第七九号(昭一三・四・二〇)
  靖国神社臨時大祭を迎へて 陸軍省新聞班 海軍省海軍軍事普及部
  実現する国営職業紹介所      厚生省社会局
  職業紹介事業の躍進
  庶民金庫の話           大 蔵 省
  山西の残敵掃蕩進む         陸軍省新聞班
  遊就館と海軍館
  独墺合併後の欧州政局       外務省情報部
  最近公布の法令          内閣官房総務課

 

靖国神社臨時大祭を迎へて
                    陸 軍 省 新 聞 班
                    海軍省海軍軍事普及部

 九重の雲深き大内山の乾(いぬい)の方程近き田安台上に、帝都を俯瞰していと厳かに鎮座まします神は、国民の熱血的尊崇を捧ぐる我が別格官幣社靖国神社である。
 来る四月二十五日より三日間に亙り、満洲事変及び今次事変に於ける殉難烈士の英霊を合祀せらるゝため、靖国神社に於て臨時大祭施行の儀勅許あらせらる。
 抑々一旦緩急あるに際し身命を祖国に捧ぐるは、寧ろ我が民族的信念であり、又国民的自覚である。従つて今次事変の勃発するや、早くも勇躍征途に上り万里波濤を蹴つて或ひは北支或ひは江南の野に散り果つと雖も、これたゞ国民的良心の命ずる所、國體の教ふる儘に、只管臣子の本分に邁進したのみで、この間多くの殉国の英霊は何物をも求めもしなければ又希望もしない。唯死してなほ彼等の堅持せる念願は、陛下に対する尽忠の足らざるを恐るゝ一念であり、死してなほ已まざる七生報国の誓約である。然るに畏くもお上に於かせられては、事変未だ半ばの今日戦歿勇士の上を深く御軫念遊ばされ、これ等多くの英霊に対し、近く授くるに国家の栄典を以てせられ、祀るに靖国神社の祭神を以てせらるゝ由漏れ承る。これ実に 天恩枯骨に及ぶと謂ふべきもので、臣子の感激愈々その深きを覚ゆるのである。


一、靖国神社創建の由来

 我が国では古来、忠勇義烈、一命を国家に捧げて尽瘁(じんすゐ)せられた所謂忠勇烈士を崇敬するの余り、これを神として祀つて報養の誠を效(いた)して来たのである。而して靖国神社は畏くも 勅旨を以て創建せられしのみならず、社格を賜うて別格官幣社に列せられ、永久に国家の祭祀を享ける尊貴の神社であつて、何人と雖も故なくしてはかゝる国家の宗祀たる神社に祀らるゝことは出来ないのである。
 靖国神社は実にかゝる名誉ある国家の祭祀を享けるこれ等の神霊のために、 明治天皇の深き思召を以て御創建ありしものである。これ等の神霊が世に所謂護国の英霊と仰がるゝ如く、国家に事変ある毎に天翔り国翔り皇軍の行先に尊き守護を垂れて、天壌無窮の皇運を扶翼し奉る所以のものは、かくまで遊ばされる皇恩の厚きに感孚する結果であつて、これ偏(ひと)へに有難き國體の表現なりと謂はねばならない。
 こゝに謹んで靖国神社創建の由来に就いて述べれば、その淵源は今日より八十余年の昔に溯らねばならぬ。即ち嘉永六年癸丑の歳に、黒船六艘が相州浦賀の湾頭に忽然姿を現はしてより後、日本国中騒然として鼎(かなへ)の沸くが如き有様になり、爾来憂国慨世(がいせ)の各藩志士は、東奔西走家を忘れ身を抛つて、専ら国事に尽瘁し、ために中道にして命を殞(おと)すもの相次いでその数を知らず、死後の祭祀の至らざるものも決して少くはなかつたのである。
 孝明天皇は、甚(いた)くかゝる殉難死節の士の義烈の志を悼(いた)ませ給ひ、夙(はや)くよりその追祭の典を挙げさせ給はんとの 宸慮(しんりよ)なりしも、当時猶ほ国内混沌として万事 叡慮に委(まか)せ給はず、纔(わづ)かに諸藩民間に於て挙行せらるゝに過ぎなかつた。その後明治元年、有栖川宮熾仁親王、東征大総督として東国を鎮撫し給ふや、同年四月二十八日、令旨(れいし)を下して陣歿(ぢんぼつ)者のために招魂祭を行ふ旨を達せられ、六月二日江戸城内西丸大広間に於て荘厳なる祭典を行はれ、総督宮を始め奉り大官列席の上、鼓楽洋々、大いに神霊を安んぜしめられた。これ東京九段に創(はじ)められた東京招魂社の濫觴(らんしやう)と謂ふべきである。次いで同年五月十日には、朝廷に於かせられては嘉永六年以降の殉難者の霊を京都東山に合祀(がふし)する旨仰出され、七月十日、十一日の両日を以て、京都の河東操練場(さうれんじやう)に於て盛大荘厳なる招魂祭典を行はせられた。これ今日京都東山に在る霊山官祭招魂社の濫觴である。
 五月十日に 明治天皇より下された御沙汰書を拝するに、甚(いた)くこれ等節義の士の志を嘉(よみ)し給う
て次の如く仰せられてゐる。

