第七四号(昭一三・三・一六)
  簡易保険金額制限の引上      保 険 院
  海軍陸戦隊の話  (付)戦況       海軍省海軍軍事普及部 
  国民とステープル・ファイバー
     一般使用者のために       商 工 省
     国民精神総動員の立場から   文 部 省
  北支五省を悉く掌握す      陸軍省新聞班
  討匪すすむ満州国        陸軍省新聞班
  広東の近況          外務省情報部

北支五省を黍く掌握す
                     陸軍省新開班
  −‖概  況

 去る二月十】日紀元節の使節を卜して開始せられた栄
                   一ばん▲▼一
 河作戦は、北部河南及び南部山西に埼居する約四十教箇
 師の大敵に封し紳速果敢なる攻撃を断行して多大の戦果
 を収め、行動開始後僅々】ケ月第三十三岡の陸軍記念日
 を前にして−應の終局を見たことは、まことに感慨探し
 といはねばならぬ.
 元来山西省は長き排日教官の結果民衆の間に抗日意識
 ■■▲山●ヽく
 宋割に残せられ、共産軍を混じてその思想的影響を斉
                一て・’一y●l
り、毒の山地は彼等の変動跳梁碓便利であつたため、こ
            いん
 れ結菅に北東治安の癌なりと目せられてゐたが、今やこ
 れが粛清なつて北東五省の箪盤更にその強きを加へた.

                         ■ じ 小●ル
 今回の禾河作戦に普つては、我が軍は太原、橡次、耶
 ▲々一∨
 邸、彰徳附紀より行動を超し、正面約首里(四首粁)の間
 に十教本の作戦縦隊を進め、太行及び連枝山々脈の瞼唆
 な山地を踏破し、各縦隊が分進合畢の教理を極めて故腑
 に‡行し攻撃鮎に戦力を集中使用し、或は敵の側管に
 進出して友軍の作哉を容易ならしむる等統帥の妙を賀
 挿し、僅々四週日の間に正面首里、縦探亦首足に及ぶ大
 地裁を】拳に席巻したることは、大兵輿の躍進拒♯に劃
 期的記録を刻んだものとして、戦史に−異彩を添ふもの
 といへょう.而も各縦隊は、連夜山々戊を鎗えて西部黄
 河の線に進出せるものも、同蒲操に滑ふ地直を前進せ
 るものも、太行山脈の披を捲破せるものも、北部河南省
 を席巻して山西省内に進入せる部隊も、夫々その前進の

  間に十岡乃至十五同の戦闘を交へ、各同偉大なる戦果を
   牧めた.
   この山西の甲走により防共の第−線は箕河々呼に進め
                                  ▲ヽ●“′▼
  られ、北東今後の治安に多大の便益と教典を冴すべく、
  北支は愈.明朗化の一途を辿ることとなつた.
  盲彗水を治むるものは固を治む」と云はれ、黄河を刺
  することは支那を制するの基礎をなすものとせられた
 が、今次黄河作戦の結果として支那東西を連ねる大動脈
     ・■1丁小い
  たる犠海線も今や我が砲兵の有数射程内に暴落せらる▲
  ことになつた.
  今や敵の本棟漢口も河南安敬の大半原を隔てゝ首里の
 拝施に鮫縮せられ、虜に一緒進の濃緑に過ぎず、南京方
 南と相侠つて全く我が軍の包鞄淘内に格つてしまつた・
  これを要するに黄河作戦は参加部験の奮闘努力に上少
 ♯期以上の成兵を得て経了した_皇軍の進むところ何物
          一_.レ
 もこれを阻止する力なきことは益t明らかとなつた・彼
 等の企席する長期抵統が如何なる結兵をオすやは我が間
 宮ではないが、彼が長期故統を練くれば我も亦長期府懲
 を加へんのみである.我が戦略態勢は益〜故事せちれ音
 律作戦の挿力性は愈と加へらる1に至つた・

   〓 北  支

 − 山西北部
 山西省北部を掃蕩しっ1保徳を占領せし千田部隊は三
月二日彿壊その西方黄河を渡河退却中の敵約−千を畢汝
 した.
 大開部隊及び蒙古済兵第五師の主力は二日夕備閲を占
領し三日朝河曲に向ひ拙撃ハ日河曲を占領し黄河封岸の
 敵を掃棚橋中である.
 2 同舟繊万両
 同蒲線に滑ふ地萌を全線に五つて南下怠温中の我が芋
は三月一日椅兵部隊を盲城鍋に右浪中隊を妻綾瀬に二日
中央迫帝隊を溜曲銀にその先漣験を青堀鍔に溌沈し主力
  一ツん・′ん
を臨扮附近に集結して更に爾後の温やを準備した.同日
                    ▲▼ 一′ヽ 一く
午後四時金岡快速部族は曲沃を占擁した・
 先に速攻山人脈内の牛城鋸を占領した東側支除は建日

