第六四号(昭一三・一・五)
宮中の新年 宮内省
事変下の新年に際して 近衛内閣総理大臣
事変半歳の回顧 陸軍省新聞班 海軍省海軍軍事普及部
長江三千浬 海軍省海軍軍事普及部
昭和十二年の国際政局回顧(上) 外務省情報部
付録 支那事変戦闘経過要因
事攣牛歳の回顧
−事攣の優生と経一週の概要−
陸 軍 省 新 開 斑へ
海軍省海軍軍事普及部
一ん・く
窪都十年の夢を包み、西安事件後救開の英堆となつた蒋介右があわたどしい民凶二十六年(昭和十二年)の正月を配した
南京が、昭和十二年十二月十三日に陥落すると維が預想し得たであらうか.南京陥落の報籍はるや全日本の教書と共有は
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鞭行列捷汀行列となつて金団に渦を巻いた.苗歳の輩は教場の第一線に轟けと絶叫された.萬歳の革の裡に耗多の之に
唱和し得ない雷の英亜のあることを想ひつ\老中歳の跡を倒鞘して次に来るべき曹人の指轢を朗らかにすろことが
斯陽辟祀の年嘲最大の関心串であらねばならぬ.
ほつ▲tん
−事奨の額棉よ廿二十九軍の席態戦迄
昭和十〓年七月七日夜忙放ける武井椿事件は今次支
部事襲直壊の琴火線となつた..我軍は東亜の半和日支
捷携の大局的見地より、現地解決、不瑞大方針の下≠
飽く違和半解決の熊度を以て、骨ぐるに公正なる統払
を以てし求むるに彼が冷藤なる反省を以てしたが、彼
虻爾後h雫挑戦的行為に出で、帯締換、南瓜巧劉時の
諸軍は保党、汝州忙壌中、且つ中央革の北上寸る専事
態急迫せるに箆み、政府は十−日北支流兵の事に閑散
−決、十五日内地より】部の兵力を晩鐘すべき旨の陸
軍省蚤表を見る紅玉つた.′帝国海軍は時局の五大性に
鑑み、壌て替備上多大の苦心を沸へる、中支及南東方
南渡波部験に封し、事件波及防止上、常務算触きを刺
せしむると井に、】方獣々として所要の準備を盤へつ
つ、滴を拝して待増し、共の使勢なる海軍力を以て澱
として新港及支那海を制度し、】部を以て北支方面の
陸軍に協力して活動した.
●l・つ
他方支那駐屯軍は極力不撲大の方針を碓し、架察主
鵬部と折衝に努め協定鼻健実の調印を見たが状況は依
然綬和せず、〓十五日忙は鵠自忠地下の第三十人師に
丸い
ょろ郎坊事件を見、〓十七日には庚安門事件の暴庚を
款てするに至つた.隠忍自重も限りあり、今や状況良
い■ラ・一
に温迫一瞬の冷淡を許さゞるに王つたので、故に断乎
礪自の行動忙出づるに決し、二十入日早蹄より北支駐
屯軍及川岸部隊を以て北京南側地直の敵を、又酒井、
鈴木雨兵囲を以て北京地方地世の敵を挿話し、三十日
蛍忙敵を良郷以南に♯温した.海軍は、また、井の盤
▲l■_
醗の−部を以て、腋要る替或の下に、陸軍部族数次
l・ん r−
の橡迭掩種に任じ、宛も湖沼轟る如く橡途上何等の
支持なからしめ、軍の行動を支援すると共に、一部を
′1・●′
以て太治方南の砲撃に任じ、陸軍部隊に協力して同方
面の支那兵を揃嘩白河の水路を確保した.
ニ 察吟廿明方画
しん
支那駐屯革は京薄地方の昇二十九軍を材慾の後、一
部を以て北京の西南蔓草秋定河右岸にある長辛店を占
壊し、共の他を以て京津地方の敗壌兵を掃蕩して支部
例の自省自戒を期待した.然るに支郵例は依然梅津、
じl・’ん
何應欽協定を鉄鋼して京漢、津浦南嬢方面に益モ中央
軍を北上せしめ、張衆口、綴速、察恰爾の一帯に放ては
土肥原、秦徳純協党を無税して大兵を進め、「塵坪地方
の側背を脅威し浦洲団塊を揖乱せんとする勢を示し
て●
た.此を以て八月十五日政府は遽に不横大方針を一体
し積極的に彼を徹底僻懲し共の統日意識を根絶すべく
断乎奮起するに王つた.