 (前略)
 癸丑以来、唱義精忠、天下ニ魁シテ国事ニ薨レ候諸子及艸莽有志ノ輩、寃抂禍ニ罹禍者不少、此等ノ所為、親子ノ恩愛ヲ捨テ、世襲ノ禄ニ離レ、墳墓ノ地ヲ去リ、櫛風沐雨四方ニ潜行シ、専ラ旧幕府ノ失職ヲ憤怒シ、死ヲ以テ哀訴、或ハ縉紳家ヲ鼓舞シ、或ハ諸侯門ニ説得シテ、出没顕晦不厭万苦、竟ニ抛身命候者、全ク名義ヲ明カニシ、皇運ヲ挽回セントノ至情ヨリ尽力スル所、其志実ニ可嘉尚況ヤ国家ニ有大勲労者争カ湮滅ニ忍フヘケムヤ

即ちこの御沙汰書を拝しても、 天皇が如何にこれ等殉国志士の忠烈に対する、御嘉賞と御哀悼の情に堪へさせ給はざりしかが拝察せらるゝのである。
 前述の如く招魂祭は東、西に於てとり行はれたのであるが、明治二年三月、東京奠都(てんと)のことあるや、更に招魂社建設の議が起り、軍務官知官事 仁和寺宮嘉彰親王勅を奉じ、大村益次郎等をして地を相(さう)せしめられ、終にこれを九段坂上に選定し、六月十九日起工、日ならずして仮殿竣成(しゆんせい)の運びに至り、朝廷に於かせられては、同年六月二十九日より七月三日まで五日間に亙つて、合祀の大祭典を挙行せられた。これ実に靖国神社の起源である。その時の合祀祭神は、明治元年伏見、鳥羽、上野、函館等の役のための戦歿者三千五百八十八柱であつたが、後、明治八年以来詮議を経て、予(かね)て京都東山の招魂社に奉斎せられた英霊を始め、嘉永六年以降の殉国志士を調査して、悉くこゝに合祀せられることとなつた。
 靖国神社は初め招魂社と称せられたが、この称号は元本国家多事の際に起つたのであつて、在天(ざいてん)の御霊を一時招斎(せうさい)する所に過ぎないかに聞え、君国に殉じた国士の神霊を万世に亙り祭祀するの社号としては、妥当を欠くやの嫌(きらひ)もないではなかつたので、明治十二年六月四日、別格官幣社に列せられると共に、東京招魂社を改称し靖国神社の社号を賜はつたのである。同月二十五日には特に勅使を御差遣(さけん)あつて、その旨奉告の祭典を行はせられた。靖国の字は春秋左氏伝にあるのであるが、祭神の偉勲に依り国家を平和に治むるの義であることは、御祭文中に

(前略)
明治元年ト云フ年ヨリ以降、内外ノ国ノ荒振ル寇等ヲ刑罰メ服ハザル人ヲ言和シ給フ時ニ、汝命等ノ赤キ直キ真心ヲ以テ家ヲ志レ身ヲ擲テ各モ死亡ニシ其ノ大キ高キ勲功ニ依テシ 大皇国ヲバ安国卜知食ス事ゾト思食スガ故ニ、靖国神社卜改メ称へ、別格官幣社卜定奉リテ、御幣帛奉リ斎祭ラセ給ヒ今ヨリ後彌遠永ニ怠ル事ナク祭給ハムトス