 磋勢な敵む撃破しっ1前遽し二日臨扮西方地直に達し
 た.           つ £●
  叉黄河北岸を前進し同滞線の側面む衝き間者東方地直
 に進川した遠山部隊は進路遮断の態勢で待横中のとこ
                      々 だ▲ト
 ろ、三日北方より大縦隊む以て雪崩む打つて退却せし敵
                      ひ ′一・た
 大部隊を認めるや也ちに攻撃の火霊む切つて猛攻を浴せ
 て渡瀬せしめ四日災に師事に向ひ攻撃を開始した.
  黄河北岸地怖より西北進し恥水に達した石黒部隊も同
 蒲線方南迫撃に協力すべく側面より前進し四日翼城に向
 ひ五日肋沃附近に適した.
  森本部隊は河浦純増側に縛じて四日侯燭鏑に達し五日
 弼菩に進入した・その快沌部隊は一単に満州に向ひ迫宰
  した.
  触手東北方東銀附托静岡の糖果敢治筆死準言0、由椎品浪
   撃砲五、我が揖事故死一、負傷三、
  六日迫解隊主力は牛杜錦ハ椅氏南方二里)附近に進出し
  その快速部隊は石鹸の路上障碍む突破し長騒して蒲州を
          ′−17くわん
  占領し続いて痩淫場忙向ひ迫撃した.


 間者より南下した遠山部隊は五日安邑に進出し六日解
 鮮仰に達した.
                                            1ヽ
 金岡快速部隊は敵軍に上る首数ケ朗の道路破壊及び払
 JIつ
 絶を耕除しっ1西進む績け六日午後三時山西省西南端に
 ある姿地硝州を占領し、七日更に泣粥渡を占領した.満
 州鳩閑渡に於て椴開革盲輌貨車凹石輌を歯獲し撞粥倖革
 場を砲撃し教ケ列革を破壊した.
 遠山部隊は解願より南下して八日市城泣びに半陸を占
 領した.
 別に臨扮を敬して西南進む開始した河津部隊は四日扮
 城に五日樺山に達した.その騎兵部隊は敵を撃破しっ▲
 五日河津附沈に進Hし六日鵡門渡場に在つた千五、六首
 の敵む撃破して同日午後入時同地を占領した.粉河左岸
 の敵大部は北方山地に退却したやうである.
  璧ハ陳河津附近秒開の結果敵筆柁値五、大官
   由粍品 小銃l千二青 野築四高 手相弊二千
  椅兵縁の六日南門口附沈静開の緒果敢に輿へし損害二管
   由粍品 日勤孝三 小銃由十 補済二十名
  河津部験の主力は郷半音顆方面に頬入した敵を掃蕩ナ
 る寒河津より北方に浪宰中で七日固鏡(河津北方七粁)に
  進出した.
  先に太行山眠を横断して臨扮に進出した臨扮部隊は塩
 扮附姓の戦闘に放て故に左の禍害を輿へた・遭棄死線八
 首以上、由樺品山砲「迫撃砲二四九、横紬銃一入、弾
 襲火*多数、客車ニ、貨車四人
  三日臨扮部隊は出頚再び山地内の敵を掃残すべく弥安
 に向ふ途中四日茶房ハ府城西方三十粁)附淀に於て敵と泣
 鴻し之を撃破した、敵の遭発光鴇五官を算した・
 六日臨扮部隊は府城鋸附近にて再び北方上り前進中の
 敵約二衝抑と遭遇し之を包簡潔乱せしめた・敵の遭棄死
 鴇は二千を下らない.
 3 ‡河北津村泣
 京済線西方黄河北岸の温耗に進入した安田部隊等は三
              ●一・’けん
 日同地附妃より封岸饗顆附並の停車彗兵エ擬を砲♯
 し多大の綿宰む輿へ又舟首五十竣の大半を弊破した・
 五日帯び氾水附近の敵兵及び停車場と砲半し多大の輯


 喪Hを輿へた.
 かくして西方に於ても黄河呼に達して故を黄河以西忙
 騒逐し南方に於ては墟翔接市城千陸を占領したことによ
 って米河南岸犠海線は我が砲弾の有数射程内にあり、こ
       し●だん
 こに事賓上遮断されるに至つた・以上三要地の占領は戦
 略的にも意義極めて大なるものがある・
 4 山東万両
 山東省南部の要地折州に迫りつ1ある我が部族は湯萌
錦(折州東北方)東北方高地の約→千の故に封し二日午前
十時より攻撃を開始し夜に入るも棟行し、ために敢は温
却のやむなきに至り三日肝州東北方濁樹頭に向ひ温平に
移つた.此の戦闘に於て敵第三十九師に甚大なる打半t
 輿へた.

  ≡ 中支方両
 津浦線北上中の我が軍の→部は三月二ロー部隊を以て
(臨准媚東北方三十二軒)附紀と掃蕩し約四千の兵匪と五
河北方に平温した.

