第一一七号(昭一四・一・一一)
新支那の外交問題 外務省情報部
輪出振興と特殊保税工場 大 蔵 省
時局とレコード 内 務 省
国際政局・回顧と展望(下) 外務省情報部
内閣更迭
近衛首相談
平沼首相談
大命を拝して (平沼首相ラヂオ放送)
最近公布の法令 内閣官房総務課
五
昭和十三年二月四日、ドイツに騎て国防軍の改組放びに
摂桝、外交の陣容に大刷新強化が断行きれて、各方面の注目
をひいたのであつたが、また同二十→日にはイーヂy外相
が馴職して、澱ハ図外交の捲換が想像され、欧洲の政局忙大
きな波紋が礫想されたのであつた.
兆せるかな、三月十一日には、ドイツ軍がオーストリア
に池零し、十三日時は一滴の流血も見ずして昭喚合併が宜
官されたのであつた.しかも、この猫塊合併は中欧及びバ
ルカソ忙大きな衝撃を輿へ、三月十七日、怨ハ如ポーヲソドは
yツアー17に最後的泡牒を迭つて、国費調薮を強要した事
件が起り、七月にはブルガyアの再軍備が普現する等、各
国の情勢に大きな挙動が起つた.(f詣謂臥相詣謂蜘小)
最も大きな岡垣は、チェッコに放けるズデーテソ・ドイツ
のドイツへの従辟間海であつた.
即ち、預ねてから自治璃立を要求して、チェッコ政府と
の聞に紛争を横けて衆たチェッコ国内のドイツ民族は、喝破
合併以来、ズデーテソ・ドイツ賞指導の下忙、活澄な自治運
動を起したが、これがためチェッコ政府との封立が激化
し、途にチェッコ国内各地此擾乱を見るに至つて事態は重
大化し、英国ヲyyマソ卿の調停も敗無く、九月止丁忙至づ
てドイツとチ;コとの交渉は決裂し、南西共忙動員を行
ひ、英俳もまた動員を行ふと報ぜられ、正に大戦の勃費を
想はせる危機に直面するに室つたのであつた.
しかし、英図チェソ.ハレソ首相の必死の努力と、米国大
統領を始め各国の平和的解決の勧普及びムソy−一一伊首相
▲るつ一ん
の斡旋とによつて、九月三十日の、、、ュyへソ四囲曾談とな
り、やうやく平和的解決を見たのであつた.郎ち四囲合談
の結果、ズデーテソ地方はドイツに割譲され、またそれと
開聯してポータソドはテッセソ地方を、ハソガy−はルチ
ェア地方をそれぐ獲得することとなり、こ▲にチ;コ
問題は一段落を普げたのであつた.
大
】方、スペイソ間項考生以来、地中港に放ける英伊の関
係が悪化し、それがために礪伊堪軸上英彿協定との封立が
激化し、またパレスチナ地方を初め7ヲビヤ及び7フワカ
同教徒地方に、猛烈な反英運動が起つてきた事情は、英図
をしてイクy−との貸協を必要とさせるものであつた.ま
た、イクy−としては、エチオピア合併に対して英国をは
じめ各国が、正式忙これを乗認することを要望してゐたの
eある.かうした開閉の姿求から椚氷上つセのが、四月十
六‖の英伊協定であつた.
しかし、この共伊協定は、スペイソに放ける義勇兵の撤
収と、エチオピア合併の承認とが交換的に賓行されること
款條約の致力を教生させる條件としてゐるので、一方、ス
ペイソ間堪はフヲソスとの関係もあるので、容易に解決が
‖氷ず、また、チェッコ問題の悪化等のために英伊関係が河
浦を快いたので、英伊協定はなかく数力を教生するに至
らなかつた.
ところが、、、、ュyへソの四囲合談に放て、チェッコ問題
の解決と併せて、英昭俳伊間の団交調整、親響閑係の同夜が
輪禍された結兆、英伊協定も致カを教生することとなつ
たJかくて十月入日、イクリー政府は、自黎的にスペイソに
放ける養弟兵一萌を撤収することを頚表したので、イギyス
政和もこれに廠じて、英伊協定を十一月十六日を以て致力む
飴ぜしめる旨を準表し、同臥、ローマ駐在のイギザス大使は
はチてい
イクリ−国王エチオピア皇帝への信任状を捧呈し、こ1に七
ケ月収りを以て、英伊協定問題は解決を見セのであつた.