 と宣らせ給へるに見るも明らかである。又右に依つて靖国といふ神社号を欽定(きんてい)せられた叡慮の程も拝察せられ、誠に畏き極みである。我が国は古来正義と平和とを以て国是とする。従つて上 皇祖列聖常に安国(やすくに)たれと天下をしろしめさんことを御軫念(ごしんねん)あらせ給ひ、下万民も亦 聖旨を奉戴して正義と平和のため一身を犠牲にし、死するも猶ほ護国の神となり正義と平和とを擁護せんことを希つてゐる。靖国の名称は実に我が國體国是に相応しいものであるといはねばならぬ。思ふに皇国のため硝煙(せうえん)の間に馳駆(ちく)し、護国の神となつた本神社祭神の威烈(ゐれつ)は万古不朽であつて、苟(いやし)くも帝国臣民にして国家のために死を以て忠節を抽(ぬき)んでたものは皆本神社の祭神として網羅せられ、その数は昨年まで五十一回に亙る合祀祭典により十三万九百六十七柱の多数に及び、若しこれに今回合祀せらるべき四千五百三十三柱をも加へれば、その数実に十三万五千五百柱の多きに上るのである。顧みれば王政復古の大御代を来せるのも、又世界の列強に伍して文明の恵沢に浴するに至れるのも、共に是れこれ等英霊の忠烈が与(あづか)つて大なる力であつたことを思はねばならない。

二、祭  神

 靖国神社祭神生前の官職身分等に就いていへば、陸軍の所属あり、海軍の所属あり、維新前後の殉難死節の士あり、地方官、警察官あり、従つて公卿、藩主、士、卒、神職、僧侶、婦人、農工商等、苟も帝国臣民にして国家のために忠節を抽んで高潔なる大精神を発揮して護国の神となれる人々は皆本神社の祭神として祭られてゐる。
 抑々明治維新の大業を始めとして、過去数回の大小戦役に於ける祭神生前の靖献(せいけん)は、最も能く皇国の精華(せいくわ)を発揮せられたものである。今や祭神の総数既に十三万九百六十七柱の多きに上り、神位燦(さん)として輝き余光遠く異域(いゐき)にまで及んでゐる。
 方今(ほうこん)世道廃(すた)れ人心衰へて多く物利物慾に趨(はし)り、崇高なる我が國體精神を涵養暢達(かんやうちやうたつ)することの極めて緊要(きんえう)なる時に方(あた)り、忠勇義烈の士の実際的事蹟を知らしめ、益々我が国民固有の気魄を練磨せしむることは頗る緊要なる事柄である。

三、祭  典

 靖国神社の祭典はこれを例大祭(れいたいさい)、恆例諸祭(こうれいしよさい)、合祀祭(がふしさい)、臨時諸祭の四種に大別される。

1 例 大 祭

 例大祭は今日では年二回、即ち四月三十日(明治三十九年陸軍凱旋大観兵式の日)と十月二十三日(明治三十八年海軍凱旋大観艦式の日)に行はれる大祭である。
 例大祭が始めて行はれたのは明治二年九月二十一日で、当日は畏き辺(あたり)から特に勅使を御差遣あらせられた。その後数度改変があつて大正元年十二月現在の如く定められたのである。当日は勅使の参向(さんかう)があり、武官には休暇を賜はり、皇族を始め文武百官の参拝、幣帛供物の奉納、陸海軍の正式参拝、遺族及び各団体学校生徒その他一般国民の礼拝等引きもきらず、真に盛況を呈するのである。例大祭には特に合祀祭を併せ行はれることがあるが、この場合には一層賑盛(しんせい)を極める。
 例大祭は社格が制定せらるゝまでは、勅を奉じて武官がこれを執行してゐた。即ち祭主軍務官仁和寺宮の奉仕せられたのを始めとし、陸海軍長官又はその代理者がこれに当つてゐたのであるが、明治十二年孝六月社格制定以来は宮司がこれを掌ることとなり、陸海軍長官はたゞ玉串を奉奠することとなつた。
 例大祭当日に於ける遺族の待遇は鄭重(ていちやう)を極め、昇殿を許し神酒神撰を戴かせ余興観覧の便を与へる等掛官諸員の挙措は頗る懇到である。掛官は陸海軍両省から出張し、清祓大祭直会の祭儀に参列し、両省を代表して拝神し、属僚を率ゐて庶事に鞅掌するのを常例とする。

