第一一六号(昭一四・一・四)
時局下に於ける皇室の御近状 宮 内 省
事変第三年を迎ふ 内閣情報部
時局の前途と陸軍の使命 陸軍省情報部
大陸建設と海軍力 海軍省海軍軍事普及部
列国と観光国策 国際観光局
国際政局・回顧と展望(上) 外務省情報部
−
昭和±ニ年の閥際政局を願れば、東亜に於「は、支那
事欒は第二年忙入り、戦局は益と凍大して逮に南東に及び、
蒋介石枕日政権の地方政権への挿落と、新らしき親日防共
政械の輔弼とによつて、事欒はこ1忙農期塊設の時期に入
つたのであるが、この事態の進展に件つて、英米併ソ等の
各団が、戎ひは支那に放ける格姦の保全のために、或ひは
箔介前政権の援助忙ついて軽々の動きを見せ、東訳新秩序
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の建設を続つて、極めて複雑な且つ重大な外交戦がくりひ
ろげられつ1釣る.ハカットの耳丸牲ミユyへyの町)
また、一研つて験洲に放ては、オーストyアの合坪から
メーメル間髄に至るまでの、ドイツを続つて捲き起された上
ころの中欧及びバルカyに放ける大波瀾があり、イクワ−
セ中心として、地中海の情勢は益÷緊鹿を骨げ、英伊協定
からチュニス問題までの頚艮む見せ、第三年に入ったスベ
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イソ刺軋も容易に路地の模様もなく、璃伊枢軸と英併協定
との封立は愈.、尖鋭化しっ1あり、飲洲の不安と動耗は極
めてh確劉である●
かうした枚亜輌大陸の激動に噴して、米観をはじめ南北
南米大陸緒噂は、欺亜の紛争の中に捲きこまれることを避
.けるために、械度の督域を行つてゐるので、米洲大陸は極
めてや和の状態を保つてゐるのであるが、然し、米国をはじ
め各図ともに、支那事費やチ;コ問題等のために、大きな
影響を受けてゐることは勿論で、全米大陸の共同防襲案な
どが間確とされてゐるのも、もとよりその】瑞を現はした・
ものに他ならないのである.
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粛〓年を迎へた支部事奨は、一月の青島攻略たはじめと
して、着々として教典は域大され、五月には徐州を陥れて
中原を制盤し、ついで十月には甫真に放ける奇製作戦は、
世界戦史に未曾有の戦果を収めて庚東を攻略し、薄介石
政権が命の綱と鶴む武熊取途の大動脈であつた沓漠線む
切断、南方に於ける紋日の撼鮎む壊滅せしめたのに凍い
て、蒋介石政碓の最後の凍新である漢口を陥れたのであつ
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こゝに於て、蒋介石政碓は、四川或ひは巽南の奥地へ
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潜入を企て、全く一薗の地方政樺忙持落し経つたのやあ
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る.′然しながら、なほも迷夢の醒めない薄介石泣び忙囲成
算は、共産篤との合作を強化し、依然、ゾ聯邦その他列国
の援助を頼んで長期抗日を叫んでゐるのである・
帝瀾政府は、一月十六日、蒋介石政権を射手とせずとい
はたじlし たナ
ふ婁明を教義して、親日防共を旗印とする新政樺を授け
て、新らしき支那建設に邁進すべき態度を中外に宣言した
のであつたが、更に藻口格落するや、十l月三日を以て、
東亜の新秩序を建設し、以て東亜永遠の平和を確立すべ
き長期菱の決鹿畝明した溜あつた・
この間に放て、前年末、北京に成立した中華民国臨時政
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府は、一月三十日に萱防共自治政府を合併し、更に着々
各地の自治政権を収容して、々の基礎を瓢化したのであつ
ねが、また、三月二十入日、南京忙中華民国舵新政府が生
れ、中東地方の復興建設が進められるに至つたのである.
かくて、九月二十二日には、これ等の新政権を合流せしめ
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て、斬らしき中央政権を創る準備として、臨時・都新柄政
府の間忙中華民国政府聯合委員曾が設けられ、こ1に帝団
政府の長期建設エ作と相呼度して、東亜新秩序への行進が
山開始されたのである.
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立邪事竣に放ける戦局の鴻大に件ひ、列固の刺客閥係の
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締結と、輝介石政権の陰険なる反日工作とによつて、各図
の日本忙封する感情はハ企モ悪化し、事毎に日本の行動に
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山翠肘を加へんとする傾向が現はれ、前年の失敗にも懲りず
に、国際聯盟忙於ては、依然として日東問題が取り上げら
れ、五月十四日の理事曾に放ては、またもや日立紛季に関
する決議が株樺され、九月十九日には、愛郷の聯盟規約粛
十七億の旭川を要求した櫨訴を受理したが、帝国政府はこ
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れに封する聯盟の招請を拒香するとともに、同三十日、聯
盟理事曾が第十七條の粛三項によつて第十六條の制裁適用
報令書む糀揮するや、十月三日、去る昭和入年の聯盟舵温
以後、各秤の政治的以外の協力を聯盟ととも忙するために、
壌留してゐた聯盟の各種の委月曾からも舵温する旨を斐明
し、十丁月二札を以て帝国と聯盟諸機関との協力が全く経
止する旨の正式砲台が行はれたのであつた.
