
 ルーズヴェルト大和領は賓に米図近代梅軍の母であつた.
 かくて一九〇三年.ハナ・マをコロンピアから礪立せしめ、
  かい1・く
道河開墾棉と浦河杓帯十哩の管理槽を得、翌一九〇四年か
らいよ〈工事に譜手し、一九一凶年八月十五日、.ハナマ
運河は十年の礪月と三億七千五官常抑の玉費を投じて途忙
し呼んこ▲フ
竣工するに至つた。
.ハナマ遅河が伽…かつた常時は、スエズ運河を経由英固か
                            ’ Jヽわい
ら極東への距離は、米図の東海岸から靖米の南端を迂岡し
て極東に達する距離よりも約二千沌近かつたのであるが、
.ハナマ運河の開通に依つて反封に米固からの距離の方が約
二千裡近くなつた薦めに、米閲の東洋貿易にとつても太平
洋はますくその重姿性を増大するに至つた詣である.
 更に.ハナマ速河の竣工は戦略的には俄然太や洋の形勢を
一山攣するに室つたことはいふ進もない.
一九一九年(大正入牢)八月、官数十隻から成る米均大盤
隊は、道河の東口コロソに集結、、大縦殉を作つて堪河合
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長四均沌飴の秋水路を西に払過しセ.昭和九年度→−一隻
から域る米囲大艦隊は、僅かにこ室夜で逸過し了つた好成
約をあげてわる¢牲近には−九三九年度米国海軍大演習
河蓬マナバの中行航艦母壷航
(自一月T
繋六月)の開
始に常hソ、
ウィリアム・
マツタワッLr
少賭指揮下
の主力三
十隻む先
頭に、米団
山聯合艦隊の
▲▼●’ど,
擬機首飴隻
が、本年−
月九日.ハナ
マ運河の西
口バルポア
鞄忙到着如日蓮河通過を開始し、大成功裡にカサビア梅に
集結を了した.
 米国海軍の作戦能力が.ハナマ運河の思点に依つて、いか
に増大されたかは音忙測り知るべからぎるものがあるので
あ】る●
 かくて.ハナマむ枢軸とする大西、太平南洋作戦忙即應し
得る態勢が完整されたのである.
 これを婁するに以上概説した通り、太平洋は米囲の発展
舞婁として、また賂釆戦の舞董として、米国民の重大なる
関心を持つところとなつたのである.
        し lヽ
 英国海軍の始組は梅賊であるが、米国淳軍は商胎と捕鯨
胎の保護から川蟄した.而してその海上武力を以て東亜を庶
略するのが目的であつた.凡そ虜の国防とは線の速い存亜
である.未だ忙この倖耽的な考へが軟けきらず、西太平洋へ
の進攻作戦を海軍作戦の唯−の日横としてゐるのである.
 また米開海軍は既述の洩りジ.y・ヘイ以前から支那の
門戸開放とも緑が深かつた.
 今や我が東亜新秩序の建設に昔つて、支那の門戸が閉鎖
されるのではあるまいかと、無用の心配から強大なる米図
                       はくL▼●
海軍は艦船・舵婁棟の充‡に根操地の紫備に拍車をかけて
ゐる.これに封してわれ〈は萬仝の封節を講じ、不敗の
備へをますく固くしなければならぬ.(表へつゞく)
く21)