第七四号(昭一三・三・一六)
  簡易保険金額制限の引上      保 険 院
  海軍陸戦隊の話  (付)戦況       海軍省海軍軍事普及部 
  国民とステープル・ファイバー
     一般使用者のために       商 工 省
     国民精神総動員の立場から   文 部 省
  北支五省を悉く掌握す      陸軍省新聞班
  討匪すすむ満州国        陸軍省新聞班
  広東の近況          外務省情報部

討匪す 1 む清洲歯
                  陸軍省新開班
  盟邦浦洲固は去る三月−日を以て唾団六周年記念日
 た迎へ、その基礎はいよく拭く民族協和、玉造奨土の
 和想的同家への驚異的躍進の一途むたどつてゐる.支
 那事轡の進展忙件ひ、「浦洲図の治安が乱れ日本軍が
                   hr.汀・†
 北満に向つた」との報道が我を訓辞する側から倖へら
 れたことがあるが、これは全くのデマで、滴洲固に於
                           一ん′♪
 ける長延な圃填線の▲警備む始め、既賊の討伐、宜熊等
 の治安工作は日浦軍曹の浜ぐましい筋力によつて著々
 と教典を収めてゐるのである.浦洲事襲背初、特産大
                          ▲て▲′’†・†
 豆とともに、有名であつたあの馬賊と陣賊の跳梁はい
 まや昔日の夢物語と化さうとしてゐる.事轡常時仝満
                      一
 三十常といはれた靡吼は、年を壌うて減少し、日下活
j動をつゞけてゐるのは約〓弗以内と推算されるに王
 つた.

   日満軍盤Tの活動

 この拾嘉正工作は何よりも日滴軍曹不断の討伐に
ょって成果を収めたことはいふまでもない.鹿瀬皇革
               く′▼
はその守備面積に校べて兵力が甚しく少ない.しかも
匪賊の分散してゐる全地域に封して常に良民の保護を
せねばならないから小兵カを各地に分駐せしめ、不噛
          止Wん▲Iん
な気候風土と、瞼難な地形とに悩まされ、粗意な生活
            くわへい
に甘んじながら、常に尭兵を以て、池b魔のやうに出
漁する耶賊と敬はねばならない牌兵の心労は想像以上
のものがある.滴洲増軍は皇軍の凌助によつて素質著
しく向上し、或は皇革と協力し、或は礪力で討伐に従
事し昨年中に駈賊の遭棄死鴇五千五官三十を牲得する
ほどの好成捜を畢げてゐる.
   儒甲制度のゆ几施

 この日滴軍の討匪待と相まつて治安粛正の智をあげ
しめたのは治安鰊持合の活動であ
ろ.中央には関東軍参‖課長を委員農
とする中央治安維持合が治安純持に
脚する一般指導方針を決定、各省、
各解には大々省治審維持曾、解治安
維持曾が設けられ、日本軍部と滴洲
固倒から委員が出て、治安封策を立
         l▼一・】−り
案審議して離賊剃滅の徹底を期して
 ゐる.
 そして地方毎に保甲制度が毒さ
れ、集園部落が設けられた.
 保甲制度とは滴洲固と東郷に特有
な制度で、その組織は凡そ十声と
 払い
r梓」とし、−部落を「甲」、】村を「保」
             しん一■く
とする.「蹄」内の住民は親睦を旨と

し不良銀山桝の徒を出さないやうに相互検察をなし、戸
 口に異動があつた場合は直ちに届出で、匪賊の情報な
 どを報脅し合ひ、一面自衛囲の役割も粂ねるものであ
 る.この粗放を泡して納税の轟抄を果し、官公著の命
令を守ることになつてをり速反者は過怠罪に廃せられ
 る●
                  ▲▼ん▲、ふ
 そして「保」と「甲」とは住民の緊急の危寄を警戒防架
するためにY自衛園を作ることが出来るし、必要の時
は轡察署長がこれを作ることを命じ得るので保甲制度
 の普及は自衛園の増加となり、匪賊への備へとなるわ
 けである.

