建艦】通報仙間題と帝図仙蜜慧早備
海軍省海軍軍事普及部
帝固政府は去る土月五日、某・米t俳三囲政府から建艦
つ,てふ
通報の間頓に仙昭する埼喋を受けたので、鳩重攻究の上十
二日その同答む頚し三頃の董に鹿じ符ざることを明ら
か忙したのである.
この間項は、衷南上建塔計‡晶報するか李かと云ふ
簡畢なことのやうであるが、その晋質忙鎗ては重大な怠
.TI一い
味むもつ事項であつて、列囲海寄軍傭の鶏弊汝びに国際
情勢にも峯する析甚だ多く、帝掲杵とつても飼防上重
要な間申と考へられるので、本開瀕に款いて必委なる解
詮を鼓み、併せてこれに如印聯のある婆丁‡■備間鹿に就い
て箆明して見たいと愚ふ.
「三可救産の菅
先づ救初に今畢拳沸三国故府から我がヰに申入れ
て米た滴牒の内容を要約すれば次の通りである..印ち
с刀。rン
日太が現在一九三六年(昭和十一年)倫敦海軍傭的に挽定さ
れてある制限を超ゆる軍艦を建也祖して屠らず、又一九四三
年(昭和十入年)一月一日以前に於てほ、事前の通普を筍さず
▼ヽ
して同様制限を海ゆる軍軽は建聾しくは取得しないといふ
倖障を輿へて輿れないならば、琴米・俳三珂ほ倫敦傭杓の
「エスカレーシーソJの碓利を行使することに決定した.薯し
こ月二十臼迄に日木政府から岡答を碍ない堵合には、日本ほ
条約の制駁を超ゆる軍艦を建肇しくほ取得中であると見倣
さざるな得ない.但し日本がかくの如義を穎ゆる軍掟の
建赴をして居ろか、山宥しくほ萱せんとする壕合にも篭
報をせらる1ならば、日本に於て何等かの制限に同意の用‡
lI川Wい
ある頓合には、軍咋の著及び備砲R笹刑限の桝捷に洗いて
日未と協秩すろ用意がある●
と云ふのである.
10
さてこの内には港軍の耳門的事項もあるので、女に簡
畢に必要なる解詑む試みることにしよう.
昭和十■年倫故洋‡せ約
わ▲た
哨和十年十二月から翌十一年に亙り倫敦に於て日・英
準俳・伊五閥参加の上、新港軍革梅協定む作成する目的
を以て曾議が閑僻せられたのであるが、この曾議に於て
川レ■〃へ‘ヽ
帝国の公正安常なる軍縮捷案が受諾せられず、徒づて到
底革締目的を達成し得ない情勢に立到つた卑帝拷は曾
識上り舵温し、伊固も亦同様協定参加を拒んだので、球れ
る英・拳俳三固間に於て畢に質的制隈ハ革艦筒艦の噸敷及
び備砲口襟を制隈すること)及び建艦泡報のみを内容と
する不備なる軍縮条約を作成し昭和十一年四月調印する
に室つたのであるが、これが如ち一九三六年倫教海軍条
約なのである。
悌約規定の‡位の刺隈
倫教港軍条約中に規定されてゐる所の建造すべき軍艦
の制眼は、主力艦に就いては三高五千噸、備砲口径十六
吋以下に、又巡洋艦に就いては六吋砲入千噸以下に局晩
せられてゐる.従つて英永・併三固は日本が三萬五千噸、
十六吋砲以上の主力艦又は入千噸六吋砲以上の巡洋艦を
捷撞して居るか香かを確めたいといふのである.
rエスカレーシiン】
「エスカレーシ.yしとは−簡の保障条項であつて、倫
教条約第二十五条及び第二十六俵に規定されてゐるが、
就中第二十五条は重要なものである.その要旨は条約締
約靖以外の固が、条約規定の・噸敷及び兵袈の制眼む超ゆ
る軍艦む・鶏達又は取待せんとする場合には、締約固は自
靖の安仝を期する埠要すれば瀬型及び備砲の制隈汝び
に眈に、洩報せる建艦計‡の範園より杜舵†るの樺利む
行使することが出衆ろといふのであを.
」即ち英エ米・沸三囲がこの「エスカレーy.yしの権利む
行使することに依つて、倫敦俄約の生瀞たる羊艦の質的
制隈を錬大する結泉となり革縮条約としての意義を失ふ
ことになるのである.
〓、≡国組践検封
今同の三園通牒は、前速の通り英永一鋳三囲が月本杵
か・∫jノヽ
閑係なく又何等拘束することを得ぎる倫敦条約の稚利行
使に昔り日本に封し強磨的に建艦通報を迫つて釆たもの
ふ一▼ん
であつて、その態度は誠に不湛といふべきである.のみ
ならず、日本が通牒に封し同答せざるか或は日本の同答
に浦足し待ない場合には、濁断的に日本が条約制隠を租
●−▲●
ゆる軍艦を境達中であると看倣すといふもので結局、自
一●てん小
囲の大艦建遭、軍備礁張の箕を日本に樽嫁せんとする宋
謀より出たものであると断定するも葺支なく、粥に不合
理、不公正礎まるものであるといふ外はないのである.
三、倫戦条約の崩甘
倫敦条約は英永・沸三周間に於て昭和十→年調印せら
。“レl▲山
れ、咋十二年その枇堆を了したのみで今日笈の耗過な
亨
ほ凍きに拘らず、今や保陣条項を額動し、同俵約の中串
と者倣される質的制隈の扶大む飴俵なくされ、婁上
lIく.ウい
同条約が崩壌せんとする構努に立到つたのである.然し
り▲I
ながち、かくの如き緒兵を紹衆することは夙に態見せら
11
れた析であつて、現に昭和十】年の倫敦倉議の際、帝嫡仝
稚永野大牌は英永の塊唱せる童的制隈(鮎ち保有すべき
軍艦の紙噸救を制隈するもの)を伴はざる質的のみの制
隈に反封し、その理由として、『この案に従へば必ずや
質の不足如ち軍艦掴艦の能力不備を補ふ焉軍艦の隻赦如
ち組噸敷む増加する傾向む生じ、故に丑的の棟張汝争七
惹転することになり、又各囲の固情、地理的情勢に邁應
する鹿種艦型の選定を拘束されて、研謂数典的渾備の亜
●,山い
傭む阻普されることとな心、結局軍縮目的を達成するこ
とがH舛ない』ことを強調せられたのであるが、永野仝碓
のこの壌見が見事に遽中し、英・米に於ては眈に丑的方
南にも急速度の接張に乗出し、今又質的制眼を溝大す
bけ小一_
るの情勢に立室り、倫敦条約は‡質上何等賓質なき披敷
忙ならんとし.つ1ある.