2  恆 例 諸 祭
 
 靖国神社恆例諸祭中には、大祭としては右の例大祭の外祈年祭及び新嘗祭の両祭あり、中祭には歳旦祭、元始祭、紀元節祭、天長節祭、明治節祭等の諸祭がある。
 又本神社の小祭としては、陸海軍両記念祭、本神社創立記念祭、煤払祭、除夜祭、その他月々三回の月毎祭等がある。
 右に述べた中小祭の外、本神社に於ては明治十二年八月一日以降日々神撰三台を供し、一日と雖も神に仕へまつるの務を欠かすことはない。なほこの際に於て御命日に相当せる祭神名を宣別けて英霊を奉慰してゐる。

3 合  祀  祭

 合祀祭といふのは聖旨に基づき靖国神社に祀らんとする人々の霊を、新たに同神社に合せ祀る祭典のことである。
 この祭典は明治七年佐賀の乱の戦死者を合祀したのがその第二回目である。爾来台湾、熊本、山口、福岡、鹿児島の諸役、京城事変、維新前後に於ける諸藩の殉難者、日清戦役、北清事変、日露戦役、韓国暴徒鎮圧事件、大正三年乃至九年戦役、昭和三年済南出兵事件、満洲事変等に於ける戦病死者を合祀し、合祀の回数今日までに既に五十一回に達してゐる。就中最も多数の合祀は明治三十八年五月二日の合祀祭であつて、祭神数は実に三万八百八十三柱に及び、最も少かつたのは明治八年七月三日及び同九年一月二十六日の各一柱である。
 維新前の殉難死者は明治元年京都招魂社に合祀せられたのであるが、当時は祀るべき志士を未だ悉く網羅することは出来なかつた。そこで明治八年一月に至り京都招魂社の神霊を東京招魂社に合祀する旨仰せ出されると同時に、各府県の招魂社に祀られてあつた神霊竝びに未だ何処にも祀られてない霊を調査するやう御命じになり、前後十数回の合祀祭に亙り悉く合祀せらるゝに至つたのである。
 合祀祭は近年の例に依れば合祀すべき神霊の数多きときはこれを臨時大祭と称し、少数のときはこれを臨時祭と称へてゐる。
 臨時大祭には祭典委員長及び委員が設けられ、臨時祭には陸海軍省より掛官若干名を差し置かれ慎重を極むるのである。今回の合祀祭では満洲事変及び今次事変に於けるもの陸軍関係三千八百五十五柱、海軍関係六百七十八柱、計四千五百三十三柱であつて、今回の事変関係者は未だ全部は合祀の運びに至つてゐない。
 以下少しく合祀祭の次第を述べよう。合祀祭の前一日には清祓式を、更にその夜は招魂式を行ひ、後一日には直会祭が行はれる。招魂式の次第は招魂場に祭壇を設け、左右には幄舎をしつらへ、正面に鳥居を建てその両側に五色絹を附せる真榊を樹て、庭燎を焚き陸海軍将校及び軍隊警固の裡に、宮司謹みて神霊を招祭し禰宜以下神撰を供へこれを終れば、招祭せる神霊を本殿に遷して鎮祭するのである。そしてその翌日は臨時の祭典を行ふのであるが、これを合祀祭と申すのである。合祀祭執行の日には必ず勅使参向せられて御祭文を奏せられる。殊に明治八年七月三日と同九年一月二十六日の両度に於ては、各一名の合祀者のためにいとも荘重な祭典を行はせられにのであつて、祭神に対する叡慮の厚きこと拝察するだに威激の極みである。合祀祭は例大祭に併せて同日に行はれ又は臨時に行はれたのであるが、春季の例大祭にこれを行ふのが近来の例となつてゐる。

4 臨 時 諸 祭

 臨時諸祭とは、臨時に挙行せらるゝ奉告祭又は記念祭等をいふのである。靖国神社創建以来臨時に執行せられた祭典の中でも、明治五年の正遷座式が最も盛大厳粛な祭儀であつた。臨時祭に於て幣帛料を供進遊ばされたのは、改号昇格奉告祭、近衛記念祭、警視局臨時祭、憲法発布竝びに皇室典範御治定奉告祭、宣戦奉告祭、平和克復奉告祭等で、又神饌料のみ供進あらせられたのは、御成婚満二十五年奉告祭等である。



