第六四号(昭一三・一・五)
 宮中の新年    宮内省
 事変下の新年に際して   近衛内閣総理大臣
 事変半歳の回顧       陸軍省新聞班 海軍省海軍軍事普及部
 長江三千浬           海軍省海軍軍事普及部
 昭和十二年の国際政局回顧(上)   外務省情報部
 付録 支那事変戦闘経過要因

昭和十二年の国際政局回顧(上)
                    外務省情報部

   1 はしがき

 昭和十二年の国際事情は、極東に於ては前年
末に於て国交調整交渉の決裂を見た日支関係
が、西安事変に於て国民政府と共産党との間に
妥協成立して以来、抗日の気勢高まると共に俄
然悪化し遂に蘆溝橋事変の勃発を見るに至り、
又日蘇関係に於ては漁業問題の紛糾、邦人圧迫
事件等相次いで起り、日蘇間の空気は依然円満
を欠いてゐたが、満蘇国境に於ける蘇独邦側の
不法侵入の結果は乾岔子事件の発生を見るに至
つた。而も張鼓峰事件は支那側の挑発抗戦によ
つて、全面的な日支両軍の衝突にまで拡大発
展し、之に坪つて支那を繞る列強諸国との外交
関係は頗る複雑微妙となり、聯盟会議、九国条
約国会議等、種々なる波瀾を生するに至つたの
である。
 欧州に於ては、前年から持ち越されたスペイ
ン問題を繞つて、英仏蘇対独伊の対立は愈々深
刻となり、地中海問題の紛糾を見る等、重大な
情勢を生じたのであつたが、フランコ軍が漸次
優勢を示すに及んで、各国のフランコ政権承認
となり、スペイン問題もやうやく終末に近づい
たのである。尚ほ、スペイン問題及び独伊ベル
リン=ローマ枢軸の強化等に依つて危機に瀕せ
る欧州平和の再建運動が、英仏を中心として行
はれたが、イタリーの日独防共協定への参加及
び聯盟脱退によつて、欧州の国際政局は益々波
瀾を生ぜんとして居るのである。

  2 支那事変の発展

 七月七日、北京郊外蘆溝橋に於て勃発した支
那第二十九軍の不法射撃事件は、多年国民政府
及び共産党の指導の下に養成され来つたところ
の抗日意織の爆発であつた。而して蘆溝橋事件
の善後処置、事態の収拾に対して帝国政府は専
ら事件の不拡大、現地解決に努力したのである
が、支那側の挑戦不信行為は帝国放府の此の解
決策を不可能ならしめ、北支に於ける戦局は漸
次拡大し、而も全文に亙る抗日の激化は在留邦
人の全面的引揚げを余儀なくせしめるに至つ
た。
 然るに八月九日、上海に於て大山大尉殺害事
件が勃発するに及び、予ねて前同の上海事轡に
於ける停戦協定を無税して配備せられて居た康
郷たる竜郷軍は、上海租界を包陶して築造せら
れて居た竪聞なる陣地を根撮として、我が障数
               々つくわい
隊の轡僻の手薄に釆じて租界準岡を企倒し、猛
烈な態撃を試みセのであつた。故に於て、帝図
政府も在留邦人の生命財産保護の一馬に断乎檜
兵に決すると舛に、全支に於ける抗日慣懲の
篤、皇軍は果敢なる軍事行動を開始するに至つ
た。
 斯くて北東に於ては京繚、京準津浦の三線
に滑うて進取Tを】開始せる皇革は、至るところに
於て大聯を博し、十月末には早くも茸河以北を
大略平定したのであるが、−方上海方南に於て
も十月末上海を陥れ、更に虜廃して十二月十三
日には逮に首都南京を攻略したのであつた。而
も皇軍の占繰によつて抗日勢力の一帯せられた
各地に於ては、綬々として治安鰊持合等の成立
を見、やがて察恰爾及び練達に於ては皿璽Tロ自治
共和政府が成立し、叉北京に於ては中国臨時政
府の能生をさへ見るに至り、何れも国民政時と
分離して、続日なき赤化なきや御郷建設へと向
つて復興の歩を進めつ1あるのである。
                      ●ぐ
 而して戦局の薇畏に件つて、支耶を繰る各圃
の動きは惰る腹耗を極め、林立不簡略条約の▲締
                    しlで■ツ
結を和め英蘇の支那壕助が朔に俸へられ、馬に
日敬、日英間の客観は騙る悪化し、叉。ハネー軟事
件及び英艦砲撃事件、英大使負傷事件等の偶餐
的事件の敬生に依つて、日米、日英間に困難な
外」欠問題を著起する筆立邪事轡を繰る図際関
係は種人波瀾を見せて居るのである。