セ
ミさソへy合流に於て行はれた四一国▲国交の調亜は、先づ
ミュソヘソ合議に引き続いて行はれたヒトラー絶舵とチェ
ソバレソ首相と打合談によつて、英昭間忙戦争に訴へない
といふ諒解が成立したのであつたが、それに引続いて英伊
協定の費敗間領が解決して英伊の団交が調整され、監にそ
れと併行して猫俳、俳伊の団交調整エ作が進められたので
あつた.
かくて礪俳間忙は、十二月六日、yツべソナーップ濁外
土−一.’
相のパX訪問を横合として、英猫立言忙傲つて、礪俳宣言が
調印された.しかし、偶伊の親書工作は、スペイソのフラy
コ政権に封する交戦国健碓の問題に封する意見の封立など
があつて、団交調整は頗る困難と見られてゐたが、英伊協
定の敬故に際して、フヲソスのP−マ駐亜の大使も、イク
ワ−図王エチオピア皇帝への信任状を捧呈し、エチオピア
合併を承認するなど、大い忙俳伊接近の情勢が作られてゐ
たところへ、十一月三十日のイクワ−譲合に放て、チニー
ス問題が起り、フランス倒はこの事件を重大硯して、イク
ワ−改称に抗議を行ひ、また、俳伊南図の内部に、それノ〃1
反俳、反伊の示威運動などが行はれるに至つて、折角の悌伊
hとんぎ
親書工作も、、→頓挫を来しねのであつね.
なほ、チェッコ及びフランスと相互援助條約を結んで居
り、同盟国の閲係にあつたナ聯邦は、チェッコ岡髄に放て仝
く無税されて、歌仙呵外交界から晩落し、孤立の立場に略つ
てしまつたのであつた0これは囲内に放ける打ち‥硬く南清
工作の不安等によるものであると見られてゐるが、いづれ
にせょ、ソ聯邦の孤立は注目すべき事賓であるが、十一月
二十八日、ポーヲyドとソ聯邦との間に、不便略偲約を確
認するといふ共同黎明が後家されて、欧洲外交界に衝動を
輿へたのであつた.
ポーヲyr政府は、このソ汲聾明は決してドイツとの閲
係むh耳切るものではないと坪明してゐるが、チェ’コ間頓の
解決によ・つて、ドイツの東欧への進出が拍車をかけられる
忙至つた情勢に顧みれば、このソ汲聾明は礪ソ汲三園の紺
係が頗る撒傲なものとなりつ1ある一端を規はすものであ
一l’−●
り、また筑立したソ聯邦の焦慮を現はすものと見られてゐ
る●
入
咋十三年で、・内乱第三年を迎へたスペイソは、・既に壷▲国
土の五分の四をその掌中に収めたフヲyコ革命政府が、
愈亡その基礎を固め、−月二一十一日、フラッコ浄軍は革命政
府を改組して、スペイソ国民政府を樹立し、防共む旗印と
した称乎たる陣容を整へたのであつた.
しかも、ゾ仙仰邦
の碑立化、フラン
ス忙於ける人民敬
線波の及落⊥等の」情
勢は、フヲyコ政
権の勝利を決定的
ならしめ、もはや
大勢は動かすべく
もない事態に至つ
た.ので、イタyI
も義勇宰の撤収に
封して同意七輿へ
る態度む示し、四
月の英伊協定が成
立したのであつた.
かくて、英伊協定が成立するや、六月、Pソryに放け
る不干渉委員曾は、英国の捜秦に基づいて義勇兵の撤収
案を討議し、七月五日、二十七ケ固の代表忙よつて撤収実
の賓行が決定されたのであつた.・・しかしながら、この常時
に、フヲyスの人民戦線淡が、赤色軍を積極的に扱助した
書が皐斉し、漣た、フヲyコ軍の英商般爆撃事件などが
勃頚したので、英伊関係も態化し、フヲソコ政権も、不干
渉委員禽の義弟兵撤収案に封して、交戦囲健碓の乗認む前
提條件として斐求する強硬な態度を表明したので、また
また耗功丘ハ間怒は行き悩みとなつた.
その後、チェッコ開掘が重大化したために、各国共に暫
くスペイン川髄を考へてゐる飴裕がなかつたが、、、、ュyへy
合議に於て、欧洲平和再建の問題としてスペイソ問題が取
り上げられ、英伊協定の数力教生が決定したので、それと
圃聯して、スペイy同額が再び各固によつて考慮されるに
至つた.
