第六三号(昭一二・一二・二九)
 歳旦祭・元始祭の意義       内 務 省
 時局下の新年奉祝         文 部 省
 電力国策の全貌          逓 信 省
 南京攻略後の粛清         陸軍省新聞班
 燦たる南京入城         海軍省海軍軍事普及部
 人口一億に達す          内閣統計局
 イタリー脱退と連盟        外務省情報部
 最近公布の法令         内閣官房総務課

イタリー脱退と聯盟 外務省情報部

 日独伊防共協定成立後イタリーの国際聯盟に対する
態度は注目されてゐたが、十二月十一日イタリー政府
は同日附電報を以て聯盟事務総長に対しイタリーは
ファシスト最高評議会の決定に基き一九三七年十二月
十一日聯盟を脱退する旨通告した。聯盟事務局では右
電報を翌十二日公表したが、イタリーの脱退通告は何
の理由も附せず簡単に同日附脱退する旨を通告してゐ
るに過ぎない。
 脱退通告の十一日夜、ローマに於てはファシスト代
表議会臨時会議に於てムッソリーニ首相は長広舌を
揮ひ、「イタリーは伊エ紛争中聯盟から受けた経済制
裁を忘れることは出来ない。聯盟改造は沙汰止みとな
り、某国の如きは(ソ聯を指す)加入以来イタリーに対
し反対的態度を取り、結局其の雰囲気は最早我国をし
てその一点として留まることを不可能ならしめ茲に
愈々脱退断行を決意するに至つた。併し之は何かの圧
迫がある為ではなく又世界協調及び平和に対するイ
タリーの根本方針を変更するものでもない。」と述べた。
之に依つて見るも、イタリー今回の脱退の原因が一九
三五年十月惹起された伊エ紛争に由来するものなるこ
とは察知出来る。
         ×                 ×
 イタリー対聯盟の関係を更に細かく説明したものに
ジョルナーレ・ディタリア紙社説(十二月十二日)があ
る。曰く
 「脱退の理由は二つある。其の一は聯盟が其の成立
の目的たる世界平和及び国際関係の明朗化と反対の方
針へ走り、而も時勢の進運に伴ひ国際問題(満洲問題
及びブラッセル九国条約会議等)を惹起する毎に益々
其の無力振りを発揮し、伊エ紛争後も聯盟は英仏両国
の反対を恐れて敢てエチオピア併合を承認せざる等余
りに聯盟が集団的安全の幻想に囚はれて設立の目的と
離れたことである。其の二は聯盟の政治的腐敗であつ
て、危険極まる共産ソヴィエトを加入せしめ欧州の
政治に容喙せしめて以来、府は第三インターの出張
所と化したことである。」
 斯くの如くイタリーの脱退は聯盟が無能なばかりで
なく現状維持国の為の御用機関と化し、新興イタリー
の国策を否定する様な有害な政策のみを行ひ、或は対
伊経済制裁を断行し、或はエチオピア併合不承認政策
を堅持する等イタリーに取つて却つて有害な機関とな
つたので、折もあらば脱退しようと気構へてゐた滋二
年以来のイタリー国民の宿望を実現したものであつ
た。寧ろ其の遅きに失するを怪しまれる程である。
 然らば何故にイタリーが一度は経済制裁を受けなが
ら今まで聯盟にとゞまつてゐたか?といふ疑問が生ず
るであらう。之に対してはイタリーが聯盟及び各国の
情勢を深く観察し、愈々気運熟せりとの見透しが付い
た所で熟慮を断行したものであると答へることが出来
るであらう。
         ×                 ×
 謂ふ所の国際情勢とは何であるか。伊エ紛争後の欧
州の形勢は、独伊の進出につれて英仏蘇の後退となり、
イタリーは地中梅に於て覇を占め、スペインに於ては、
其の支持するフランコ政権の確立とまでなつたに反
し、聯盟はなす所を知らず、近くは去る十一月のブラッ
セル九国条約会議の大失敗を目前に見るに及んで、愈々
自国の往くべき方向を見定め、徐ろに脱退の挙に出で
たものであらう。。即ちイタリー脱退の背景をなすもの
は、日独伊三国防共協定の成立であると見られる。
 之を時機の上から見ても、イタリーが日独協定に参
加したのは十一月六日であつて、此の気運に乗じ、イタ
リーの満洲国政府承認(十一月二十九日、日本のフラ
ンコ政府承認(十二月一日、フランコ政府と満洲国政
府の相互承認(十二月二日)等相次いで日伊提携の影響
と見られる鮮かな新しい一連の平和建設の成果が現
はれた後に於て脱退断行となつた所に、イタリーを力
づける後援が感じられるのである。即ちイタリーの脱
退は聯盟の決議に反して満洲国を承認した論理的帰結
であると共に、イタリーは聯盟を脱退しても外交上孤
立に陥ることなく、日独伊防共協定を中心とする新し
い非聯盟国提携の一員として外交上の友邦と肩を竝べ
て事をなし得るといふ自信を得た。之れをイタリー側
から見れば、脱退に依つて日独と同列に立ち、以て防
共陣営への熱意を示すと云ふ心意気が窺はれるので
ある。這般の消息に就て仏国側では、三国防共協定成
立後、英国が俄かに独伊接近策を執り、英伊首相の書
翰交換となり、ハリファックス英外相のベルリン訪問