ニ・


】押

■政

畑】

  乱 普及び九囲嘉と列或の動向
                      ▲−■
 支那事変起るや、図民政府は凡ゆる手段を重
して列願の竣助む懇願し、第三国の調停干渉を
誘致すべく狂奔したが、九月に重り壌ねて停へ
られて居た様に、囲際聯盟に対して提訴した。
研盟は直ちに之を取り上げて二十三園委員曾に
               一,‘い
附鵠し、帝国に対して参加を招請したが、勿論
帝園は参加を拒絶した。故に於て聯盟合議は
日本に対し九開催約及び不戦条約建反の決議を
裸樺し、九簡便約紺係国合議相集を決熟したの
である。
 而も此の聯盟組合の決議に相呼應して、米国
大統領は日本に対する非難的演詮を試み、国蹄
省は九国条約及び不戦倹約撞反を断定した隼明
曹我家した。故に於て九飼条約合議への英米
発同工作が行はれ、十月末、自国プラッセルに
於て九周倹約関係瞬曾熊が拍集されることとな
り、帝国に対しても招請を卑したのであるが、
帝何故府の再度の拒海に俵つて甘執は無意味と
な少、市もドイツの…告仰挺親及びイタy−の日
奉安持等の薦舎熊は全然迫力を炊き、結局各周
の責任河港の態度に依つて合議は全く混乱に
             , ヽ
陥り、有耶無耶の裡に消滅してしまつたのであ
る●
 聯盟及び九囲曾識に於ける鮭挿に見られる如
く、支那事変に対する列国の態度は、六年前の
               かく‘い
浦洲事変の常時に此して全く隔世の感があり、
如何に国際情勢が共の後忠激なる奨化を来して
     ,山ヾ
居るかゞ窺はれる。
 射ち、浦洲事変の常時には、米国が対日干渉
  一”,
の先鋒であり、英国が渦極的な態度を示して居
り、瀾伊の両国も二十三樹委員曾の→員として
対日決議に参加して居たのであつた。然るに今
次の事変に於ては、米囲は駿正なる中立政策を
堅持し、英圃が対日干渉の主動者たるが如き態
度を示して居るのであり、狗伊南園は絶対的に
日本を支持して居る。
 如ち米飼は、事変の首初ハル国持長官の牽明
に於て日立事件に無抑心たるを待なレとの意向
を表明したが、英国の対日共同調停工作に対し
    小▲九ん
ては之に加推しなかつたのである。而も国内に

榊一



一ヽ
」′

川【

中立法適用む委求する斐が盛であるにも拘ら
     。汀ん
す、政府は厳として中立政策を維持し、飽く進
も日支紛争に捲き込まれることを避けんとして
溜り、驚写鵠の対日決講に呼應して九伺候約
河合餓への積極的態度を示したが、忽ちにして
中流耗特に後節し、依然として紛争不介入の態
度を績けて居るのである。。ハネー故事件に就て
も、英米共同の対日示威に対して棲めて冷淡な
る熊度む示して居ると報ぜちれて居る。
 英幽は事件の常初日支粥河に対して調停的
の意向む表明したのであつたが、帝囲が第三国
介入根絶の態度を明らかにしたので、更に米嫡
を初め各嘲を誘つて対日兆同工作を企周し、研
盟曾訊及び九開合議を指導したが、聯盟合議及
び九周曾払共[失敗に挿し、対日炎同工作の企
師は全く裏切られるに五つた。併し、英娼の政
策は依然として英米地溝、列拘共同工作に在り、
。ハネー故事件汝びに英艦砲撃事件が起るに及ん
で、忽ち英米捷凍対日鶉同示威のエ作が進めら
れつ1あることが報ぜられて居る。
・蘇聯邦の支那支持は、薄介石の長期統日作戦、
■_′ヽ●一’
珂共合作の強化等に依つても窺はれ、更に蘇
支不侵略条約の我家に依つてそれが重曹きされ
るものであること、既に周知の洩りである。何
ほ独伊の対日支持は別として、俳拘共の他の各
国は大偲に於て支那に射する利審の厚薄に鹿じ
て、叉英米蘇弼伊等の列強との関係に徒つて、
夫々の態度を示して居るのであるが、何れも日
東掛率に介入することを擬けんとして居ること
が親はれるのである。

