第九〇号(昭一三・七・六)
事変一周年特集
事変一周年に際し全国民に訴ふ 内閣総理大臣近衛文麿
経済戦の備へ 企 画 院
事変の回顧と展望 大陸作戦の戦果 陸軍省新聞班
制海制空の一年 海軍省海軍軍事普及部
波瀾の外交戦 外務省情報部
週報会結成を提唱す
官庁刊行物だより
昭和十三年前半期総目録
(付録)支那事変第一年戦闘経過図
事変一周年に際し全国民に訴ふ 内閣総理大臣近衛文麿
昨年の七月七日は、蘆溝橋事件の突発した当日でありまして、支那事変はこゝに早くも一周年を迎へることになりました。事件発生の当初、帝国は不拡大方針を以て進み、出来るだけ局地において事を解決する考へでをりましたにもかゝはらず、暴戻なる国民政府は、事々にわが誠意を裏切り、みだりに事件を拡大し、長期抗日を叫んで、つひに今日の如き戦乱をまき起しましたことは、まことに遺憾に堪へない次第であります。しかしながら、事変の進展と共に、行軍の向ふところ敵なく、僅かに一ヶ年の短日月を以てして、すでに広大な地域に亘つて、わが日章旗の、高らかに飜へつてをる実情を見る時、われわれは、到底言葉では表現し尽せない感激に胸を打たれます。これは申すまでもなく 陛下の御稜威のもと、わが忠勇なる将兵の奮闘努力のたまものであります。私はこゝに全国民を代表して、陸海両軍の将士に深く感謝の意を表します。それと同時に、忘れることの出来ないのは、この事変において、異境に斃(たふ)れた幾多の勇士のことであります。私はこれ等の尊い英霊に対してましては、心から痛惜、哀悼の念に堪へません。
さて、皇軍の巧妙なる作戦と将士の奮闘とによつて、連戦連勝を続け、今や漢口の陥落も目の前に迫つてをります。御承知の如く、蒋政権なるものは、大黄河の堤を切つて、罪なき自国の民衆を、幾万人も濁流の中に没し去つて顧みない政府であります。かゝる暴挙を敢へてするものは、天人ともにゆるすべからざるところでありまして、斯る政府が永続すべき道理はないのであります。本来からすれば、蒋政権はとくに没落してゐるはずなのでありますが、なほ余命を保つてゐる所以のものは、彼等が支那全民衆の福利を度外視して、自己政権の保全につとめ、凡ゆる手段を尽して、外国の支援にたよつてゐるからであります。列国の中にはドイツ、イタリーの如く、帝国の国是に共鳴し、相携へて、防共につとめつゝある友邦もありますが、また他方にはいまだ十分にわが真意を解せず、在支権益の擁護と、新たなる利権に熱中してゐる国もあるのであります。そればかりか、蒋政権の微力なることを知りながら、なほこれを援助することによつて、抗日戦を長びかせ、よつて以て、帝国の国力を疲弊せしめ、その間隙に乗じて、わが国をうかゞはんとする底意を有するものもないとは限らないのであります。
この国家存亡の重大なる事実に直面するとき、国民は目前の勝利に酔ひ、意を安じてゐることは出来ないのであります。この度の事変は名は支那事変でありますが、相手は必ずしも蒋政権のみではありません。そのうしろには、実に複雑多様なる国際間の利害関係がからみ合つてをるのでありますから、事情は決して簡単ではないのであります。国民諸君はよくこの間の情勢を見きはめて、現下の事変に対処してもらはなくてはなりません。
そも/\近代の戦争は、砲煙のみなぎる戦場だけが戦場ではありません。銃を取り、劒を振ふ人々のみが戦士ではありません。一旦戦争を始めたからは、よし、砲弾の飛びかふ地域は海の彼方であらうとも、わが国土全体もまた戦場なりとの、緊迫した観念を持たなくてはなりません。身に銃剣を帯びずとも、田を耕す者も、糸をつむぐ者も、ハンマーを握る者も、事務机による者も、老いたるも、若きも、男も、女も、国を挙げて、われもまら戦士なりとの自覚の上に立たないならば、この未曾有の時局を打開することは出来ないのであります。今日の戦争は、単に戦場における武力戦だけで決するものではありません。それと併行して、経済戦、思想戦も、また実に有力なる素因をつくるものであります。皇軍の将兵が敵前において、いかに目ざましい働きをしても、内国民の心にゆるみがあつては、容易に最後の勝利に到達することは出来ないのであります。