支那中央零は京準津浦雨線上り兵力を北上せしめ
l−Iかい
態海錬造の北方に約五十萬の兵力を集中、更に北京の
西北方にある南口から張京口附並の地慣に約入僻帥の
‡験を集結し、その一触が南口に頭を出して我革の側
背を各威するの態勢七示した.別に幹兵と主髄とする
約四高の敢は内青忙偉人し張北は頗る危瞼の状態に絶
つた.裁忙放て我軍は先づ南口附近の敵む袈逐するに
映し、八月下旬強製を以て長城線の難馳、居庸昭八
津磯の喩を突破した.
別に関東軍の新銃は速く勲河方南から多倫を経て張
衆口を軌き、二十七日速忙張衆口を占梯し敵の背後を
墟断した.敗走の敵は大同釆北方の陽高から暢原を絶
て府州の線に陣地を占領したので、我寄は直ちに溌繰
線及懐郷−蔚州方面より念埠九月中旬墳迄に察喩裔
省内より敵を一帯した.
三 揺遠山西方面
‖し′▼い
爾来九月下旬より十月上旬に亙る間忙放て、我が朝
川ん}∫ ● 小
除比内常軍を竣けて按遁附近に輔排せる倖作俵の艶下
約五、六師の敵軍む改革し、十二日之をぜ捜し、弟一
線は北方より協力した斉盲軍と弗忙十七日眈忙包頚を
略し、速く五原及オルース沙漠を抑況して北支忙封す
る・赤化線を▲濃断する偉数を収めたのである.
山西方面にあつては、内長城線の里畔を南守する山
西、共産爾軍の十数個師に封し九月二十三、四日嘆よ
わ作戦を開始し、大昔銀、‥繋時方面を・突破して山西モ
ソロー主演の−角を突き崩し太原に進辛して太原北方
●ん
の折口銀の蛾壁陣にカ攻、死闘‡に三週間に及んだ.
此の関山西の東方難攻不落の娘子閲を放いた部族と相
呼應して十一月三日明治仙即の‖佳日に逢に折口銑を奪
取、敵を南方に急追し太庶政辛に放てはや和裡に開域
、ん’h}
働昔の飴裕を見せて日本武士邁の片酢を示し、十月九
日之を攻略、普面の山西、中央、共産の故二十五苫を
J、」Vい
山地内に沸立せしめ皇戚は山西省の山間僻村に進水ふ
に五つた.
四 董払方育
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永定河右岸の故忙対して轟政府渡河し、故井なる
▲包単作私宅以て薮州に破滅的打牛を典へ止肌尭の敵を急
弘.九月二十四日、敵が牛年の持久を素斉した保定
義き、十万十日又も弥陀河の敵前渡河に葬衝石真正
一・か一,
を政♯、子牙河を逝舵した苦粍の水上部隊が側背を脅
威したのと相呼厳して之を攻略.東忙鉄路を甫進 十
】月四日には河南省北部の要地彰徳を確保した.爾後
線路東側の朗訝中間地帯の血糊清に多大の辛苦を沸ひつ
天
浄
市
畑
血−
の
搬
一向
足
耗
」れソ
つあつたが、概ね治安の同夜を見るに至つた.
五 ♯油叩枚方苛
一でい▲−い.▼l′一−く
此の方面に放ては取壊−帝洪水の一号泥渾沌薄と化
し、水深拘を捜する困苦を官し、八月〓十〓日前進と
開始し二十四日辞埠九月四日庸官屯、十一日には馬
瀬の瞼を陥れ、漁州の宰衝を保定と同日の二十四日に
攻略して何も急柏唱十月三日徳州を格れ敗頭兵を序沸
しっ1十一月中旬逸に夢にまで見た黄河の流れに日章
1・つ
凍を映し、済南の峯、戟賃頓に濃くなるに至つた.