  九 日朽伊三国協定の成立

 十一月六日、恰もプヲッセルに於て九開催約
南合議の最中、突如として焚表された日独伊三
                               し−●l
園防共協定の成立は、世界の外交界に大なる衝
 ▲汀●
革を輿へたのであつた。此の三岡協史は、一昨
年十一月二十五日に締結された日独防共協定に
イタy−が原締結閲として加盟したものであつ
て、之に依つて欺洲亜細舶を耳く大防炎陣が完
成せられ、コミソテルソの赤化工作に対し、又
人民戦線況の反日猫伊エ作に射して、非常な底
力を示すものと云はねばならね。
椚叩

H
】−
■件

“圃







′\
舶一
 而もスペイソ動乱がコミソテルソの赤化工作
の−つの現はれであることが、それが今日欧洲
の大問題にまで黎展した理由であるが、更に支
那事挙が同じくコミソテルソの東亜挽乳工作に
塞くものなることが既に常識化された事柄であ
         †か山
る以上、東西帝大陸に捲る日独伊三園の防共
協定は、箇然此の二つの赤化動乱に対するlニ掲
工作の提携を窓味するものに外ならないのであ
つて、故に三岡協定の重大なる意義があり、各
閲に衝撃を輿へた所以があるのである。
 雨して三樹協兜成立の結典として硯はれたも
のが牽閥のフラyコ政川確の承認であり、h浦洲図
とフラyコ政権との相互承認であり、吏にイタ
y−の国際聯盟胎温であつた。如ち帝園政府は
十二月−日を以て、フランコ政権をスペイγ堵
の正式政府として承認し、又浦洲国とフラyコ
政碓とは、十二月二日相互承認を交換した。次
いでイタy−は十二月十一月正式に南際仙切盟
晩温を教表して、浦洲事筆に於ける日本及び再
軍備間額に対するドイツと同様に、‡チオピア
間者に押する対芸係の矛盾皇椚井したので
あつた。

  丸 乾杏子‡件と漁業条絶間題

 独蘇国境に於ける蘇聯邦例の魅境傑入忠ハの他
の不法事件は最紀に至つて益モ増加し、駒境間堰
の重大化が伝へられたのであるが、六月十九日
以来、異能江の黒河下流の滴洲囲萌の乾金子島
及び金阿穆河島に蘇挙が不故に鶴境侵入し来
り、陣地を構築し初めたので、同鳥附紀の守備
               t し
に常つて居た日満軍は之を阻止する一馬に蘇単に・
反撃を加へ、途に蘇砲艦を撃沈するに至つた。
 山併し乍ら常時蘇聯邦一円部が赤軍清荷車件の一軍
     く」Vも●l′
不安勤務の渦中にあつた故か、砲艦撃沈によつ
て一時緊張を見せた乾女子事件も、蘇軍の撒温
により事なきを得たのである。
 而も共の後旬日を出でずして麓溝椿事件が勃
教し、簸に支部事筆の展開と見るに室つたので
あちが、蘇聯例の支那支持に由つて日蕎係は
益−亀化の傾向を辿り、満蘇国境に働ける掛率術
                         ひ▲_
突は日沸軍の厳重な替或に俵つて其の後影せ潜
めた隻であるがへ滴潮或は北挿太を初めとし