申すまでもなく、戦争は勝つか、負けるかであります。われわれはいかなる困苦を忍んでも、勝たなくてはなりません。帝国は皇統連綿、万邦無比の國體でありまして、わが国の歴史においては、外国と戦つて、敗戦したといふ記憶は、いまだ一回もないのであります。この度の事変においても、かゞやかしい勝利を得るにあらざれば、この誇るべき歴史を築きあげた祖先に対し、また次ぎの時代を受けつぐべき子孫に対して、われわれは何の面目がありませう。われわれは戦場における将兵と一心同体となつて、物心一如の国家総動員的体制を整備し、よつて以て、最後の栄冠を獲得しなくてはなりません。この栄冠を獲得するまでは、諸君は様々の困苦、窮乏に襲はれるでありませう。戦争に欠くべからざる軍需資材を充実させるためには、国民はその生活に幾多の不便を来すかもしれません。しかしながら、諸君は常に戦地にある将兵の身を偲んで、あらゆる艱苦に堪へてもらはなくてはなりません。戦場にある人々は、生命を的にして、国家のために奮闘してゐるのであります。国内のわれわれもまた、いかなる困難を忍んでも、出征将兵のため、後顧の憂ひなからしめるやうに勤めることは、実に、国民の責務ではないでせうか。これは決して諸君にたゞ忍苦を強ひることではありません。これに堪へることによつて、かくの如き戦乱を、ふたゝび東亜の天地において繰返したくないと思ふからであります。勝ち抜くことによつて、将来における第三国の野望をおさへ、東亜永遠の平和を確立させたいと願ふからであります。
支那四億の民衆の中には、さすがに帝国の真意を了解せる穏健質実なる人々が多数存在してをります。彼等は暴虐なる蒋政権に代つて、北支においては臨時政府、中支においては維新政府を組織し、目下着々その実績を挙げてをります。帝国は全力を尽して、この親日政府を援助し、以て東亜平和の基礎を確実に築きあげなければなりません。これは実に日本帝国の歴史的使命であります。
しかしながら前述の通り、現下の情勢は複雑を極め、長期戦の態勢に直面してゐるのでありますから、わが国として今日の如く、重大なる時期はないのであります。こゝにおいてか、挙国一致の叫びは起り、国家総動員が要望される所以なのであります。けれども、挙国一致といひ、国家総動員といふも、単にかけ声だけ、形式だけであつては、何の意味もありません。必ずしも人々を動員し、人々を集合せしめることのみが国家総動員ではありません。農家は農家、実業家は実業家、婦人は婦人、学生は学生、おの/\その本務とするところのものに、一層精励されることにこそ、そのほんとうの意味があるべきであります。各人が各人の立場において、その職責を果すことこそ、すなはち、挙国一致の実を示すものでありまして、これより大なる御奉公、これより強い団結はないのであります。各人は各人の有する手腕、技能、知識、天分を、この際いやが上にも有效に発揮することが望ましいのであります。当局は大乗的見地より種々統制を行ひますが、同時に、国民個々の向上進展を待望してやまないものであります。
諸君、戦ひはむしろこれからです。国家は切に、諸君の固き決意と、たゆまぬ努力と、うるはしき協力に待たなければなりません。諸君は深くこれを心に刻みつけて、どうか心をひきしめて下さい。困難に打勝つて下さい。そして各自の職責を完うして下さい。勝利の栄冠も、東亜和平の大理想も、これをよそにしては断じて得られるものではありません。支那事変一周年に際し、私は敢へて、全国民にこれを訴ふる次第であります。