ち一lや∫ 一I◆●l
息へば北支の戦局は重農の山岳故に、手傷の山佳
人▲●J一
哉に、濁水破り泥挿属肱を捜する平原の攻防に、常忙
神速耗快の横動作戦に終始した.・琴壕食も補給は
てい
常に過れ膠だつたが、錬蹄の普く併、軍靴の晋を開く
併、敵は常に竪陣忙立ち直る暇がなかつたのである.
犬 上海方面
帝国海軍は事襲を中浦支に波及せしめざる横長も快
重なる鮮度を拝し警備任務逸行に苫金を期して居つた
しlウ
が、支那側の紋日反日的行為は日を狙うて蛾烈とな
り、第二の洩州事件の教生を憂慮せられたると、事費
の仝支汲及さへ竣想せらろ1事態に立到つた為政府は
故に長江筋在留邦人を引揚げさせる事に決定、長江
替備の艦艇を以て之等を護逢しり1、途中支那飛行
機及砲基等の挑戦的示威の串忙X廠藤井の任凝を全
うして、∧月九臥▲埠に全部の引鴇を山野丁した.一方支
■モん汀ん
邪軍は我穏健瀬る態度に盆、増長して、上海租界方面
に鎌々正規軍を集中、防架エ事を念ぎ、かくて上海方
面の客気は日埠晦緊迫を加へつ1あつたがへ∧月九日
夜の大山事件で事態愈、重大化し、逢に八月十三日以
灯1′丸い
水葬庚な支那軍の間断なき不虐政撃を蒙り、十四日に
は井の精鋭なる飛行機数十概の爆撃を受くるに至つ
た.故に於て、膵忍自重、ひたすら事件不撰大の方針
に進みつ1あつた帝国海軍も、敢然暴戻支那軍を階懲
するに決意し、十四日を期して浣風迅雷む行動を開始
くわ、い ▲け−せは
した.即ち陸戦隊は寡兵上く十数値の敵を撃破して租
界の防備に濱進し、統峯隊は折柄支那海上に彷得せる
七〓○粍の勒風七突破して、舵亮戦史土管て見ぎを渡
洋埠♯を敢行、杭州1鹿徳を始め敵の首都南京、南昌
等の蛮声根棟地を丼ふて∵敵舵婁橡活動の本薗を封
鞋.新郷鶉づ制峯碓の痩欝任転〓万我艦除は江上
及海上に漁籍して、堂オ陸戟及舵轟部隊の進出を支我
した.慨忙放て垂費は中立巾帝忙波及するとととなり
陸軍部隊の液管見るに五つたが、その先頭部株は八
月二十三B未明海軍の緊票敢な協同動作の下忙川彗丁
ぐ.セん
江下流及臭准附近に敵前上陸を敢行、江岸に操る頑敵
地に上海周凌の優勢な敵忙向ひ池宰し、その後逐一婆到
・花.つ一
著する部隊を併せ、海軍との鴻切な協同の下に相▲携へ
て奮戦力闘、八月二十八日には】報店銀、同三十一日に
は奥…准銘、九月→日には獅子林砲茎を占撮した.
上栴附近一帯は網の日の如きク.サーク及無数の下−
たん小い
チカ、掩党禎閑銃塵の設備を骨幹とする迂代的要塞
地帯を形墟し、守る支那軍もその訓練に放て叉蓋
成に放て優秀を誇る蒋介有直系の豊明中央軍で、その
兵力も亦悦る多く、粛→繰附乾丈でも五十萬、後方を
合許すれば約入十常の多きに逢する程であつた.
し・サムつ“小
我軍は此の敵及陣地む一歩一歩乳渡しに♯破しっ▲
前進し、東l線は羅店鋸南方白壁兵脅及勒象行東南方
王丸饉の敵陣忙阻止せられたが、九月二十三日此等の
小l
・時地を爽破するや戦線ぼ約−管¢捗著堺確から俄点
樽換して、†月上旬概ね劇河鉄、華南翔、大事餅
及江渦鍋直前の陣地忙肉薄した.