四、皇 室 の 御 尊 崇

 国家の非常重大時に際し身命を君国に捧ぐるは我が民族的信念であり、又国民道徳の精髄でもある。死して護国の神となる、既に我等国民の本懐これに過ぐるものなきに、万代不滅の名を残し靖国神社の祭神と尊崇せられ皇室の御殊遇を辱うす、臣子の冥利正にこれに若くものはない。
 靖国神社はもと 明治天皇の 叡慮に依つて建立せられ、社号亦 聖慮に出でたものであることは既に述べた通りであつて、大御心のほど唯々感激のほかないのであるが、なほこの機会に於て皇室の有難き御殊遇の程を謹記し奉る。
 例祭を年中二回執行すべきは勅定に依るものであり、又祭典は凡て勅旨を以て行はせられたのである。なほかくの如く本神社のことは一に 叡慮に出づるのであつて行幸啓及び御名代の御差遣は、明治七年一月二十七日以来三十六回の多きに上り、勅使の御差遣は百二十四回に及び、幣帛竝びに祭粢料を賜はつたたび数も重つてゐる。
 又明治神宮は 明治天皇を欣慕し奉る国民の至誠に依つて御造営の運びに至つたが、これに対し靖国神社は 明治天皇の国民を思召され給ふ深き御仁慈によつて創建せられたもので、そこに君民の間を感通する一道の誠と親子にも勝るあたゝかき情誼の程は感泣せざるを得ない。
 先きに挙げた明治元年の御沙汰書を拝しても、 天皇が如何に殉国志士の忠勇義烈の御奉公に対する御嘉勝と御哀悼の情に堪へさせ給はざりしかを窺ひ奉るを得、四十五年に亙る 天皇の御治世、それに続く 大正天皇の十五年、及び 年上天皇の今日に至る大御代の間、常に渝らぬ皇室の御殊遇を思ひ合はせて、唯々感涙に咽ばしめられる次第である。
 明治二年六月東都九段の地を相して東京招魂社の創建せらるゝや、同年八月二十二日附を以て社領高台万石を宛所はれた。当時台万石の社領を宛所になつたのは伊勢神宮と本社との二社のみであつて、単にこの一事を以てするも如何に深き大御心を注がせ給ふかを拝察することが出来る。
 後明治七年一月二十七日例大祭の折、 明治天皇には本神社に行幸あらせられ、親しく御拝の後暫く御椅子によらせ給うて軍隊の参拝を天覧あらせられ叡感斜ならずして詠ませ給うたのが次の如き御製である。

   我が国の為をつくせる人々の
        名もむさし野にとむる玉かき

 本社正殿楣間の御宸筆の扁額は即ちこれである。明治七年二月伺を経て扁額に製することを許されたものである。
 明治天皇の御親拝は御生涯中前後七回あり、 大正天皇は二回、 今上天皇陛下におかせられては既に五回の多きに及び給ひ、 昭憲太后、皇太后陛下、 皇后陛下の御参拝も屡々あり、又御名代のことあり、又例大祭には必ず勅使を御差遣あつて御祭文を奏し御幣物を奉らしめられる上に、多額の祭粢料を賜はるを例としてゐる。
 かゝる御殊遇は即ち御歴代の天皇の承け伝へさせ給ふ大御心で、 軈て又 明治 大正両天皇及び 今上陛下の大御心である。明治天皇の御製集を拝するに、神社に関する数々の御製中、伊勢神宮に次いでは靖国神社を詠ませ給へるものが多い。かくてこれ等祭神の上を思召しての御製を拝する時、我等臣子の感銘は愈々深い。

  靖国のやしろにいつくかゞみこそ
       やまと心のひかりなりけれ (明治三十九年「鏡」)

  国の為いのちをすてしものゝふの
       魂や鏡にいまうつるらむ (明治三十八年「をりにふれて」)

  よとゝもに語りつたへよ国のため
       命をすてし人のいさをを (明治三十七年「折にふれて」)

  外国にかばねさらしゝますらをの
       魂も都にけふかへるらむ (明治三十八「凱旋の時」)

  国の為いのちをすてしますらをの
       たま祭るべき時ちかづきぬ (明治三十九年「をりにふれて」)

  もみぢばの赤き心を靖国の
       神のみたまもめでゝみるらむ (明治四十二年「社頭紅葉」)