この事賓は一.面忙於て圭的軍締を第一義とする帝囲の
ただ,
軍縮捷案が、公正貸首にして虜に軍縮目的の達成に寄輿
し」符るものなることを立欝するものである.
四、露政府の同仙萱警官
三靖政府の通牒忙閑しては望攻究の上十二日に同
答が教途されたのであるが、その要官は次の洩りである.
一即▲ち
帝同の軍縮開穎に封する根木的態虎ほ土的制隈の晰行を先
決条件とすべしと云ふにあり、建艦漁報の如きことは何等棋
木的に軍桁目的を睾成する併以のものでないから御希葛に鹿
ずろことがは来ない.なほ日木が三図の宰宅に應じない故な
て、日木が倫敦条約の制限を海ゆる軍艦の建洩中であろと推
定することほ、何等合理性がないではないか。又三固が帝国
の加盟して居らない倫教膳的中の俸持煉項の樺利を行憤すろ
ことほ、日本の全然関知しない所である。なほ又日本として
は軍締に寄輿し得べ量的制隈を第l義とする公正なる軍備
縮少の協領には應ずる用意がある.
と云ふのでかつて、この帝囲の周答は特に汝明するを
小ん●い
要しない程簡朋且公正なるものである.
五、帝一国簿軍軍備の基網
帝囲政府のこ・の同答を以て、英・米は我が海軍軍億の‡
けふi
質は他固に者威を輿ふるものであると見倣し、、自固の軍
偶璃張のロ昔に利糊するであらうと想像されてゐる畑、
この際我が海軍軍備は何等他を脅戚するが如き性質のも
のでなhことを詮明しへ彼等の誤を→掃する必要があ
Lる.
抑」帝園海軍軍備薮俄の根本方針は、従釆屡モ内外に
‘ん♪いわつと
間明せられた通り不脅戚不僚略の侶」傭忙則ることを基
l′ヽ’■
詞となし、自らを守るに足る軍傭を目逸とし、他囲忙脅
威を輿ふるが如き内容を有せざるものであつて、tれは
規在に於ては勿論賭氷と錐も欒らざる斯のものである.
くわ一L
尤も帝囲の潅軍力は、硯森英・米雨靖に此故し寡少であ
るのや、この寡少兵力を以て我が靖防の安仝を期する焉
には」哉が国悌及び地理的情勢に遽合した最も赦兵的な
る軍備を皐備せねばならね閥係上1公正蛮首なる軍縮俵
約が存鹿せぎる隈り、我が軍備計室の内容を明示すろが
如きことは囲防止許し難い所でわる.
なほ軍備の内容を秘密に保つ必宰の租虔は、小軍備珂
は大軍備申に此枚し逢か把大なるものであることは容易
に了解せられる所であらう.いづれにせエ、軍僻の内容
を明示しないことが他密を嘉する趣旨忙出でたるもの
でないことは勿冷である.
一月二十九日米紙クyスチ†ソ・サイエyス・モllター
は「米囲を救撃せんと欲すれは、日・英雨図の聯△最隊を
以てするも何不足なるべし」と論速して居るが之等の鮎
と併せ寿へて見れば開穎は自ら諒解出釆ると思ふ.
六、英・米」沸≡国の封兼
英・米・梯三囲政府は帝南の同答に凄して−加何鹿る塵置
を抹るであらうか.
小Jヽ♯,
これは今日瀧斯することを許さず1又何等確報に凍t
ないが今日湛の新弼耗の報遁する斯姦合すれば、三靖
いづれも我が同答の内容を眈に・裸期して・虐たものの如
く、従つて三囲洩牒檻明記した劫少、r王スカレータ,y」
は●
の樺利を行使して現行の質的制隈を破尭し、大鹿の建達
に着手するものと蔽湖せられるのである.
なほ米卑上陳執負千ツ・グ氏の如きは羊響執掲催む
捷唱して膚カ、え米申下隙乱点ハ卓ルトγ・フィ,ツ斗。氏
12
●一_■と−▲▼
の如き帝臥の軍縮鴇案たる均等鳥韻七客認すべしと高唱
する向もあるが、大勢としては簡拘が同答丈にも示した
如き丑的縮減に開しては多く顆みられて居ない情況忙あ
ることは潰憾とする斯である.
七、英・米雨国の海軍軍壌韻
。
皮肉のやうであるが英・米・併三固が倫教潅軍条約計庇
叶∨●ん
准した咋昭和十二年以衆の列固、特に英・米の潅軍軍傭
大瑞張の情勢は見逃し難い所であつて、裁にその一璃を
池べれば、英囲に於ては咋年軋筒年十五億啓軍備大横張
l
計葺を樹て、特に海軍の充賓に重鮎を置き著々‡行中で
あり、眈に起エ宕しく瀬熊曾協管ずみの主力艦は五隻忙
上り又本年度の分は未定であるが、薮開耗の.樽ふる斯忙
依れば、三隻乃至五隻の大型主力艦を逮法する計登のや
うである。
一方米固に於ては、条約による海軍ガ(嘗宰府及び倫
敦条約規定の兵力量計漸鶴艦を以て充‡するもの)の盤
備に努力中であつたが、今陶従釆のh峯備棟準兵力のこ判
むち約二十五常噸の大疎張を壌すこと忙決定した.この
新計葺が譲曾を馳過すれば(竜過は確定的のものと栽渕
されてゐる)新主力艦は合計七隻建造のこととなるので
ある.
なほこの際注意を婆することは、今日造の所軍備横張
は主として景的方面に行はれたが、今後英・米がトツプ
▲た′−
を切り、質的方南一即ち大艦▲建造の鶏勢を辿ることになる
ので、軍碗の一円容は更に複雑且激化するものと就られる
ことである.
而して軍備棟張に就いては、英・米側の詮明するところ
に徒ぺば玖洲及び橿東の情勢等に封虚する為必要なるこ
とを強詞⊥てゐるのであるが、世界東→の海軍力を有す
はW▲一●
る固が之を脅虜するものあるを敢見し得ないのにも拘ら
▲_づ一ん
す卒先軍備溌張を行ひ或は固際惰勢の不安に備へ、或は
せ界半和を保障すべき管察カたらんとするが如きことが
あるとすれば、それこそ却つて不安封立を激化し、せ界
いI●
各固の軍備瑞張を誘致するものと断ぜられても持材の飴
沌はたいセあらう./
先般ミーき−ク・ヘヲルr紙の批詮が「米囲海軍の現
状は周土防衛上充介なる弊カを有す」と鎗断んて居るこ
とは味はふべき首であると思ふ.