   集宵部落の構成

 一方匪賊の鶉確をさけるための集団部落がどしく
構築された.山間奥地にまばらに住んでゐる民家が歴
 賊の典宰目棟となるばかりか、官憲の恩威を知らない
 ので、彼等は身の安全のため却つて匪賊の味方となり
 時忙は討伐隊の行動を妨げることさへあるので、分散
 募塵を柴めて穎図剖落を作り、自替邦を作り自衛手段
 女帝ぜさせるやうにして衆た.
 一方日満官憲は民間が自替のため持つてゐた武器、
         くわいし,
 時襲をどしく同牧し、良民を装つて住んでゐる潜伏
 匪賊をぴしくと検挙し、更に鋳造滑線の住民に封し
 ては「鋳造は国家と民衆の縮利を増進するものJである
               ト′り●▲.
 と教へ、鋳造愛務の精神を満養し、自費的に繊道建設
                     ▲,
 事共に参加させ、鋳造両側各五粁の地帯を「地道愛護
 地帝」と呼んでゐる.この運動は大同二年(昭和八年)八
 月軍の指導で開始され、今や愛薙を措任する柑三千、
 その村民約五官験萬に達し治安の光は文字通り鉄路に
 滑うて深く磨くひろがつてゐる.

   最鐘の討鹿成果

 このやうにして満洲囲の治安は、鼻軍と清洲囲軍の
 協力にょつて現鹿著しく良好になつた.(凄満離賊赦
                        し」■ん′−1
 の移動は第三表参照)併し今でも匪峻の変動は止まな
 い.これ等の竣存駈賊は殆ど思想艶で大牛は東北地
慣たる三江省に艶縮され、一部は東凌邁方面の山凛地
             lいは・l
特にも潜行し討伐陳の鋭鋒を避けてゐるが、それでも
時に粗食鈍器を接待するため、時々警備力の薄弱な村
落を鵠撃することがある.
 咋十二年度の潜伏耶賊の検挙状況ハ第二衷)を見ても
             〔い ひ
凍榊軟二千九草二十九、紫郎数六苫九十三沌達し、更
に日補筆の討伐の成典ハ第→衣)に到つては、彼の遽菜
死相一萌一千入電入十「捕虜二千十六といふすばら
                ・た▲フ h一
しい戦擁であるが、.この討隣行によつて我が方も戦死
五官八十七名、戦傷丸首九十九名を出してゐることも
忘れてはならない.
                          一ん ‘
 我々は、盟邦浦洲囲の治安撃皿のたが、また皇逆立布
の】楷梯として大陸の】角に、灸熱糖蜜の地で困苦炊
乏に堪へながら、夜を日に次いで活動してゐる日補筆
管の労苦を思ひ感謝を捧げると鶉に、わけても東洋民
族有年の大計のために滴洲の士と化した英事と、敵弾
に傷ついた勇士に対しては、心からなる敬意を沸はね
はならないと息ふ.
 山野 l 表
   昭和十二年(削a朋)日浦軍姥賊討伐成果一党表
 濱 分 臼 軍 満 軍 1 計
我{……g…g………
             六、孟五一  五、五三〇  〓、入入】
        廣  一、ニニ九    七入七  lrO宗
        銃  ニ、入七五  ニ、ゴ議二   五、≡七
            ;六、ニNニ  五五、七書d  宗「九七四
        銑   「掬○ニ   入○入  ニ、ニ;
             〓「九二五  ニ、七九〇  ;、七−五
 人 箕 奪 速   美六   六美  「ニニニ
 ▲第二表
    昭和十二年度潜伏粥舷槍孝状況調査表
 濱  分    竜補救 弗匪欺   計
 紘   首      中立   何三     人∧
 非 捷 首    l、ニ九九  大童  一、九豊
 漁 匪 老    「●完五  一セ   「六三
  合  計   ニ、九完  六▲空   きズ三ニ