また先月に入り、わが杢軍の庚末に対する連続大爆撃が
行はれるや、支那側は聯盟及び列国忙抱合を覆して、その
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阻止を款威した.これ忙封して英彿専では猛烈に日本を非
稚し、イギリスはアメリカその他む誘つて調茶委員含む
設置せんと企てたのであつた.更に、フランスは、七月四
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日、西沙鳥の占領を通合して日本を牽制せんとし、ゾ研邦
は張敦峰事件を挑教して、わが浅口作戦む阻害せんとし
た.
稚益貴重或ひは門戸開放に関しては、英米彿等の各国は、
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種々な横合を捉へて、塵と杭講や申入れを行つた.七月か
ら八月にかけて、所謂手塩 クレーギー合談が行はれ、ま
た十月六日には米国政府が権益の確保につき、十→月七日
には英米件の三園が坊子江の自由舵行について、それJル\
申入れを行つたのであつた.
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敗戦に次ぐ敗戦を重ねて、薄介石政権が奥地に潜入した
にも拘らず、ソ聯邦の藩政横援助は益」蕗骨になつてきた
が、また卑漢線の切断によつて紋日路線の大動脈を失つた
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蒋介石政権は、しきりに俳領印度支那或ひは緬旬等を泡じ
て武器の輸迭を続けてゐると侍へられてゐるのでト十月二
十八日、帝国政府は重ねて俳国政府の汚意を喚起するとこ
ろがあつた.然しなほ、その後も依然として、同地方を泡
じて武禅の輸遽は続けられてゐると報ぜられてをり、史
に最近に至つて、英米開図は封支クレディツーを許容する
此守、槽緑川頓とk閥聯してか、頓る積極的に涛介石援助の態
度を衷仰りするに至つたことは‥托目すべき事賓である.
四
ソ聯邦の反日的の態度が、事攣の進展とともに益モ暴状む
加へてきて、癖留邦人は勿論、わが川先き外交棟開忙まで
も不漁な購迫む加へるに至り、モスコーの大使館をはじ
め「ウラジオ、ハバロフスク、プヲゴエシチェソスク、ア
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レクサyドロフスク及びハオ等の各鯛事館に於ても、頻々
よして不汝な那迫や、不常の取扱ひを受け、途にプヲゴエ
シナェyスク及びハバロフスクのこ領事館は閉領引上げ
の已むなきに至つたのである.また、北樺太に放ける石
油、石溌事共に封しては、非常な迫育む加へ、従紫貝に封
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して不法な拘禁や苛軒な刑罰を加へ、途忙北樺太に於ける
わが京大利権も、閑黎不可能に陥るの他はないと憂慮され
るに室つた.
かうした険悪な反日的情勢は、浦ソ国境方面にも反映
し、ゾ聯箪のわが方に封する挑戦的な不法行為が、日夜拭
けられてゐたが、迭に七月牛には、東部国境に掛ける張就
峠をソ聯革が不法にも地境してこれを占操したのであつ
た.こ1に於て、わが方も断乎としてゾ塀済む塀返してこ
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れむ奪博したが、吏忙ゾ聯側は執拗忙わが宰忙改革を加へ
てその奪還を企て、こ1忙両軍の間に砲火が交へられる忙
至つた.
この日ゾ軍衝突の報が世界に侍へらる1や、延いて大戦
勃頚を憂賭して、各図ともに非常な衝動を受けたのであつ
たが、わが軍はよく隠忍自重し、張鼓峰を死守すろととも
に、事態の棟大を阻止したので、ゾ聯側も遽に張孜時の奪
還を断念し、八月十日わが方の提議を容れて休戦協先に調
印したのであつた.この事件の結果は、わが外交の聯利と
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して、各国から淘誓俸したのであつた.
張鼓時事件はかくして解決したが、日ソの閲係は益.、霜
化しっ1あり、前年米の重大懸案である漁業條約の改訂同
額は、前年の波瀾に引続いて、既に四月頃から交渉が始め
られたが、ソ聯邦例の態度は極めて誠意を炊き、徒らに交渉
だ けつ
の引き延ばしむ企て、途に年末に至るも貸結を見るに至ら
ないので、わが方としても、重大なる決意む以て、最後的
折衝を試みるとともに、萬一の準備を整へつ1その成り行
きむ注硯してゐるのである.ハ轟につ∫く)