一方海軍陣取陳は、絃始困難なる市術戟忙、不眠不
休の爾嗣を鞭け、連日確烈なる敵の攻弊及婁爆の中に
敢然租界の防備を全うし、陸軍部隊の進出と歩調を合
せて租界周囲の敵を逐次撃破しっ1、歩一考堅塵を
死守せる敵を那迫した.
又常島及南東方面事態の悪化に鑑み八月中旬より速
攻居倒民の引揚を授け弊傭上萬仝を姦したのである.
七 支部滑津の交漁港斯と海軍続垂降の簿招
。川んl・い
帝閑海軍は、支那の敢闘力を減投して事態を速かに
▲ヽ′ヽ
終娘せしむる食、八月二十五日から挽子江口以南、弼
州、虜門、糾頭に亙る支那滑岸一帯を、支那の公私船
舶に封して共の池舵を速断することに決したが、九月
五日には之を仝支給岸一帯に種農し、塊ヱ一千教官浬
に亙る海南を厳重監祀し、風涛荒れ狂ふ中に、日夜人
知れぬ苦闘を克服して無官の戚燃を加へつ1、支那の
経叫勅勝者遮断して、圃民政府の財政にl大打撃を加
へ、海上又支那拍舶の影を浸するに至つた.
支耶海軍は、事撃卑生前巡洋艦九隻、砲艦二八集、
河伺砲艦二三隻、其の他を併せて合計一〇六隻、約七
耗噸の勢力を有してゐたが、我が海軍の康勢なる兵力
とんにム bイ小
に郎倒されて、多くは穐増又は江上深く遽人し、沌に
横笛敷設防轟工事等江梅防備に従事してゐたが、我が
海革は適切なる攻撃を加へ、十月初旬噴迄に概ね井の
大牛を撃破し、之を壊滅に瀕せしめた.
又南立方面に於ては、我が艦晦を以て翼眞門」
抑頭、三都漢方面の敵砲嘉要地及艦艇を攻撃、多大の
組曹を輿へた.
】方我が輩航峯隊は陛港軍の進撃と呼鹿して、連
日農政なる爆撃を敢行し、逐次仝支婁地の軍事施設々
爆破すると共に、敵姦軍に一大打撃を輿へ、∵叉陸海軍
部隊常南の敵陣靴及後方部隊を爆撃して、u件数の弛展
を促し、十月下旬蓬に概ね敵槻三富七十横を屠つた.
入 犬上海昭落
斯くて十月二十三日以米の我軍の線攻撃にょり二十
六日大場銀の竪陣涜え、江濁の敵も崩れて、二十八日
には−拳蘇州河の線に進出した.
十一月五日、陸軍新銃部族は潅軍椅銃に掩護せられ
て杭州増に有難上陸し、「日軍首常杭州増上陸」のアr
海
陸
共
同
砲
一撃
で
火
災
を
.鶴
す
涌
東
敵
陣
地
ベルンは青金高卜接げられて敵の心糖を塞からしめ
た.
故に犬上海は全く我が包艶する析となり、浦東及租
1一r●
界に硬く洗日分子も清掃され、上海は十】月十日尭仝
に我が手中に入つた.トーチカも、クy−クも、正義
皇軍の常には粉砕突破せられ、薄介石が難攻不落を籍
り、我を閑際掛率の渦中におぴき寄せて敢闘に外交に
−ヽ.廿→い
有利な地歩を占めんと企囲した計憲もこ1に全く葺餅
最
前
線
に
て
陸
海
軍
都
踊
の
劇
的
一合
見
爬挿して、蟄局は葡後首都南京の攻防戟を目指し太湖
南北に展開されること1なつた.