  蔓官有力なる一部む以て井山鴇(定速西北方二十粁)
  架北山地に輔居せる駆糊む掃施した.
   ∴月二十七日有力なる一部を以て孝堂(杭州西北方約
  七十打)附妃の敵四千を撃破した.
   二月二十六日一部隊を以て海軍部隊と協力し約二千の
  敗を撃破して三山錦(燕湖南方)を占領した.

    甘 変革の情況

   卜 赦 作
   文那客軍の綿成替は眈に売了した.全文那峯軍に封す
  るソ切倒の指導力は著しく増大した模様である.
   大別して攻撃集贈と防額集鰍ニに分ち攻撃集汲フ主力
    小んしかく 一ん一い   ▲ん●
  を甘瀬、隣西、河南、安徹の諸省に集中してゐる.その
  主賓根城地は蘭州で、クルムチ、ハミ、チュグチ†ク、
  クリヂの新経根操地に依存しゾ聯より新飛行機部分品、
  敬別棟ガゾyソ抽、爆弾、操縦士、横闘士等の補給を受
   けてゐるらしく、その他横線地は西安、漢口、武員、南
   一員、徐州忙衣る.

 名草力は一月下旬迄の情報に依れば西北地直の攻撃群
 はソ聯製各稀飛行横約二宮六十義を有し外固製む加へlニ
 有毒以上となる.
 各根捜地には、*辻飛行横を飛行場に設浸し日本杢軍
 の攻撃を誤らしめんとしてゐる.
 仝防頸堆幽は族米、族西、笠南等南支に集中せられこれ
 等はま判例の指挿†にあつてソ聯人樅間数官を有してゐ
 る.飛行場は全部共米弼仰仰等の外固製騒逐、較爆甥で、
 その概数は約有数十轟である.
 溝口に在る拐帯線指挿部は指令して支那側室軍の奮租
 を催してゐる.日く、
  日本嬢軍は樋野で我が全開都市を鴫準してゐるが、我が峯軍は
                                      一 心マ一●■
  故旧に亙り日本領土の爆撃を企博したが臆病で敢の気勢を浜れ
  ある状態である、爾後は撒卿背壇して以て洩時敢行せょ.と、
 a 寓支方可より砿重用触料杵轟挿総状況
  (イ) 二月二十三日沓粒より成東に拾遺した油鵜
   ガソリン  二六大五緒   〓ニ六五七五ガロン
   滑 油  一一〇箱    五七均0ガマy
   別に滑油二七五指を南株航峯絶粘に耗付.


               一・)‘Il砂ん
   へ甘) 毒猛により叡叩山野及び帝堆各兢蛮拍に輸逢せる弊
    血繋 仙甲丁帯九千戦
   (ハ) 最の活動
    二十七日午後三時十五分敵軽皆戦闘機若干懐慶を婁製
   し、又≡月−日午後四韓頃に舶介休及び臨汚に敢の壌撃撥
   〓現はれ渡河せるも、これによる浪音ほ極めて軽微である.
 & 我が鵜盈郭好の活動
  二十八日午後二時頃靖市部除は新綽、横山間を返却中
 の故に大なる揖管を輿へ、同日午前十−時三十分頃侯馬
 錦の同蒲鉾活を爆撃して退路を速断し、叉三月二日山地
 内迫卒中の遠山部陳に食糧を峯中より投下した.
  先日鳥田部隊は郵州悸革場及び鶉州飛行場を捧やし、
 八日や靭鳥由部族は湖北省北部睾陽飛行場む攻半し上峯
 に待横しあつた敵十五、六横と壮烈なる杢中戟を交へそ
 の四横を宰塗し格納庫を爆革して全部無事好演した.
  ∧日東に引き溝き西安を♯ひ大小型各−横と爆破し上
 帝し雑つた十墳の中二墳を射落した.我にも射手】名戦
 死む生じた.何日加藤部族は鳥田部族に引き凍き東持古
 安モ教学し散四墳をや度した.

 同日森本部族叉西安を♯ひ敢五横を筆墨地上の歓五枚
 を堤宰焼失せしめたが我れに祝事はなかつた.
 同日午前七時三十分鄭州停車場宜棒撃その主要部を大
 破した.
 かくして陸軍航杢陳は地上作戦に緊密に協力しつ1
 川しん,●い
 迅雷的黄河作戦に大なる教典を香典し】方北東の制多種
 を獲得した.
 五島軍の戦果虻覿針椚鎚
 「占嬢地域
 粁淋即断山¶観(岬鞄‰_j榊
 ニ、山取に輿へた鎖書
  作戦地区にあつた四十教師(三十箕)に徹底的に峯美
  へ敵は殆ど収拾し得ざる状態にて繋河以南及び以西に放浪
           ▲■ん持一丁
  し、或は山地内に汐入した.その死血甲十贅に上り鹿瀬を甲
  出でたるもの已にこ萬に及んだ.
  産品ほ毒火砲、槻榊銃、小銃各雀銃砲弊、火集火兵、ガ
  ツyソ等無敗で槻…琴貨、客革の如き1も多救である.
 三、我が簑約五官なり.