 又 昭憲皇太后の御歌一首あり、共に明治三十九年「靖国神社にまうでて」といふ御題にてお詠みに遊ばされたものである。

   みいくさの道につくしゝまこともて
        猶国まもれちよろづの神

   神垣に涙たむけてをがむらし
        かへるをまちし親も妻子も

 更にこれを本社の御宝物について見るに、明治七年に 明治天皇行幸の時納められた赤地青地の大和錦各々一匹、及び御製の御宸筆額一面を始め、明治四十四年十二月御奉納の御太刀一口、昭和五年日露役二十五年記念に御奉納の御釣燈寵二種、御祭文竝びに 常宮周宮両殿下御染筆の明治三十七八年戦役戦歿者名簿四帖等がある。而して之に感激するのは啻にこの名簿四帖に書き連ねられた神霊に止まらない、それは全同胞の感激であらねばならぬ。
 皇族の御参拝は明治二年六月 仁和寺宮の御参拝を、又御奉納は伺二年八月 有栖川官をその初めとし、以来夫々数百回に及びこれ亦全国民の感激する所である。

五、時局に方り英霊を思ふ


 家紊れて孝子を希ひ国危うして忠臣を思ふ。現下時局は駸々としてその停止する所を知らず、事変は既に単なる武力戦の範囲を脱し、思想、経済、政治、外交等の一切に亙り国家総力戦の形態をとり、しかもその性質は持久長期に亙るべき必然性を有し、我が国の前途には幾多の難関が横はり、今後に於ける事変の推移は真に逆睹すべからざるものがある。この秋に方り我等は茲に、ひたすら 天皇の大御心を奉戴し皇猷翼賛の一途に邁進し一死以て至誠報国の範を垂れられた靖国神社の上に思を致し、これを亀鑑として心魂を磨き臣道を大いに顕揚する所がなくてはならぬ。かの「天皇陛下万歳」を唱へて潔く死んで行つたり、又「父に会ひ度くば靖国神社に来れ」と書き遺して従容死地に飛び込んで行つた人々を考へた時に、この崇高なる心持の前に誰か粛然頭を下げないものがあらう。この至誠純忠の心のみが、古来日本を真に護り通して来たのである。これ等の祭神こそは教育勅語の「爾臣民父ニ孝ニ兄弟ニ友ニ」より、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スへシ」との御言葉を、全くその儘に実践した臣民の亀鑑であり、活模範であると謂ふべきである。しかも今や何れも護国の神、靖国の神として我等の遵るべき道を永遠に亙り垂示し給ふのである。
 恭しく惟みるに、靖国神社建立の叡慮はこれら忠魂を慰むると共に、ひろく国民をして永きに亙り愈々忠節を抽づる鑑たらしめるにある。即ち靖国祭神の忠烈なる精神を軍人を始め一般国民の中に顕揚し、益々皇猷翼賛の実を挙げしめるにある。これがためには靖国神社を以て単に英霊鎮祭の聖地たるに止めることなく、国民精神作興の根拠地たらしめ、十数万神霊の加護と照覧の下に、全国民をして真に靖国精神を体現振起せしむる如くせねばならぬ。而してこゝに所謂靖国精神とは、単に戦場に於て忠節を尽すといふが如き狭義のものではなく、実に我が肇国の根本精神である。即ちこれは 天神 皇祖を始め歴代の天皇が、この国土を安けく平らけく治(しろ)しめさんとし給ふ大御心に他ならず、従つて億兆臣民の唯一根本道でもある。
 又我が国の神社は天神地祇歴朝神霊を始め奉り、国家の功臣烈士より祖先一般の祀りあるものであるが、我が国はこの祭神を中心として敬神崇祖の念を以て、 上御一人は天業を恢弘し給ひ、下億兆はこれを翼賛し奉るために奉公の誠を致すところに、國體の精華は発揮せられ國體の真姿は顕現せられるのである。
 今や日支事変は長期戦の新段階に入り、しかも我が国四囲の情勢は真に急迫して大戦前夜を髣髴たらしめるものがあるのであるが、こゝに第五十二回靖国神社臨時大祭を迎ふるに当り、先輩英霊の遺烈を思ふの念実に止み難きものがある。この国家の重大危局に臨み、挙国国民は須らく上下をあげて、正に大いに靖国精神を顕揚実践し、以て速かに事変の抜本的打開を期すると共に、神国日本の将来に無窮の栄光あらしめねばならぬ。