八、我が南の封黛
前鹿の通り、帝囲梅軍の軍備は不脅戚不使略を基調と
▲−ん■ヽ
し固防の安固を期し得る自主的軍備を目途として居るも
のであるが、元米軍傭は相封性を有するものであつて、
その内容は常に不華不動のものではなく、現在真障なし
と認められる我が軍備も牌氷情勢の葬化特に閑係囲海軍
軍備の欺況に班つてこれが華東を妥する場合が超り得を
のはいふ▲までもないことである.
現に萬一今同の建艦洩報間題を横とし、或はその他の
H‡を設け、他飼が軍備横張を強行し、それが帝固に者
▲威不安を輿ふるが如きことありとすれば、帝輯はこれに
t▲_
封鹿t軍備の内容む華更する等必沓なる稽置を絆ずるの
已むなきに室ることは常然である.徒つてかくの如き孝
態に立到つた場合には、我が囲民は卑防の蜃尚を期する
一−いしんtい
一葦ノ薮寿を研しでこれが‡符持頭逆k卓を孝
rん
山の安軒に置かなければならね.
13
敵大寧を黄河に磨す
陸睾軋新陶班
南末、済南、晋鳥攻略以水我が軍事行動は大風一渦の観を星してゐたが、蒋介石の杭日行動は依
し●l】モ′ヽ
然として紘楓する所なく、山西省離石及び介休臨扮和塀を中心に山西軍、椚配軍、申央軍、弗鹿第八路
.ち−かい
耳約三十個師を以て固め、京沸線方南も新郷邸州を中心に草河以北及び隙海線滑線に約三十個師を集
触し新郷附近には政線の竪同な椰地を構築し戦備怠りなく、浄描線方面も亦徐州北方地笛、嫡頼南方
地富、線路西☆曹州を中心とする地富、椛海線蹄徳を中心とアる地富ほ約二十個帥を出動せしめて南
北槻方南の・我が軍に封ゼしめつゝ孝る。これに封し我が筑はこ凡十一首の紀元節の佳日を期して山西
ヽヽヽヽ
ガ面窟漠線方南は攻畢前進を起し、各J首南の敵を拳破して敵大軍をひしひしと大苛河に魔しっ1参
り、今や戦横嵐を叡んで脈々としで嘘海埠全線に動い孟る。敵が銀壁と芸む衰河争今や遇賂の大
幣蹴となつね。
l、山西方面
ひにく1ヽ′’
山西省太原南方地直に在つて久しく鮮肉の嘆を洩し
′小
つ1腕を撫して待横中であつた我が軍は、京漢線方面
∫
の活動と相呼謄して二月十一日の紀元節の佳き日を期
して行動を関始し、その先遽隊は十三日や造附近にあ
つた約三千の敵を攻撃して之に大打撃を輿へ、同8夕
劉同解域を占撮した.
十五日正牛乎造を出教、介休に向ひ前進した.又右
側部隊は平造西方扮河を越え考養方面に前進した。
別に太原附近にあつた我が軍はこ月十二日行動を起
小い‡′くヽん
し、その先遽部陳は十三日開柵鋲ハ丈水東北方約十二
粁)附近にあつた約一千の敵を撃破し丈水北方地直に
進出した.
ニ、京漢綿方面
L線路東方地直
久しく鳴をしづめて満人たる英気を養つてゐた京藻
凝方面の我が宰もこ月に室るや線路末方地直に於てそ
14
lい和l
の銃錬を規はし始めた.坂西部隊は七日朝進撃を開始
し牛後二時南紫顆域外の線を占領せる約首三十の敵と
弊破して域内五首の敵を鵜逐し牛後五時十分同城を占
棟した.土民の首によれば敵は保安隙のやうである.
∧日午前入時同地を竣して浦進し迫弊砲を有する約
七首の敵を弊破し午後薄費を占操した.敢の遭喪死僚
八十である.更に南進を】研け九R約一千の敵を弊破し
て滞陽せ占撮し、十一日正ヤ明大桑樹集(渦陀鴇方約十
’●l▲lん▲ちん
六押)を独過常進して衆門鏡に達した.吏に愈進を棟
け十三日牛前十一時凝壇を占接した.
十五日朝凝題を椚黎、封叩に入つた」封坤陣地の敵は
くわいl・1
皇箪米るの報に一発も應戟せず夕方西方に渡滋した.
更に息もつがせぬ怠迫に移り十六日牛後封岬西方陽武
に人城した.
こ線路に滑ふ地直
京藻線路主力方面に於ては彰徳に於て待横中であつ
ひ●1フ小け1,
たが、十日鴻家橋ハ彰徳西南方十二粁)及び娘々廟(彰
徳西南方四粁)を占操t同日夜展閑して紀元瀞の位軋
日を迎へた十−日沸噴を期し揚愴北方の敵陣地に封し
紬仰攻弊を関始した.
tく】qい
此の方輔に於ける我が軍の進出により徐州の側背
っけ・′▲
を衝かれ瀧梅線を中斯され且湊口方面忙直凄の各虎を
受けるため、敵は防傭に仝力をあげ中央軍の楕銃三十
個師を配し稗潜が線指球に首つてゐる.
紙政解を閑始するや陸軍横は翼を列ねて犠弾の雨を
▲7▲■’
陣らせ、地上砲兵陣粗より打ち山す砲弾も青峯に唸を
生じて敵陣地を粉碑し森喝1石黒、速山各部験また哉
革保と非に潮の如き勢で前礎を開始し銃砲斐は河南の
峯に響き渡つた.
