第七五号(昭一三・三・二三)
  伊太利のファシズム       外務省情報部
  航空機製造事業法案に就いて    逓 信 省
  敵軍空襲の体験 (付)戦況   海軍省海軍軍事普及部
  我が砲火隴海戦を制圧す     陸軍省新聞班
  馬の軍事教練         馬 政 局
  独墺合併成る         外務省情報部
  最近公布の法令        内閣官房総務課

 

伊太利のファシズム  

      -- 訪日親善使節団来朝に際して --   外務省情報部



    日伊防共の連鎖

 ファシストの国イタリーは、欧州の半島国家であるが、色々の意味でその国土や国勢が我が国と似てゐるところがある。第一に国土が狭少であり、人口が稠密で、農業を立国の本義とするに拘らず農耕の平地が乏しく、生産的に見ても、農業国が工業国に変らうとしてゐる点など、我が国の事情と甚だよく似てゐるのである。国外へ輸出する生産物も、綿糸、綿布、綿織物、人絹等、日伊ともに世界の市場で英米と角逐してゐるのである。
 国土の形式も、日本が四辺環海であれば、イタリーも北部は自然の障壁アルプスにさへぎられてゐるが、やはり三方に海をめぐらし、国家防衛の主眼は、日伊ともに海面にその生命線を持つてゐるのである。イタリー人は一般に情熱的で、尚古尚武の念に強く、今でもかつて世界の軌範となつた古ローマ人の後裔としての自覚が強く、藝術を愛好する平和の性情もまた濃(こまや)がである。殊に、ファシストトの政権下に立つた現在のイタリー人は、国家自体が日本と同じく興隆期を迎へ、国外に進出し発展せんとする、大国民の矜持を持つてゐる点も、現在の日本の国柄と非常に似てゐるのである。
 この欧亜両大洲に於ける日伊両国は、その国際的な立場と方向に於いてともに既成国家、社会の秩序を紊して世界革命を企図するコミンテルンの脅威を受け共通の危機に立つてゐるのである。かゝる情勢の下に、日伊両国は結局相携へて赤化防衛の聖戦に立つべき運命にあつたのであるが、果然、昨年十一月、日独伊三国の防共協定の結ばれるに及んで、日伊の親善関係は、こゝに永遠の平和的連鎖を固めた。

    ファシズムの世界観

 ファシズムの発生したのは、一九一九年から二○年にかけてのイタリー社会党の全盛期であつて、その初期はオーストリアに対する参戦論を主張した時代である。このファシストと未来派運動の文学者との連繋による参戦運動は、遂にジョリッティ内閣を動かして、イタリーの対オーストリア宣戦の段取にまで至らしめた。
 そして、ファシズムが、真に政治行動として、対外的な視点から対内的なコースへと転じなければならなかつた後期は、イタリーが共産主義的な傾向を帯びた社会革命の瀬戸際にあつた頃である。その中心地となつた北イタリーのポー河流域の各都市は、機械工業の中心であつて、夙に社会民主党、共産党等の巣窟として階級闘争が激烈で、殊に大戦末期よりは事実上、社会主義的な独裁が行はれ、労働者による工場管理が行はれ、当時のジョリッティ内閣もボノーミ内閣も、これを抑制する力はなかつた。媾和会議が失敗に終ると、戦線から帰還した出征兵士は大衆の嘲笑を受けるやうな状態で、イタリー全土をあげて、ソヴィエト革命の前夜を思はせる時であつた。
 そこに生れたのが、「ファシオ・デイ・レジステンツァ」といふ都市的義勇兵で、これが即ちファシストの起源である。ファシズムは、その発生の条件から見ても、理論よりは行動が先行してゐたゞけに理論構成の体系に於いて、当初は厳密な構造をもたなかつたこともやむを得なかつた。しかしファシズムの根柢をなす世界観は、あくまでも行動主義的な観念である。ムッソリーニが「ファシズムは、各人に対して、その行為に全精力を積極的に傾けんことを求めてゐる。それは人生を以て、闘争と観じ、その観念が各人をして、真に価値ある地位を得させるからである。この積極的な生の観念は、また道徳であり、宗教である」と説いてゐるやうに、この行動的な世界観は、要するに、実践的な生に関する行動主義と、生命感に富んだ非論理主義を合んで居り、あたかも生の哲学が持つてゐるやうな歴史と社会との有機的なつながりを、その内部に一個の綜合された形式として持つてゐるのである。この世界観を持つたファシズムは、それを発生させた母体である「ファーシォ」の団体が、政党となつた一九二一年十月以来は、従来のサンヂカリズム的、社会主義的な要素が清算されて、著しく国家的、国民主義的な要素が強くなつて、現在では、純然たる国民主義的な協働体の観念を持つやうになつたのである。
 この統一された行動的な世界観から、主要な要素として挙げられるものは、ファシズムの現実性と全体性とである。此の全体性は結局団体主義として現はれるのであるが、歴史的に見れば中世の文芸復興が、古代希臘文明の再興であつたやうに之は古代羅馬帝国の精神的統制主義の復興である。ファシズムが他国に生れず伊太利に発生したのも理由のないことではない。
 ファシズムの現実主義的な要素は、ファシズムが、一般に無歴史性を持つと云はれてゐる特徴であるが、それはこの思想が行動的であればあるほど、それはつねに現実主義的な意味をもつものである。そして、此の点こそ、ファシズムを自由主義或は社会主義から截然と区別する要素である。
 ロッコが「自由主義、民主主義、社会主義は、社会の諸集団を現存の個々人の集合と見る。従つて、個人の死滅する場合には、その理想も消滅するが、ファシズムにとっては、それは世代の無限の系列中において、たえず繰返される統一にしかすぎない。故に、思想は常に新しく、永遠に生きてゐる」と云ふところは、ファシズムの行動的な性格の流動性を指してゐると考へられる。
 ファシズムの全体主義的な理想は、ファシズムの国家観が、全包摂を意味してゐるので、国家をよそにしては、一切の価値は存在しないといふのである。そして、ファシズムは、全体性を持ち、国家はそこで全的な人間生活を解釈し発展させ、また可能ならしめる価値値の綜合だといふのである。ムッソリーニのこの見解は、自由主義は個人の名において国家を否定するが、ファシズムは個人の真の性格を表現しつゝ国家の権力を再確認するといふ論理から帰結するのである。
 そこで、かうした考へから、国家に生産を寄与する組合を中心として構成する、新しい国家の体制が生れて来るのでみる。ファシスト国家がそれである。即ち、国家は個人や階級から超越した存在であるべきだから、国家は国民全体の利益を代表するものである。個人の権利、階級の権利、それは国家の利益と一致する場合にのみ存在するのである。だから、あらゆる階級は平等になり、あらゆる自由は国家の意思と一致する限り自由である。そこには、資本家も、労働者もなく、たゞファシストがあるばかりである。といふことになる。
 ファシズムの至高な理想を体現した天才が、ムッソリーニその人である。彼に対する「ドゥーチェ」と云ふ愛称は、全国民の尊敬と愛情の表徴として、今では一種の国民的信仰となつてゐるのであるが、これが発展段階のイタリーを指導する理念でも為り、機関でもあつたことは、イタリーをして、光明に面せしめる主な動因となつてゐるのである。