小山



一ヽ
」′

川【

中立法適用む婁求する斐が盛であるにも拘ら
     。汀ん
ず、政府は厳として中立政策を維持し、飽く進
も日支紛争に瑞き込まれることを避けんとして
溜り、聯盟曾鵠の対日決議に呼應して九圃条約
河合議への積極的態度をニポしたが、忽ちにして
中流堆特に後節し、依然として紛争不介入の態
度を績けて居るのである。。ハネー洗車件に就て
も、英米共同の対日示威に対して極めて冷淡な
ろ熊鹿む示して居ると報ぜちれて居る。
 英幽は事件の常初日支納尚に対して調停的
の意向む表明したのであつたが、帝囲が第三堵
介入絶絶の態度を明らかにしたので、更に米嫡
を初め各槻を誘つて対日兆同工作を企独し、研
盟曾訊及び九開合議を指導したが、聯盟曾鵠及
び九周曾鶏共[失敗に挿し、対日井同工作の企
師は全く裏切られるに五つた。併し、英娼の政
策は依然として英米地溝、列糊共同エ作に在り、
。ハネー故事伸也びに英艦砲撃事件が起るに及ん
で、忽ち英米捷凍対日米同示威の工作が進めら
れつ1あることが報ぜられて居る。
・蘇聯邦の支那支持は、薄介石の長期統日作戦、
▲こ71−●一 ’
国共合作の強化等に依つても窺はれ、更に蘇
支不侵略条約の我家に依つてそれが姦書きされ
るものであること、既に周知の漁りである。何
ほ独伊の対日支持は別として、俳拘其の他の各
国は大横に於て支部に射する利審の厚蒋に應じ
て、又英米蘇弼伊等の列強との関係に徒つて、
夫人の態度を示して居るのであるが、何れも日
東掛率に介入することを滋けんとして居ること
が親はれるのである。

  九 日璃伊三可協定の成立

 十一月六日、恰もプヲッセルに於て九開条約
国合議の最中、突如として衆表された日独伊三
                               し・■l
園防共協定の成立は、世界の外交界に大なる衝
 ▲汀●
革を輿へたのであつた。此の三岡協定は、一昨
年十】月二十五日に締結された日独防共協史に
イタy−が原締結閲として加盟したものであつ
て、之に依つて欧洲亜細部を耳く大防炎陣が完
成せられ、コミソテルソの赤化工作に対し、又
人民戦線溌の反日猫伊エ作に射して、非常な底
力を示すものと云はねばならぬ。



H
】−
■件

仙抑






′\

 而もスペイソ動乱がコミソテルソの赤化工作
の−つの現はれであることが、それが今日欧洲
の大問題にまで教展した瀾由であるが、更に支
那事挙が同じくコミソテルソの東亜挽乱工作に
基くものなることが既に常識化された事柄であ
         †かが
る以上、東西両大陸に跨る日独伊三園の防共
協定は、箇然此の二つの赤化動乱に対する三図
工作の捉携を意味するものに外ならないのであ
つて、故に三岡協定の重大なる意・轟があり、各
図に衝撃を輿へた所以があるのである。
 雨して三樹協定成立の結典として硯はれたも
のが帝佃糊のフラyコ政仙確の承認であり、浦洲図
とフランコ政権との相互承認であり、史にイク
y−の国際聯盟胎温であつた。如ち帝園政府は
十二月一日を以て、フラyコ政権をスペイγ国
の正式政府として承認し、又浦洲尉とフラyコ
政雄とは、十二月二日相互承認を交換した。次
いでイタy−は十二月十一月正式に南際塀盟
眈温を教表して、浦洲事牽に於ける日本及び再
軍備糊額に対するドイツと同様に、エチオピア
間者に押する対薫係の矛盾を済井したので
あつた。