同日タには我が軍右榊部陳は鴻家橋より南進、柏落
(湊陰西南方約十粁)に進出、右果部隊は魂衆螢(彰徳
南方六粁)附近の敵陣地を攻略して二十農鋪附近に、左
巽部隊は官庄ハ揚陰東南方約六粁)、四台寺、四台の線忙
進出した.、
陸軍杭峯部隊鳥谷部隙は前8寮河大鋳椿壌破の殊勅
を立てたが、この日吏にこれを尭仝に破壊すべく敵地
▼流く飛んで敵砲火を浴び乍ら批凄棲まりない鍵穂爆学
を敢行しユ花。
」▼一●
ニ月十二日依然攻撃の手を頼めず右側部隊は羅銀
(宜溝錦西南方約八粁)南方高地の敵を革破し迫撃を鎌
け、右艶部隊は牛前十時頃湯陰を占墟し横いて宜溝鏡
南方に向ひ温畢し、左繋部隊は十一日夜牛後李朱ハ湯陰
し●“l・レ
甫方八粁)附妃に於て仝く敵の温路を涯断し、敵に大
なる組事を輿へた後温撃を緯行して十二日夕刻貰庄
ハ宜港銀西南方八粁)及び新庄附近に進出した.
.汀ん一かくl・ん
血首面の敵は萬捕燐軍粛首三十帥、東首十六師及び騎
兵第九師を主健とするものの如く、十】日に於ける敵
の池祖乗死億は約千であつた.
は▲ヽ′ヽ
十三日敗混する敵に封し破竹の如き温宰を練行し、
●けん
今円戦車部験は牛前十→時与くも洪耗域に建して北門
上り入城し、これに引頼き歩兵部験も入域した.同日夕
忙は卑くも‡山村ハ沸解西南方約十六粁▲滑河右号)、小
安ハ洪煉甫奇約八軒)西国ハ洪耗東南方約入粁)の線に進
出し袴.又西方の山施を姐弊中の込山部験は犬胡同ハ洪
解西北方約十二粁)倒近で約六千の故忙温及し之忙大
打宰を輿へた.
十四日魂が主力部駿の芽一線は飲鳥胡同ハ衝坪池方
十六粁)、甘庄、大官圧の線に池出し衝滞附庇上卜養
15
附近に亙る敵の救繰陣地に封し攻革を準傭中であつた
が、十五8朝米攻率を閑始した.
衝坪は漸河北方に於ける敵前線東一の陣地で新郷を
中心とし咋年十月から四ケ月の長時日を費して築き上
げた永久的陣地の嘉婆な一鮎である.衛呼からその西
北方坪願に亙つては赦線の竪陣地が構築されてゐた
が、我が強力軍は十五日タには此の中央附妃の敵弟一
線を爽破し滑村ハ坪願東北方八粁)、申屯、寵王喝大漫
洗ハ館坪西北方八粁)の線に進出した.常日の戦開に於
くわいめつ
て赦の第一七九帥、第七七師を渡滅しその遭菓死懐
千を下らない。
&線路西方地笹
小んたん
耶耶附並にあつた我が軍は二月十一日を期して活動
を開始し、京漠線西方山地帝の粛清を開始した.十一日
耶鄭を敬した我が倉例部隊は武安に向ひ前進し、十二
巳キ後三時噴競渡ハ武安西方約八粁)を通過西進した。
エ藤部傑は十一日牛前十一時武安に於て∧千飴の敵
し●んけL−
と漣過し之に猛撃を加へ、敵は唆喩な山岳地に竪間な
陣地を構へ頑強な抵坑を試み激哉敷時聞に及んだが、
我が軍の兵敢な攻宰に坑しかね同日夕刻頃より多救の
死鰻を遭秦して山中探く渡糞した.
十四日右側部隊は後砦附娃に達し十五日渉席北方地
直に進出した.エ藤部隊は渉顆東方地濱にあつた放と
筆破しタ刻河南店ハ渉廉西甫方二粁)附近に建した.
三、津浦線南段
ばIムねい小■も
坪埠懐遽の攻略後満を持して准河渡河の増曾を姐つ
てゐた津浦線の我が軍は俄然勇猛及敢な行動を糊始し
■ワんわい
十】日、十二日各」部を以て臨推糊、坪埠、懐遽封岸
を占挽し、黄河揚子江中間を横断する勅脈的交通路た
る推河は克仝に我が軍の勢力下に入つた。
此の勒闘の成兵は次のやうである.
挿推脚方碩
・♪’−■
教箭首四師、第首十入師、治襲死憤】五〇〇、伴庚】五。、
lウくわく
虚狸兵器軽機一七〇、槻脚銃三〇、小銃≡六〇、刀六、
聾・確∵、仙坪集七五〇〇
也町埠方南
費「L第首十三.師.掬立第十田放、稟死鳩五〇〇、由獲兵
器軽槻二入、小銃一〇〇、迫撃砲三、野薬多蚊、我が損筈
は死傷合して約一入○
陸軍飛行陳の。。横は十一日午後三時過、宿願、固
銀及び南下中の軍用列革に爆撃を加へた.
此め日珍らしくも敵爆撃械六横が畔埠上峯に飛米し
市術窟のイタyヤ、フラyス南岡人の仕宅に十】個
を投弾したが我が軍には揖審がなかつた。
四、山・軍方而
L趣済線復曹
●}−,小,1い●でふ
曹膿米復曹エ事中の膠済線は昨山、朱劉鳩間の軌俵
敷役も木村部除によつて十日尭成、十一日の伐鶴に愈モ
仝線三首九十三粁が閑逸、牛前八時膠済線初列車が貸
車十六艶旦準引青島行初列革とし七我革した.なほ青
島からも済甫行が考車したが、同線は満錬に委任経沓
され、一日ヨ同列毒をなす筈である.
こ斉河繊橋及び大托河繊椿閑洩
大東河収繊橋は木柑部隊の手により九日竣エ、盛大
な閑通式の筏漱河北岸午前十一時十四分頚列革が同難
橋を渡り和め、正午済南欝に到著した.
津浦線大眈河繊橋の仮木椅も九日竣エしたので、十
モいねい
】日ヤ前八時四十分痢南教列車で済寧まで開洩した.
これにより支那軍により破壌された津沌線は蒋び閑
つ■b
通中固を貰ぬく大動腺の主聾部分は克仝に復嘗を見た
▲渾である。
乱黄鳥(脊鳥西方)占嶺
二月十二日牛前五時牛大型敬動横般。隻に分乗青鳥
を出教せる山円部隊の一部は黄島の鈷罫灘庄部落に上
陸、息内の部落から武静を押牧した.
も山東各地の敵逆襲を畢温す
●モ♪,レユT」●
曲阜東北方僻水前南には十五日牛後約ヱ首の.敢が
毒して衆たが我が軍に難なく♯温された.
16
邦願甫方雨下店の我が粛一線にも十四日牛後四川東
首二十五師の】園が逆製して米たが我が反筆に南方に
」済走した.