‖英伊協泣の敬故に先つて、既にイクy−が自我的に養−男
兵一耗の撤収を行つたので、こ1忙事血耳上スペイソ開題解
決は一歩を進め得たのである.然し、まだフヲソスはフラ
yコ政稚に封して交戦期健樺む輿へること忙封して、依
然、強硬な戊封むして居り、しかも、俳伊の国交調整が行
き悩んでゐるので、スペイy閏頼の解決も、また、前途の
見透しがつきかねる事情に肋伯つてゐるのである.
九
東郷事竣忙射しても、またチェa問題等についても、常
妊大きな桝顧として注目されてゐるのは、英米の共同戦線
である.今日までのところ、イギyス側から舞度かの働き
かけがあつた模様であるが、米国は依然として中立の態度
けん ′_
を堅持して、歓亜の掛率に捲き込まれないやう忙警戒して
ゐるのである.
十一月十七日、ワシyトyに放て結ばれた英米通商協定
は、賓忙三ケ年の懸案であり、正式交渉が開始されて以雑
→ケ年の曲折む経てやうやく賓現したものであつて、英米
提携の−つの現はれとして、その本木の内容である経済的
の意義よりは、政治的の意義が大きなものと見られて注目
されるものである.
即ち、この英米池商協定は、米国側から見れば、ハル固
珍長官の政策である者隣互意政策の現はれであつて、ルー
ズヴェルト大統領のlニー・デイール政策を完成する経済政
は牙であるが、英固側としては、】九三二年のオタワ協定に
ょつて作られたプロツタ政紫む改襲することになるのであ
t
るから、容易にそれを受け容れることが出来なかつた.し
だ けつ
かし、英国政府がさうした困難を克服して妥結忙まで至つ
たのは、英米塊携の普現といふ政治的意義に重新を置いた
からであつたと官はれてゐる.こ1に英米通商協定の持つ
♯息義がある.
而して、今後この泡商協定によつて作り出された英米塊
池川が、如何に削叫いて行くかは、頓る注目に増する問題であ
るが、支那事攣に仙閲しても、最紀に英米開園が、碓祐仰悔
について鶉何の熊度を示し、また、蒋介市政稚に封するク
レディット岡垣についても、同→歩調む取つてゐるやうに
見られるのであるが、かうした事資は、日本としては、充
分な山警戒を必要とするものであらう.
−0
米囲が欺並の紛争に捲き込まれるのむ極力替概してゐる
のは、南米大陸自からの紫柴む、他洲の事件によつて阻事
されることを恐れるからである.むち、これがモソロ−主
義の精紳である.現ルーズヴェルー政府が努力してゐると
はんペい
ころの汎米政繋が、モソロ−主義の卑展であることは勿鎗
である.
十二月九日から、ペルーの首都サマに放て、カナダを除
く南北中米諸国二十一ケ固の代表を集めて、粛八同の汎米
合議が開かれたのであるが、この合議忙於て、最も大きな
問題となつたの漑、米国のルーズヴェルト大統領が提唱し
たところの全米大陸の共同防契案であつた.
この共同防契寒は、外部からの米洲大陸に封する侵略に
封して、全米洲諸国が共同】致の鮨度を取ることを約束し
ょぅといふのであるが、これ忙封して、アルゼソチソが強
硬な反射を表明した.そして、この案忙示されてゐるとこ
ろの外部からの侵略者といふのは、寄ら濁伊等の礪薔
を指すものであると富はれてゐる鮎から見て、米国が抱い
てゐるところの汎米政策の目梼が如何なるところにあるか
といふことが窺はれるのである.
し▲▼
チェッコ間額の後に、米国に於て頻りにドイツの南米進
出が論試されたことがあり、更にその後、ユダヤ人間砥が
た小
起るや、米国の反弼感情は著しく昂まり、南国政府共にそ
れぞれ大使む召潰した経であり、また〔ドイツ忙封する報
復関税の適用などが唱へられ、米礪南国の関係が頼る感化
しっ1ある折から、共同防無実を中心とした汎米曾講の動
きが寛大現されたのは常然であらう.
