第六九号(昭一三・二・九) 時局の推移と国民精神総動員運動 内 務 省 日本精神の昂揚 文 部 省 江北戦線准河以南の粛清 陸軍省新聞班 援支のソ連機を屠る 海軍省海軍軍事普及部 独・伊の青少年運動(上) 文 部 省 第一回最高ソヴィエトの経過 外務省情報部 最近公布の法令 内閣官房総務課 |
日本精神の昂揚 文部省
昨夏帝国が暴支膺懲の聖戦を起してより茲に既に半歳、時局は今や転換して新しき段階に入つた。即ち最近に至るまで我が国は国民政府及び支那軍に対して涙を振つての鞭を加へつゝも内心彼等の悔悟を期待し、抗日の悪夢より飜然と目覚めて日支の親善・提携を求め来るの日を待つたのである。
然るに頑冥不遜の国民政府は首都南京の陥落後も些かの反省の色なく、徒らに外国の援助を頼んで長期抗日に狂奔し、奥地の天険に立籠り、人民の塗炭の苦しみや国土の荒廃をも顧みず、敗兵を集結し新たに民兵の募集につとめ兵器の輸入をなし、依然として抗日の態勢を持してゐる有様である。茲において帝国政府は遂に断乎たる決意の下に去る一月十六月には「爾後国民政府を対手とせず」との重大声明を発表したのである。
即ち吾々は今や国民政府との和平交渉は一切之を断念し、専ら望みを新興の臨時政府に嘱して之が発展興隆に助力し、之を善隣の友邦へと育成して、以て東亜の道義的秩序の建設に邁進し、国民政府は之を徹底的に打倒殲滅するの決意を固めたのである。
支那南西の奥地は事実一大天険である。而も之にたて籠る国民政府に対して幾つかの強国が精神的、物質的に之が援助を続けるに於では之は中々侮る可からざる勢力と言ふ可きである。之を徹底的に殲滅して、新興政権を健かに育成し、真に各々がその処を得た東亜の和親・提携を実現して、その安定を確立せんが為には、我々も亦茲に固い長期戦の覚悟を定めねばならぬのである。これは現在帝国に課せられた重大なる課題である。我々は之が解決に全力を挙げねばならぬ。帝国にして今次事変の解決に成功するならば、東亜の和平はこれに依つて実現せられ、帝国の将来の盛運も実に刮目して見る可く、若し反対に之が解決に万一蹉跌するが如き事があるならば、東亜の天地は諸外国勢力の葛藤の修羅場となり、帝国の前途も亦思はざる悲運に陥るやも計り知れぬのである。実に目下の時局は我が全日本国民に未曾有の決意と覚悟とを要求してゐる。帝国が挙国一致の堅い結束の必要に迫られてゐること今日の如きは無いのである。
抑々此の度の事変は従来屡々その意義、目的について述べられた如く、帝国の行動は何等の侵略をも、何等の征服をも企図するものではない。世界の舞台に於て東亜の諸国が夫々今後自主独立而も共存共栄の国家生活を保持して永遠の福祉を確保せんが為、凡ゆる障害を除去すること以外に目的はないのである。
実にこれは我が国民に伝はる肇國以来の精神であつて、これ神武天皇の御即位の際の詔に於ける「八紘一宇」の大精神に外ならぬのである。即ち一国の内部は言はずもがな、普く世界の各国家各民族夫々その処を得、その志を伸ばし、夫々自立自存しつゝ相椅り相扶けて、永遠の生成発展を遂げしめ以て一家の如き藹々たる親和の精神を世界の隅々にまでも及ぼさんとするものである。即ち此の精神こそは現下の時局に当つて、我が帝国の行動を指導してゐる根本精神なのである。実に此の度の事変は、我が国が肇國の大理想を東亜に布き、延いては之を四海に普くする大業である。これこそは祖先の偉業を継承する我々現代の国民が採つて以て己が事業となし、鋭意これを成就する事に依つて祖先に報い、且は之を子孫に伝へる歴史的大事業である。これは我が全国民が戦地に在ると否とを間はず、真に一致協力して盡忠報國の実を挙げることに依つてのみ能く成就し得る所のものである。
盡忠報國は実に我が国民の輝かしき古来の伝統である。上に万世一系の天皇を戴き、万民心を併せ一体となつて之に奉仕するのが我が国民生活の根本特色である。抑々我が国民の間には古来国家に対立する個人といふが如き観念は曾て存しなかつた。国民の凡ては国家の「分」として自己を意識したのであり、「分」なるが故に常に国家に帰一することをその本来の務としたのである。夫々その「分を尽す」ことが即ち国家に帰一する方法であつた。現下の重大時局に直面して今日我々日本国民の採る可き道は、実に此の日本精神を体現することを措いて外にはないのである。これこそは真の国民精神総動員に外ならぬのである。