沖寧には十四日有力なる少くも三筒帥を下らぎる敵
が包鞠攻宰し雑つて沖寧守傭の我が部隊と激戦を交へ
た.
十三日牛前四時牛敵は大壌して舛寧北方十男耽上に
夜劫し木つたが、我が沼内締螢雨部隊は之を迎へて暁
の激勒を交へ大打撃を輿へ鞭温した.
小−さ}くわいひ
又同日長清附故に紆槍曾郎が態拳し木つたが我が
赤柴部隊は之を撃退した。
五、北支方面後方情沈
L山西方面
太原附近にある我が部隊はこ月二日乃室六日に亙つ
て盲交頻ハ太原西方扮河々呼)附近忙あつた約千五首の
ムく●つ
共産軍に封し多大の絹事を輿へ其の根操地を覆滅し
た.
又噂席守備陳は七日暗顆北方六粁兼家塗に於て共産
軍幹部の密議中を急製して首脂部五名を捕獲した.
こ京藻線方面
郎耶附迂にあつた我が軍は十一日活軌を褐始tて京
藻線西方山地の舟清を」開始した.
乱匪叫の概敷
}月釆に敢ける匪輿の概敷は次のやうである.
甘泣‥匪平一一、。。。
蓋‥野n夢ある捷胡入、。。。
計一九、。。。
滞順匪九八、。。。
辞凋申込六五、。。。
辛退せられた艶興一・。、。。。
敢の稟死廿三、五五〇
挿さ七入
丸鮭郎の動向
●山レ●一_
】月に入り特に挿頓申込急款忙・埠加し、挿頓匪にし
て我が耗制下にあるものは自衝神、替戎勤務の補助、共
匪の討伐に使用してゐる.乎山守備隊使用の締噸兵(凍
一い小ん
敗英軍に一農す)は精悍で、或は座勢な共匪を撃温した
lt,●
り或は斤候として有カな報昔を甘したりしてゐる.
共産廃はこれと反封に一月以降漸く共匪の本領を費
球して我が後方柁軋を開始した.
保定石家茫間の西方にある肋腸、阜半及び罫薄附近
一汀ん●▲
に偲合計約六千と稀せらZl共匪が埼居して、特に阜
苧には彰某を主席とする共産政府があつて十二月以衆
共産政治拳揆を設立し十五裁以上五十義以下の男子は
必ず】甘一同訓練を受くべく強制せられてゐる由であ
hる●
け一}▲■
一般佳艮は輿匪を堆慈してゐるから我が村伐に件つ
て漸次騒壌せらる1欺態だが抽断はならない.
17
長沙に初撃を如ふ
海軍省海軍車事普及都
海軍航蛮部隊の誉戦
二月入日
南支峯態
b,小I●一′∫つrIん
済三鱒道横江墟附近…鍔椅、簾東沸山聞に於て横
■▼んユT▲
脚▲革及び三水東方に於て概閑車攻宰.
−・,くわん●ん小.ムくlい
その他東究附紀の.檎発、錦度南方の橋梁及び棺永
▲rんr●
附近の繋壕犠弊.
中支察山洪
rし●●▲フ
宜員・飛行場を念墳地上横大型二、小型三計五
機を確賓に爆破したる外、格柄碑二棟、倉庫五
棟を犠破炎上せしめた.
小んこ,小ん●・’
藻口大拳察攻し藻陽兵エ蹴内エ場二棟を炎上せ
しめ又飛行場に於ては大型地上横一梯、兵合一
棟を・炎上せしめた.山珂上峯に戦開横一横を認め
之を軒鹿した。
lいユTl
醍水飛行場を爆革、飛行場及び附展建物一棟に
払奪を輿へた.
ニ月九日
南支峯山製
しん一ll
済九鋳道新塘附近にて宰帝品搭載の舟墳四隻を
‘■●▲ワ●}▲P,l
榛弊したる外右寵西方の鋳橋及び横沙昏を政半.
●Iんユ丁一●小▲フ一ん・’
モの他三水高斐聞に於て大型ジ†yク五隻弊沈.
中真宰黎
▲−ん“打い
安慶飛行場を攻撃、飛行場確設に相常の揖事を
輿へた。
いレJ,●▲フ
・宰陽飛行場を政弊、上峯に於て敵横十五横と
轟戦の結兇、円五概を弊虜したる外、地上撥二
横を爆弊炎上せしめた.
さん●・’
南陽飛行場を念製、その‖確設に相昔の鴇事を輿
へた.
・ヽ●}‡
長沙飛行壕を攻襲し地上棲二横爆破したる外、
場内格約庫を炎上せしめた.
h打んL■,
捷屯飛帝場をh壌辛す.
メこ
敵竣爽現敵重爆宰横七埠蕪湖に爽狭、飛行場外
に役弾したが何等鵠宰はなかつた.
ニ月十B
天候不艮の篤攻宰を行はザ.
ニ月十−月
南支方面
天侯不良の名攻宰を行はず.
中真婁我
‘−シ†▲フ
武貞軍官拳校を捧宰、七棟を炎上せしめた.
敵横衆狭敵重爆宰横六撥蕉潮に釆狭したが投野
せず逃凝した.
ニ月」丁;貝
甫支婁鞋
●ん小
銀度附鑑の自動宰遭賂及び橋梁を嬢半.
▲申支姦製
一いし
鼻チ九江東寓二十粁の星子羊官畢枚故に舟枚と
蟻盤丁.
ニ月」丁三B
甫支婁袈
lつかん一−んくわてん
与漢錐道三葦店酵及びその附近鋳橋等を攻革し
l一I▲・l▼、一
たる外、鳥石墟南方餞橋及び英徳昏爆宰。
しん▲た1フ′、・た・ク
簾九餓道新塘附近鱒橋、土塘鱗橋附近自動革道
路及びトーフック、樟木頭附近瀦幣南方樺銃陣
し†1フ1▼Jヽと・,
と・フくわんこ・lん
地、釆▲賛附近十ヲック及び虎門附近敵兵浦戟の
トヲタク等を攻拳した.
簾三餓遭西南鋸附紀鉾穂を攻撃.
ニ月十四貝
甫支峯魂
れい′I17
卑漢鱗邁英徳坪及同坪北方に於て貸事群、黎洞
・モんくわてん号んl,一〃章
附紀の鱗椅、lニ華店坪及び附近の鱗椿「銀妻拗
上,(わんしんた−
及び斬椛鮮附近の椿衆、東莞新塘間に於て自劫
小と・’,小f−一−ん
憲路及び橋衆、河頭拝畷附紀、江村附紀の韓
橋等を攻撃.