−−
なほわが国としては、十一月二十五日、ドイツとの間
に、わが国最初の文化協定が結ばれたのであつたが、これ
ょり先き八月にはヒトラー・ユーゲソトの】行が来朝し、わ
が固の青少年珂との交輝が行はれ大いに日礪親書に貫赦す
るところがあつた.またそれょりさき五月には、イクワ−
ょり経済使節の来朝するあ少、更に十月にはべ・ルーよ少
文化使節の来訪するなどあつて、大いに文化外交の方南忙
斬らしい分野が開拓されたこ上は、昭和十三年に於ける収
穫として特筆さるべきことであらう.
また満洲囲も建国第七年を迎へて、愈モ東亜の大開とし
ての資力む備へて、世界外賓の舞婁に乗り出したのであ
つた.即ち、二月二十日、ヒトニフー線統は正式に滴洲固の
承認む黎明し、こ1忙滞礪聞に正式に外交閑係が成立した
のである.しかも七月五口忙は、日浦伊三園の貿易協定の
調印を見、培いて満伊修好洩商條約も調印され、吏忙九月
十四日には、清濁通商協定が結ばれて、こ1忙防共枢軸を
めぐ
繰る日滴璃伊四囲の強尚な親曹関係が結ばれ、有力な耗済
的の提携が成立するに至つたことは、浦洲国教展の前途忙
輝かしき光明を斎したものといふべきである.
〓l
かくの如く、昭和十三年の国際情勢は、菅に波瀾萌丈、
東亜に於てまた欧洲に於て、重大なる事件が絞教して、危扱
いと●●
に次ぐに危横を以てし、情勢の挙稗は磨接に逸がない有
様であづた.しかし、各囲共に極力戦争む同避することに
努力した結果、よく戦争の勃蟹を寸前に放て阻止し辛くも
爆頚を免れたのであつた.
■箕郷事攣は、愈†長期根−設の投仙隅に入り、事態は益と重大
となり、第三L同種森岡k喝を‥粍つて、或ひは列囲の蒋介石援
助岡垣に槻聯して、外交紬係は更に複雑を加へるであら
ちノ●
また、欺洲に放ては、ミユソヘソ合談によつて、→時的
一,か, くわん わ
の小康を得て危機は綬和されたのであるが、未だ英俳猫
伊の団交は完全に調亜されるに至らず、地中海を積るイク
ワ−の諸間堪は今後更に重大化すべきものと預想されて居
り、スペイy間髄も、なほ、解決を見るには、粍多困難な
る閑寂が壌されて居り、しかも、ドイツの東欧進出は、中
欧乃至.ハルカソに放ける情勢を激化させるものと憂慮され
てゐるのである.
その他、.ハレステナは依然接乱を続け、問題は益†悪化の
傾向を辿つてゐるのであり、イyドに放ても自治渾動の再
熱む侍へられて居り、その他各地に於ける勤務の情勢は、
いづれも全世界的の不安む反映したもので事態の容易なら
ぎをことを現はしてゐる.この間に廃する帝国の外交は、
日弼伊防炎枢軸を基礎として、支那事費によつて作り川さ
れた東亜の攣革に伴ふ新秩序の施設に向つて邁進しっ1あ
るのであるが、東亜に放ける新秩序の建設を綾つて展開さ
れるところの封英米併ソとの外交恥は、欧洲に放ける猫伊
枢軸封英沸協調、戎ひはソ聯邦を中心とする反フナ’y・人
民戦線との封立の情勢を反映して、欧亜を貫く世界的犬外
交肌蹴忙他ならないのである.
顧みて昭和十三年の世界外交の動きを見れば、東亜は日
本を中心として、鞍洲は猫伊を中心として動いて釆たかの
如き叡があり、而して、来るべき昭和十四年の国際情勢
も常然、この日濁伊三園の動きを基調として、更に大きな
波瀾を穐き起すであらうと頚想されてゐるが、これは、跡
ち、帝国が東亜に放て指導的地位を獲得しつ1あり、また
ウt
欧洲に於ては、濁伊の南開が新らしき欧洲の情勢を創り出
すべき理想に向つて邁進しっ1ある常然の結果である.
既にして日本は、支那手軽以来−年牛を鮭て、凡ゆる困
難を克服しっ1、賓期建設の段階忙邁進して来たのであ
る.更に今後来るべき国際的重畦が、従来に此して鶏慮催
されることがあつたとしても、それはもとより覚悟の前で
ある.たど、あく進も国民的囲結を以て、群り起るところ
の国際的重歴を克服すべき以外に途はないのである.