ファシズムの建設

 ファシスト政権下の十五年の後を見ると、その治績は多くの部面に亙つてゐるが、ファシスト党の機関、又は制度を、国家の公器とし制度としたことが、第一の建設的な功績と云ふべきである。
 まづ、第一に、行政体系の改革である。ファシスト政府は従来の党の大評議会を、政権獲得とともに、その従来の機能を内閣閣議にゆづり、評議会は最高の諮問機関として、議員の決定権、その他領土の変更得失、組合の体制、法王庁関係等、あらゆる国家の重大事項を国王の承認を経て実行出来る機関とした。これは議会を以て、ファシスト政府の諮問機関として立法権を失はしめたもので、ファシズム体制の行政上の一元化を実現したものである。
 第二に、協働体制の国家の建設である。これはサンディカリズムの職能組織を、地方主義的な綜合体として完成したもので、その根本の思想に於ては、パレートの選良循環説を主な指導方針とした。これは社会の量的な価値よりは、社会の質的な価値に重きをおく方式で、その選良の交代によつて、社会の進歩を促がすもので、ファシスト国家の特色を最もよく発揮した制度である。
 第三に、ファシズムの哲学的な根拠を、ジエンティーレの行動主義哲学の体系として組織せしめたことである。これは思想としては、発展段階に於ける個人と社会、自我と対象、現実と理想の関係をその発展する彼岸に於いて綜合化する思想的な立場であつて、これが知識階級や文化社会に、ファシズムに対する信頼をどれほど深めたかわからない。
 第四に、イタリーの歴史的な癌となつてゐた政教一致を実現したことである。ムッソリーニを代表とするファシスト政府と法王領との間の和協は、中世紀以来しば/\繰返された王権と法権との確執を一掃した。ムッソリーニが「ファシズムには宗教が必要である。それによつてのみ倫理的完成は保障される」と声明したことは、イタリー大衆の殆どすべてが、カトリック教徒である事実から、国内強化の重大な功績と云ふべきである。
 その他、財政経済の改革や、教育制度の改良、殊に外交政策、植民政策などの対外拡張の進歩的な発展政策なと、ファシスト政府の国家的、国民的な建設的な功績は、枚挙できないほど多い。

国営事業の躍進

 ファシスト政府の事業としては、国内的には、既に我が国にも紹介されてゐる農産物増収と失業救済、完全開墾事業や、国防と教育事業としての国営の「バリッラ少年団」の組織や、国防強化のためのファシスト義勇軍の国軍への改編や、更にファシスト大衆の厚生運動として、多分に社会政策的な目的を加味する国営の「ドボ・ラヴォーロ」運動など、イタリーをどれほどよくしてゐるかわからない。
 対外的な事業としては、ファシズムの理想と事業の拡張と建設とのために、世界各地に起した「イタリー人の家」運動や、ペルシャに開設したイタリー文化研究のための外人大学の如き、近東に対するラヂオ宣伝、エチオピヤに於ける数々のファシスト文化事業なと、伊太利の前進態勢は、益々積極的に国家の理想を実現してゐるのである。

訪日親善使節団

 今や、イタリーは、国家としての興隆期に面し、日独と共にその国運を賭して防共の世界聖戦に立てる際、真にファシスト体制を代表する親善使節が、パウルッチ侯を団長として来朝してゐる。
 この伊国政府派遣ファシスト訪日朝善使節団は、ムッソリーニ首相の盟邦日本に対する深厚な友誼と信頼とを伝達するために、来訪したのである。日本の政治、社会、産業、文化、軍事等を観察しようと同行してゐるファシスト機構の代表者十数名の名士はまたこの防共の盟邦日本において、真に世界史的な意味と使命とを感得せられることは、疑ひのない所である。されば我が国も亦改めてイタリーの現実に新たな認識を加へ、深甚な敬意と友好の精神を以てこの使節団を迎へようとするものである。