九 湖東†戦と湖養線、の地異
陣地戟を耽して大池♯故に移つた我軍は羞驚異
的糞力を教鞭して湖東の平野を席弗、甫翔、嘉定、
太食、.鳥山を屠つて十三日義明忙は又もや敵の意表に
出で陸海協力して洩子江岸自前ロより強力なる新兵囲
の上陸を敢行し、常鞄蘇州方面忙潰走する敵の温路
を衝き敵を湖東忙包囲して赦滅的大打宰七輿へた.蘇
州、常熱、無錫相次いで落ち、日毒性長江沿岸を鎚
して西進したJ
太湖南偶に放ても茅輿、南帝、湖州、長輿等を攻略
して湖沼地帯を突破し、山鳥地帯忙入り山間を絶つて
介池を開始tた.陸軍戦線の進展につれて、海軍も亦共
揃江、蘇州河等の水路を啓閑し、軍舘品の補充路を我
手に収め、軍の推進を掩護した。
十 南京攻略態
次いで長江南岸忙滑ふ我軍は常州、金埋、丹陽を相次
いで陥れ、湖南方南叉鶏喝商魂む占壌1南京包囲の
くつ.ウ
取略的基礎鴇形せ整へ、替を放べて介進する各部隊は
銅江、句牢津水、水陽銀、宜喝葦燕湖の各地
l▲■
を攻略し潅.一方壊予江上敢山八に申されながら連日舵
待機傑に従事しっ1あつた艦船部隊は、機雷、閉轟胎、
防来客各種の梓亨を排除し叉南岸より阻止する敵を】
挿しっ1強行南京目指して澄江し、陸海柏呼應して.ひ
た押しに南京城に迫つね.→方海軍舵峯除は、.全力を
奉げて陸軍碗婁陳と協力、南京、南員方面に活烈なる
爆撃を靖行、十二月四日には蘇聯の供給にか1る飛行
機集中の報ありし蘭州を襲ふて殆ど之を撃滅した.
十二月入日、棒霞山ハ南竜東北方十人粁)、湯山(南京
釆方二十粁)、竜山(南京東方八軒)、方山(南京東南十
正粁)、牛首山ハ南京南方十粁)に亙る敵の南京本防架線
を占捜し、故に南京包固鴇形を完成して敵の死命を掌
中に収めるに至つた.松井笹司令官は、武士の情を以て
九口故郷に降伏開城を勘合、十日正午を期し岡答を求
つ丸
めた。併し岡谷の期日は姦しく過官て、最儀の輿槌的
中一●
砲火は南京城壁を格がし、我革は光華門に輝く−帝乗
りを解行して破竹の如く中山門、中華門、水西門を突
入した.叉海軍澄江部隊主力は逸に下関沖忙軍艦沸む
研し陸海呼臆して、十三日夕完全忙城内の締溺を完了
した。斯くて鼻軍の威風、長江一帯を擬し、払専横は
、ん好ん
夕陽に映えて勘桝とはためき、仰ぐ粁兵の眠.忙は感激
の浜が光つた.
十二月十七日、中真空戟四箇月の輝く戦果を此の盛
儀に那縮して鹿史的南京人‥域式が孝行された.朝香官
放下を始め奉り南京攻略の陸海軍各部験参加し、聴井
海び
陸松
船町
鮒鋼
祭官
に長
椚
の令
御領
憫
軍司令官、長谷川司令長官を先頭町中山門より用兵政
府に至る間堂人の威容を以て符堆、峯には陸海軍杭峯
り●
故の拝銀銀罪を連ねて暑の鵠族を基へ、閲兵移るや
一同東方轟か皇居を拝しr天皇陛下高裁」を三唱し、在
天の英事の共に中山門内に来らんことを斬りつ1此の
盛儀を周ぢた.
事奨の浄水はどうなるか、事変の結末如何は弛もが
知らんと欲する大間額であると同時に、何人にも竣断
を許さないと云ふのがその正しい答解であらう.併し
間額解決の道に就ては堂々正を屈んで怖れず、千常人
と雑も吾徒かんの大方針が既に決定されてゐる.日く、
暴庚支那軍を肝懲し以て抗日故先の地尭を促し、日満
支共存共柴の‡を挙げ東洋永遠の平和を確保する手鼻
れである.
一●h打ん
北真申支眈に席鴇せられ、南京陥落し、囲民政府は
長江の奥地に分散逃避したる現状に放て、#介石は命
ほ長期抗戦を呼汝しっ1ある一方、事筆を廻る列飼の
動向亦沌に浬断を許さぎるものがある.斯かる時局下
忙放て新年を迎ふるに普少、吾人比内外の情勢を深く
確執し、島同日本の建成すべき蕪高なろ目的に鑑み白
し●く l
♯自戒以て】年の計を樹て、之が‡行に邁進すべきで
ある.