‥レ●Iへいし一,lくと,‘●
髭九韓遭常や附近、樟木頭坪、唐鈍天昏附近、石
■ヽた・,′I,小
鼓昏及び塘頭庫坪附近を攻盤丁.
その他東莞附近の由動革遭路、蜃琴虎門砲基及
び虎門附紀に於てトヲ,ク、樺簗等を攻学.
ニ月」T五R
天候不艮の名故宰を行はず.
18
朝鮮の囲虜警.備朝鮮絶督府
一封岸賊勢の滑長
朝鮮北都一帝に亙る璧罫円境は、彼の有名な自頭山
を升水頻として西忙鴫練江、東忙豆沸江を挽んで嵐洲
靖汝びにゾ聯邦と境を凍し、その
薙長一千三盲十−粁に壌し、ちや
うど下閲より奥州自河の娼忙重る
間に相昔し、乎安北邁、成鏡甫邁、
成錦北遭の三溝に亙つて居る.こ
の長い固境線に亙り、地勢共の他の
脚係に依つて一定してゐない・が、
大鴇江岸よhこ一十粁乃至四十粁の
棺貞を有する地帝を囲墳曹備地城
と定めてある.その面珠は賓に七
′,わ▲,.ばく
千二首方粁の廣漠たる地域忙及
び、これに封し約三千人の警察曾
し、
の配置を以ていはゆる固項警備陣が布かれてゐるのセ
ある・これを響察官→人嘗に半均すれば一人で約ニ・四
方粁とhふ庚い地域を受持つこととなるのであつて、
ムてい
これ等囲壌瞥備の替察官は不退の徒聾や離賊の僚入製
黎に傭へて、袈暑を俄はず葺夜の別触く晋傭の任に駄き
且これが討代に従事してゐる。
▲▼一▲T,や,
囲墳地帝灯自粥山を巾央にして赦多の高嶺が玉塵
し、山舵は四方に滋り瞼路峻坂が俄横してゐる.殊忙
・か上つ
白粥山麓八十托の一帝は千満斧絨を入れぎる原始密
林地珊で、電詔線の架設も拘難であり交泡も殆ど絶え、
前人米躇山地が到る虚に戌されてゐるので∵雨江上流
′一小一・
地方虻文字通b人層掛靴に依つて宰ケじて物賓の渾搬
が行はれてゐる状況である.
封岸浦洲周との凛池は、夏季に於ては各桝払渡塘場
が開設せられるが、中流地方以上は水が鴻いので渇水
■_一・一
時に偲到る虚容身に徒渉が川氷、殊に多期に於ては江
上は仝く硫結して仙埠符は自由自鵜、匪賦襲の僚入も礎
めて容易であり、替備上の大きな悩となるのである.
rl小ん●
祭候も亦大捜性を旦し塞鼻とも甚しく、鶴寒季に於
ては零下三十飴度は愚か、成南意山替察著上りや北中
江替察暑管内に至る地方は成い時でも零下二十七入
度、塞い時には零下五十度にも下り、夏はその反封に
纂首飴度に上るやうな鵜態である.
1・い一←∫.
か1る自然の慈環境に耐へ、兇暴材狼の如き靡賊等
が虎祀眈々として俊入の横を窺ひつ1ある危瞼に面
■I
し、・常に身命を購して固墳脊備の大僅を典して居る我
が江岸粛∵線の曹察官の動秒の孝苦は仝く撃部に壷し
難いものがあり、硯地を覗察しない者には到底想像し
得ない所である.
ほ・フ.‘・ツ
雨して封岸浦洲は地味辛憤にして、従衆より虜械「
土匪等は各地に池旧在して居つたが、大正入年かの朝鮮
l・I・一,
猫立駄凍が起り、朝鮮内で事件に閲係してその錬捕を
川叩L▼
兎れたる者、或は我が朝鮮銘治に不浦を泡く者等は奔
つて浦洲に身を鰭し、貯内と呼應して朝鮮濁立を夢
み、不迭行勤を敢へてして馬賊等と共に盛んに珂境堆
帝の治安を軋したのであづたが、大正九年に軍験出勅
して大討伐が行はれて以鶴度モ討伐した結鵜、昭和掛、
五年噴に至つては固竣の治安は仝く確保されて欝穏無
事の秋態が耕くやうになつたのである.怒るに浦桝事
19
費勃賛と共忙「固境治安の敗況は俄然逝坪して爽た.
伽ち張襲艮下の嘗政横が溌滅してからその舷残兵専は
し▲lrい
所衣の馬賊、土舵及び鮮匪専と相結んで、反沸坑日の
▲ばり■ヽ
淡の下忙救国軍を組織して各地に櫨行故庖し民心の動
格甚しきものがあり、加ふるに治窒沌からぎる域に釆
じて兆産距が蜂関し賊勢は愈ぞ棟犬した.その敷は無
埜ハ茶と栴せられ、潮岸浦洲一帝は虜に況軋状態を現
仙Mしたのである.
1小●
これ等の虹賊等は盛んに我が江岸む親ひ鮮円位入
を企飼し嘩、魂撃し木つたので、駒然図境一珊は著し
く不安を感じ、大正∧、九年常時さながらの胱態に逆
虞りしたかの和む盈するに至つた.いま拭みに昭和六
年九月帥ち浦洲事奨頚生以氷昭和十一年山ハ月遥の間に
し●り灯づ
於ける封岸浦洲に出洩横行した眺絨についてみると
そのM汲同教二三、九二入同、薙人皐に一、三六九、○
〓七人と云ふ驚異的撃に上り、又その被沓は投人
ニ、一五四人、傷字二、l六七人、人質拉去」入、l四四
人、曹ハ三、五四九件、銃器椋奪三、l七九挺1掌金品
見頓ニ、七五ニ、六七八風の互桶に達してゐる.これら
K∫Hじつ
の葺は彼等の飽くなき頭忍兇暴振りを如賓に物藷る
ものであつて、.殊に封岸地背には我が朝鮮同胞が多敷
移伍して居たのであるが、これ等鮮人達はその暴虐に
つち小
耐へ乗ね、永く増へる耕地を放棄して絆内に避難す
る者が練出するやうになつたのである.