今次事変が勃発するや、此の麗しい日本精神は期ぜずして発揚せられ、戦線の将兵はいふまでもなく、普く銃後の国民の間にも幾多の波ぐましき美談の生まれつゝあることは洵に感激に堪へぬ所である。しかしながら茲に戒心す可きことは、明治以降旺んに輸入せられた西洋思想にして今なほ十分に醇化せられざるものがあるといふことである。かゝる思想の中には日本の過渡的時代に在つて夫々一個の発展的役割を演じたものもあるとはいへ、その本質には所詮日本精神とは相容れぬものがあるのであつて、今日に在つては大いに之が醇化に努力することこそ正に我々の使命であると言はねばならぬ。
此等の西洋思想は其の核心を突けば畢竟一の個人主義的人生観に発足するものである。即ちそれ等はいずれも個人なるものを以て何物にも依存せざる絶対独立自存の存在と観念し、之を根柢として一切を把握し理解しようとするのである。そしてかゝる個人こそは価値の尺度であり、それ自身至高の価値であつて、かゝる個人を充実し完成することが万人の最高義務であるとするのである。個人をこのやうに観念する以上、国家は最早個人を生み出す所の、個人を超えた主体的存在とは考へられなくなつて、たゞ単にかゝる個人の手段的結合に外ならぬものとせられ、国家の意義は専らかゝる個人に便し個人に奉仕する以外には存しなくなるであらう。既に国家がかくの如きものとすれば、個人は国家が自己に役立つ限り、自己に利益を与へる限りにおいてのみ之を擁護す可く、国家の前には之に対立する個人として出来るだけの自由や利益を主張することとなるであらう。之は畢竟個人といふ観念そのものに根本的な錯誤があるからである。その所謂個人は現実の世界に生きる真の具体的な人間の存在を遠く逸脱した全然抽象的な観念と言ふ可きである。現実の人間は夫々一個独立の人間でありつゝ、而も実は全体に依存し、他と連関し、それによつて初めてある所の存在である。それは国家に依つて生み出され、国家に担はれ、始めから国家の歴史伝統に依つて育成されるのである。
換言すれば個々の人間は本来国家といふ巨大な生命の一環としてのみ存立するのである。それは時間的歴史的に之を見れば、肇國以来の代々の祖先より受け継いだものを、無限の未来に延びて行く子々孫々へと仲介発展せしむる一生命点であり、之を横に空間的に見れば幾千万の同胞生命を繋ぐ一連結点に外ならぬのである。
かくの如きが実に人間の具体的な姿である。人間をそのやうに把握するならば最早之を絶対独立の個人として一切の根柢とし、最高の価値として一切の上に立てることの如何に誤りであるかが明瞭である。むしろ個人は国家といふ大生命の一分身として此の大生命に奉仕し、私を捨てて国家に生き、国家の大生命に帰一することに依つてこそ宏大なる価値に参与するものである。即ち我が国民としては、一身を献げて肇國以来の御稜威に生きることこそ最も貴き生活であつて、これこそは古来我が国民の最もよく体現し来つた道に外ならぬのである。
かゝる盡忠報國の精神は個人本位の西洋思想に囚はれたる考への人々にとっては全くの自己喪失として観念されるであらう。しかし実はそこに喪失されるのは極めて小さな己であつて、その小なる自己に死することに依つて却つて人は己の本来の姿たる大なる我に生れ、其処に大自由の欣喜に満ちた博大な生活と無限の力とを味はふのである。このやうな境地から振返つて見る時、小さな個人を主張する生活といふものが如何に貧しく無価値なものと見えることであらうか。今次の事変に於て砲煙弾雨下に一身を投げ出し、異常なる困苦欠乏に堪へつゝ只管皇國の為に戦つてゐる将卒の一様の感激は、実にかくの如き大我を経験する生活の感激であるといふ可きであらう。実に銃後の国民の務は、戦場の将兵に劣らず此の偉大なる伝統の精神を体現して夫々その職に応じて君に尽し国に報いることにあるのである。かくてこそ初めて真に国民精神総動員は成就せられるであらう。
今や我等は相共に挙国一致、盡忠報國、以て日本精神を世界に昂揚し、普く人類をして御稜威に光被せしめねばならぬ。