  丸 乾杏子‡件と漁業条約問題

 独蘇嫡境に於ける蘇聯邦例の也墳傑入其の他
の不法事件は最近に至つて益モ増加し、朗墳同額
の重大化が伝へられたのであるが、六月十九日
以▲準、異能江の黒河下流の滴洲囲萌の乾金子島
及び金阿穆河為に蘇挙が不故に‖域墳侵入し来
り、陣地を構築し初めたので、同鳥附近の替備
               ■I し
に常つて居た日満軍は之を阻止する一馬に蘇単に・
反撃を加へ、遽に蘇砲艦を撃沈するに至つた。
…併し乍ら常時蘇聯邦内部が赤軍清荷車件の一等
     く」Vも11′
不安勤務の渦中にあつた故か、砲艦撃沈によつ
てl時緊張を見せた乾女子事件も、蘇軍の澄
により事なきを得たのである。
 而も共の後旬日を出でずして麓溝横手件が勃
敬し、速に支部事変の展開を見るに室つたので
あるが、蘇聯例の支那支持に由つて日藷係は
益†亀化の傾向を辿り、満蘇崩壊に簡ける掛率衝
                         ひ一−
突は日沸革の厳重な教義に俵つて其の後影七潜
めた獲であるがへ滴潮或は北樺太を初めとし

榊一



一ヽ
一′

Zq

中立法適用む委求する斐が盛であるにも拘ら
     けん
ず、政府は腋として中立政策を維持し、飽く進
も日支紛争に稀き込まれることを避けんとして
周り、鬱盟曾譲の対日決議に呼應して九開催約
同音議への横磯的態度を示したが、忽ちにして
中文雄特に複挿し、依然として紛争不介入の態
度を続けて居るのである。。ハネー城事件に就て
も、英米共同の対日示威に対して極めて冷淡な
ろ熊度を示して居ると報ぜちれて居る。
 英幽は事件の常初日支輔弼に対して調停的
の意向を表明したのであつたが、帝図が第三粥
介入根絶の態度を明らかにしたので、更に米飼
を初め各哺を誘つて対日北岡工作を企蹄し、塀
盟曾訊及び九朗合議を指郷したが、聯盟曾鵠及
び九璃曾鶏共[失敗に挿し、対日米同工作の企
呵は全く其切られるに五つた。併し、英閲の政
策は依然として茶米鴇携、列閑共同工作に凝り、
。ハネー祝事件放びに英艦砲撃事件が起るに及ん
で、忽ち英米捷携対日共同示威の工作が進めら
れつ1あることが報ぜられて居ろ。
。蘇塀邦の支那支持は、薄介石の長期抗日作戦、
■ヽく●一l
珂共合作の強化等に依つても親はれ、更に蘇
支不侵略条約の教真に依つてそれが其書きされ
るものであること、既に周知の洩りである。・伺
ほ独伊の対日立稗は別として、俳粥其の他の各
周は大場に於て支那に対する利審の停滞に鹿じ
て、又英米蘇弼伊等の列強との関係に従つて、
夫々の態度を示して屠るのであるが、何れも日
東掛率に介入することを避けんとして居ること
が親はれるのである。

  九 日珂伊三申協定の成立

 十一月六日、恰もブタッセルに於て九開催約
聞合鵠の最中、爽卿として衆表された日独伊三
                            し・◆,
国防共協定の成立は、世界の外交界に大なる衝
 け●
黎を輿へたのであつた。此の三岡協定は、−咋
年十一月二十五日に締結された日独防共協定に
イタy−が原仙椰結団として加盟したものであつ
て、之に依つて欧洲亜細舶を耳く大防炎陣が完
成せられ、コミソテルソの赤化工作に対し、叉
人民戦線況の反日独伊工作に対して、非常な威
力を示すものと云はねばならぬ。