これが鳥昭和七年以嘩度モ我が満洲駐屯軍及び朝
た,
鮮師輿より軍陳が出動しこれに警察陳も参加して大討
ばりぐんけい
伐を敢行した外、鴎時軍響の討伐によつて現在に於て
はその教は著しく減少して来1ゐる.しかし現存せる
拡賊は仝く兇悪そのものであつて、共産米匪賊粥の指
導下に大部分は共産匪化し、反満統日の意識が極めて
【▲フ小ん
唖盛で、敷年間の決死的鴇教と粧てその性益モ博梓と
なり、共産匪を洩じてゾ聯方面より入手する精銃なる
横開銃、迫牛砲尊新式武券たも有してゐるのである.
而も彼等は相曹訓練を疎み耗制ある行動ととり、その
▲●ど
弊は‡に侮り耗きものがある.而も銑専は凍洲固討箆
エ件の遽渉につれて漸次兵地エり姫迫せられて江斉施
帝忙進出し、加ふるに衣食の銃乏は彼等を進温南難忙
しっl,
格れ執拗に我が固墳む窺ふ忙至り、我が囲境曹備警察
曾は或は軍陳及び満洲国官憲と協同し或は猫自の立場
ねい‥レウ
よりこれが討伐に寧日なき有棟である.これが薦警察
lつlて●,
官の封岸鎗境討伐を敢行したる同故も、昭和七年以碑
昭和十【年六月規在までに二首六十入同に及び、響察
官の殉撤せる者二十−名、負傷せる者三十名といふ多
教の犠牲者を出すに至つた.
ニ匪賊討伐と響備封策
紀時舛境封岸に出汲し各地を埋学して券虐行鳥む敢
行しっ1ある匪賊は、中固共産兼浦洲特別委貞曾の指
導下に組織せられたる東北人民革命軍姓びに紅匪等
の共産耗匪が主な々もので、その他の群匪、馬賊等は
一ん′▼Iくわいピr一フ
これ生典匪の塙動棲莱によつて反滴洗日共同我線と
†小
綽成してゐるのである.彼等は穎んに封岸地帝を横行
するのみならず、絶えす我が固境線を爽破して貯内に
倭狭せんと企節しっ1ある.
20
最娃租つた.「二の事例を畢げて見ると、昭和十二
年六月四日、官五十飴名の腔賊が成錦南邁息山替察署
し‘▲▼
管内忙潜入した事件がある.宰間ですら確尺を稗じな
●lん一y−●,
い帝林山稜を倦うて而も夜牛牛前一時頃上り行動を超
ケt小、てムし●
し、夜明頃に絆内目的地に到著し密に諜者む放つて状
‘んぷくシ
況々凍れ「打中は附紀山中に潜伏して待横し、夜に入つ
●しLr
てから牛後十時墳爽風的忙部落を奇救してきた.その
て,
l部は梯閥銃二挺を先づ警察官駐在所門前に据付け、
川Vん一い
手警に就射して替察官の椚動を牽制し、他の】部は
●・●‘、′川つ
都落官公著に放火椋奔をなし、横を見て疾風の如く山
中忙引鵠げ逃充した.而もその一部は牧容部除となつ
て山中に待横し我が迫宰に備ふる等極めて用意周到な
るものセあって、−駐泰所四、五名の硯員を以てして
ェTT
は如何ともチの施す術もなき驚情であつたのである.
翌日になつて本著より應媛を穐封岸に迫撃して之む
軋軌がしめたわであるが、この討伐忙於て、我が警察
l●●一▼
官は僅か三十徐名の少故を以て不利の地勢に凍り克く
・た・♪
十償忙徐る既−購を攻撃し賦多敷を痩したが、我が方忙
も殉職者七名、重傷者七名を出す佗至り、その激戦の
しの
欺偲ぶに足るものがある.
又昭和十−年十月九日、千安北邁脅撞札管祭著魯章響
ひだん
察官駐鹿析を狭牛した匪輿は本隊を封岸忙待横せし
一−t
め、雨ぺ婁聞その決死隊貞五名は良艮を装うて江を渡
は}・たいり
り、朽一名むして腕に仙棚帝を施さしめこれを層匹昂
り、他の二名が左右より支へて駐奄所む訪れ、「此の
男は私共の友人であるが封岸の山道にて箆落負傷し
た.附紀に者師もなく治療の方法なき故誠に恐縮なが
◆一
ら備付の襲を施輿せられたい」と申出て衆た..昔番巡
査は直ちに備付の救急築品箱を取出さうとして後向き
たなると、悸し持つたモーゼル拳銑を以て同湛査む阻
t叩ふ
撃して壕したのである.体務中の撒烏は直ち忙起つて.
應山琴これ等五名の賊む仝部射役したが、同哲貝中四
名は逢に殉職する忙至つた.これが一馬封岸に待横中の
二盲飴名の匪園は途に絆内俊入を息ひ止まり、我が討
伐隊の追拳により奥地に逃走したのであるが」彼等の
lワl
行動が如何に大腑巧妙な手投を弄してゐるかはこの−
事を以てするも明由である.かくの如き林況であるか
ら、我が囲堵替備替察官は囲境治安の確保姓び忙封岸
ばつこ
居位凄鮮人同胞保護の見地から封坪鮭賊の故息に封し
寸時も監硯を怠らず、これが討伐に昔つては軍隊及び
満洲磨軍響とも緊密なる漣絡を保ち、或は共同討伐を
行ひ、或は瞥察濁自の立場1りこれが討伐を敢行して
f
ゐるのである.殊に軍隊の出動を侯つて討伐を行ふこ
とは、故捏の大駈常の場合でなければ事‡上飼難であ
るから、多くの場合牡替察官は粥官の立場に故て紆伐
を抒ふのを例としてゐるのである.而もこれ等鮭戌は
常に敷十敷首の集耗を名して行動するを常とする壌−
我が嘗は敷催赦十樽の匪賊牢相手にするそ飴礁
なくされ「その辛管は士ことに首浄に痕するものがあ
−々●
故忙昔局忙放てもこれが封策各hいて線並オなちぬ
芳心と沸うてゐる.如ち出衆待る隈りの防備施設を施
・†こととし、仝血彗り」青態薗所め学察辛〔鞋鹿櫛専忙は
21
犬人軽横捕銃を備付け、鹿合の局南には繊条網を碩
●ぐ一rんがl
り廻らし、蟹墳と紋け、防拝壁を築撞し、或は又凍照姪、
叢辞等とも備付けてある.吏に又侍蕎を伺音して
臭地との建終に‡し、各辛所には笠棟と築いて看硯
の使に供するなど防備施投の井仝を朔してゐるので、
−旦耗絨♯♯等のある壌合にはこれに依つて少教を以
て封統し拝るやう里租な投価と投けてゐる.而してこ
れに配牡する甘薮官にはなるべく‡挨出身の少批者む
り
甘てて居るので、いづれヽ元東旺盛葉天を術くの山概
一くわん→●
あり、常に少鼓以て大鼓む制盤し克く料竣替備の先壁
を朔するやう努めてゐる次東である.
三開境仙蓑丁察官の辛昔と祭巷
封岸の離状かくの如くであるから舛境替節職貞は二
●
六時中武袈に身を固め、蛮灼くが如き貰の日も、酪
t†
衷血凍る多の日も、風書を官し瞼難む征し、相扶け相
戎めて匪絨の討伐、南境の響備に仝カを傾倒し、鳥
。はい
に心身痩懲の櫨に止渾するも交替すべき警備の飴カがな
いので、僅かに銃をト枕に甘しの体胡仰を慰めとし、鹿に
丈字洩り不眠不休の活動を練けてゐるのである.桝へ
ば−里乃至三里にも及ぶ驚傭慣間む僅か五人乃至十
三人を以て見張、巡察、電話漣絡ハ五介間毎に隣肇
所と速終す)その他l般替察事捷の虚理に嘗り、殊に
▲冬仙期は江上凍結して交弘自亜となり到る虚匪嬢の侯入
が容易となる鳥にこれが響備替戎を仝うすることは尋
常−楼の弊昔ではない.かやうに警備は手薄なので、
一旦匪賊の使襲等があるときは仝職良只を畢げてこれが
警備討滅に出動する食駐在所、出張所畠の響備警戎、
隣肇所間の電話遽格等は勢ひその家族達の手で保持
される状況である.かの昭和十一年三月二十五日や安
北邁員域替察零管下大青替察官駐衣所が匪賊の典半を
受けた際の如きは、首席部凝の車は自ら身を以て駄在
斯備付の銃器を守りその掠奪を防ぎ待たのである。む
■ヽ一r
ち猫り警察官のみならず一家拳つて警備の在に就くの
甘晴である.殊に鴨線江上流地方に勤移する警察官の
音心は一舟甚しきものがあり、不眠不休のノ替傭に首
がし▲ヽ
るは勿論、交洩橿めて不僧の魚奉年九月頃道に冬鈍り
の食料品を準備しなければ向ふ牛歳飴の冬期間の生清
●▲′丁
が出来ない状況である.加ふるに妾の酪しづは想像
◆ンrルた
外で、渦爽の盤に史に暖墟を焚かねば眠るeとが出衆
くわ1フ■ツ●・フ
ない。而も浦目先涼何等慰安の雄設等伽…くその生活
環墳資に同情に堪へぎるものがあるにも拘らず、その
▲い
家族達融和図結の状は恰も一衆族の如く和気罷々たる
▲モ●・′
も・の‥があり、一朝危急の際には家族と雑も瞥備の任に
つ、
就くの準備郎ち「斐も銑執り應勒す」の発悟を以て互に
んVつ
掛まし睦み合つてゐる。
次に固項線地方に於ける昔席糠紬の方面を見ると新
養州、義州、焚山、江界(以上乎安北造)、意山銀人成
鏡甫湛)、曾寧(成鏡北道)に邁立柄院があり、又半安北
渡朔州には渦泉を利用した響察療養斯もあるが「何分
財境線は一千三首十】粁飴の長きに亙る名にこれだけ
22
では到底間に合はない.偶モ病気にか1り昔帥を迎へ
んと†れば多瀬の経費を要し又時日を宴する.よつて
骨局は駄耗所に救急襲を配布する等の應念策を講じて
ゐる.以上の如き辛背に封しては各方耐より慰問同情
lヽ′か
を寄せられ、馬に替察官の十気を耗舞激勧すること鵬
る大なるものがある。なほ又これ等替祭官が賊徒と戦
ひ不奉殉職した時は、その英罫は瑞国紳枇に合祀せら
れるのであるから、替備職員の飴焚亦大なりと調ふべ
きであろ.
凹時局下史に緊狼
し●く一い
近時開墳の耶賊は満洲国の治安繍蛇∴作の進泉に
l▲ドレき・フひ
件ひ札屋次の日満軍警の大討伐と常時不断の端鮎エ作
とに伐つて漸次その教を減じつ1あるが、今なほ救千
.の兇郎が難敢潜伏して居り、これを根鹿せしむること
は容易ならぎる‡晴に衣る名、我が囲増替備は放然寸
時の油断をも許さない.東に刻下東亜の危横に直面し、
r
固壌瞥備は封満方面に止まらず封ゾ方面にもその重要
性を加ふるに至り愈モその賓任は加重されて木つゝあ
】る。
貯ゾ国墳は蛾鏡北道西水確瞥察署管内豆浦江口より
上沌二十押に及ぶ間であつて、この間の替備は鮮満国
L■▲l心●
墳のそれとは著しく趣を異にし、槻妙なる国際開係
を件ふ鶉その替備の遽行は特に苦心を要し且飼難とせ
られて居る.殊に日ゾ開係の尖銃化に伴うて、ソ聯側
は碓氷浦洲各地に晴翔する中閲兆産鴬系共産匪紅軍、
1可●つ
東北人代草命軍、朝紆革命軍尋の共陛を換り鮮内赤化
の魔手を仲ばしっ1あつたのであるが、最近に至つて
さんJくて・′し●
は時局の緊池と兆に盛んに諜者を鮮内に潜入せしめ、
●Jヽl一
我が図内情勢、軍事槻概の諜知に坪起となつて居る状
態であつて、一方図項線を挟んでソ聯官憲の不信不法
ひん▲ばつ
事件頻磯し、我が替察官がソ聯軍隊により拉去され或
は払撃を受け逸に殉職者を出す等の不絆事をも黎生し
しんJん
て居る。ソ聯飛行横の鮮内上峯便氾、海上に於ける我
γ、d■一く,,
が出漁継の食捕抑留等また相次いセ起り、.鮮ゾ歯境の
構勢は多‡舞らんとしつ1ある.か1る意味に於ても
均項警備の任に常る者の茸任と弊昔とは従前の此では
ないのである.
睾忙も警備慣稚事する替祭官の秀政なる戯身的努カ
と硯地位民の普々る理解とに依畑替備陣の仝磯は微
動だもせず、〓囲に亙る我が囲境は固く強く守られて
ゐる.