H
】 】
舛・

−椎







舶−
 而もスペイy動乱がコミソテルソの赤化工作
の−つの硯はれであることが、それが今日眈洲
の大問題にまで額属した理由であるが、更に支
那事牽が同じくコミソテルソの東亜挽軋工作に
基くものなることが既に常教化された事柄であ
                   †か山
る以上、東西南大陸に跨る日独伊三園の防共
協定は、常然此の二つの赤化動乱に対す左二二図
工作の提携を窓味するものに外ならないのであ
つて、故に三周協定の重大なる意義があり、各
謝に衝撃を輿へた所以があるのである。
 雨して三娼協定成立の結典として現はれたも
のが帝堵のフランコ政権の承認であり、滴洲堵
とフランコ政権との相互承認であり、更にイタ
y−の閲際聯盟舵温であつた。釦ち帝囲政府は
十二月一日を以て、フランコ政稚をスペイソ堵
の正式政府として承認し、又▲清洲繍とフランコ
政稚とは、十二月二日相互承認を交換した。次
いでイタy−は十二月十一月正式に靖際研盟
眈浪姦表して、満洲事牽に於ける日本及び再
軍備間額に対するドイツと岡林に、エチオピア
同席に押する対芸係の矛盾を済算したので


あつた。

  丸 乾啓子‡件と漁業条約問題

 独蘇媚境に於ける蘇聯邦側の抵墳俊入共の他
の不法事件は最娃に至つて益モ均加し、朗墳岡垣
の重大化が伝へられたのであるが、六月十九日
以来、異能江の黒河下流の満洲国領の乾金子島
及び金阿穆河島に蘇軍が不法に鶴境侵入し来
り、陣地を構築し初めたので、同鳥附紀の替備
               ●I し
に首つて居た日満軍は之を阻止する馬に蘇単に
反撃を加へ、途に蘇砲艦を撃沈するに至つた。
 併し乍ら常時蘇聯邦内部が・赤軍清荷車件の▲耳
     く・セt−▲▼●・
不安動終の渦中にあつた故か、砲艦撃沈によつ
て−時緊張を見せた乾女子事件も、蘇軍の撒温
により事なきを得たのである。
 而も井の後旬日を出でずして並溝椿事件が勃
敬し、蓮に東郷事変の展開を見るに室つたので
あるが、蘇聯側の支那支持に由つて日蘇贈係は
益。亀化の傾向を辿り、蒲蘇単境に潜ける紛争術
                         ひ●
粂は日沸軍の膿重な替戎に依つて其の後影甘潜
めた止慎棟であるが、滴潮或は北樺太を初めとし

                      こく九つ
 て、全蘇に亙る邦人虐待事件等は愈亡酷烈とな
 り、全面的な反日態度は益そ蕗骨化して爽たの
 である。
 節へに漁業条約問題に榊しては、一昨年末既に
 基本条約に舵きキスコウ政府との間に成案を得
 て調印を侠つばかりの状態であつたにも拘ら
 ず、蘇聯は日独防北ハ協定の後家と共に全然共の
 婚度を一変し、調印を回避するに至つた。仇て
 耽が政府は蘇塀側と折衝の結氷鷹怠の柁法とし
 て、眈存条約の放力を一節年間延衣することと
 し、・苧くも一時を糊鎗したのである。
 本年に入るや、簡閲政府は直ちに改訂条約に
 伽仰する交渉を山開始したが、モスコウ政府は椀々
 の口賓を構へて交渉の促進を回避し、暫定取極
 めの期間の轟きんとする年末に迫るも依然とし
 て交渉を湿延せしめんとするが如き極めて誠意
 なき態度を示しっ1ある。之に対し外務省は典
 にh井の経過を敢表してキスコク政府の反省を促
 すところがあつたが、斯くの如き事態は日林間
 の客気を益と瞼悪に導く桝以であつて、甚だ遭憾
 とせ♪喝を得ないのである。

 而も上越の如く、支那事変に於ける薄介石の
長期杭H作戦に関連して、国共合作の強化、蘇
聯邦の支那援助の積極化が頻†と伸箋⊥
ある審等に鑑み、更にスペイン人民戦線液援
助の打ち切りは、蘇聯の極東に対する関心の増
加に阿り飛行横、飛行士等の供給を不可能なら
しめたといふ理由に基くものであると報ぜられ
て居ること等と対肘して見れば、今後に於ける
蘇聯邦の動向は、帖岬る注目すべきもの主調はな
ければならぬ。