となり、仏外相デルボスのロンドン訪問による英仏会
談ではドイツの植民地分割要求に対しても相当好意を
寄せると云ふ段取りとなつたが、イタリー側は英独会
談の結果イタリー抜きで英独協定が成立するのを阻止
せんとするゼスチュアとして脱退を断行して独伊提携
の鞏固を示さんとしたものであるとか、乃至は逆にド
イツの方からイタリーに対して脱退を勧めた結果であ
ると見てゐる。
 併しながらイタリーとしては勿論、其の独自の国策
的見地から之を断行したものであつて、脱退外交に至
る本筋を辿つて行けば、エチオピア問題の結果惹起さ
れたヨーロッパ政局に於ける国際的孤立を打開する為
一九三六年十月外相チアノ伯がドイツを訪問し、べル
ヒテスガーデンの山荘において独伊提携の劇的握手を
交し、新ロカルノ、対聯盟、防共、スペイン等の諸問
題に付て全面的に共同工作をすべきことを約したに初
まり、昨秋前例を破つたムッソリーニ首相のヒトラー
総統訪問によって独伊枢軸が強化された歴史的外交政
策の結末と云ふことが出来よう。
 即ちイタリーはエチオビア問題に就ては、最初一九
三五年一月の仏伊ローマ協定に依つて諒解を得てゐた
に拘らず、英国イーデン外相の強硬論に仏国が追従し、
遂に対伊経済制裁断行となつたので、イタリーは従来
オーストリア独立問題でドイツと反目してゐた中欧
政策を一転して自ら独墺間を斡旋して一九三六年七月
の独墺協定を成立せしめ、聯盟対伊制裁決議に拘らず
之に加はらなかつた墺、匈及び非聯盟国としてイタ
リーに好意を寄せたドイツの態度に感激してベルリ
ン--ローマ枢軸の実現に外交国策の基調を置くこと
になつたのである。此の年来の外交政策が背景となつ
てイタリーを脱退にまで導いたと云ふことが出来るの
である。
 従つてイタリー脱退の結果、世界の強国はアメリカ
を中心とする汎米ブロック、日独伊提携を中心とする
防共陣及び聯盟を指導する英仏蘇の三大群にはつきり
分れたと論ずる者もあるのであつて、新聞情報によれ
ば、英国はイタリーの脱退により集団的安全保障は茲
に終焉を告げ、勢力均衝の新時代に入つたとなし、
チェンバレン首相、イーデン外相等政府首脳部はイ
タリー政府は完全に聯盟と袂を分つたとの見地から結
局大戦前の同盟、協商対立時代の対伊強硬政策に転換
するのではないかと観測もしてゐると伝へられ、又一
方調和政策も唱へられ、英独会談の進行、日英関係の
悪化等と照合せて、頗る微妙な国際政局を展開し来つ
てゐるのである。
         ×                 ×
 仍て茲にイタリー脱退が各国に与へた反響及びイタ
リーの脱退によつて欧州聯盟たるの地位さへ失つた国
際聯盟の将来はどうなるか等の点に付き簡単な解説を
 先づ脱退の影響である。
 [ドイツ] 先づイタリーの脱退に全幅の支持を与へ
たものはドイツであつた。十二日ドイツ政府は左の如
くイタリー政府支持の公式コンミュニケを発表した。
 「ドイツ政府はイタリーの聯盟脱退決定及び右に関す
るムッソリーニ首相の声明を衷心から支持する。抑
国際聯盟は其の成立以来現下の世界政治上の諸問題解
決に有效に寄与したことは未だ嘗てない。
 其れのみか聯盟は戦後の凡ゆる発展に対し絶えず有
害且つ危険な影響を及ぼして来た。今や諸小国は集団
的安全保障制度は却つて「集団的不安全保障」に導くこ
と竝に聯盟の理想を無条件に支持するものは今やモス
コーのみであることを理解するに至つた。ドイツの聯
盟復帰の如きは、最早一考の余地さへなくなつたこと
を茲に声明する。」
 其の激しい聯盟攻撃の間に反蘇的口吻と独伊提携保
障の語調が看取される。
 〔ソ聯邦〕 プラウダ紙、ヤ・ビクトロフ論評(十四日)
脱退の背後に日独伊との密接な聯携がある。之等ブ
ロックはボルシェビズム排撃を口実に平和保障及び聯
盟に反対してゐる。
 [英国] タイムス紙及びデーリー・テレグラフ紙(十
二日) 「日独伊米が聯盟外に立つ以上国際的代表機関
たる聯盟存在の理由は喪失した。併し聯盟の新しい進
路は政治上及び経済上の国際紛争の主要原因を除去す
る為の国際的提案を作成し成るべく多数の国をして之
に協力せしむることに存するから、聯盟を支持する諸
国政府は欧州を三箇のブロックに分ける様な措置を避
けて出来るだけ相互の諒解を進める様努力すべきだ。」
 〔仏国〕 エコ・ド・パリ紙、ベルチナックス論評 「若
干の聯盟国は今や世界的裁判所たる地位から単なる防
禦同盟に転落してゆく聯盟に今後附いて行けるかどう
か考慮するであらう。」
         ×                 ×
 そこで国際聯盟の将来は如何なるかといふことに付
て一言しよう。
 国際聯盟は大正九年一月十日対独平和条約の実施と
共に成立したものであつて、平和条約署名国たる二十
五箇国を原聯盟国とし、聯盟規約は平和条約の一部を
なしてゐる。此処に聯盟自身が欧州政局の変転と共に
解体を迫られる原因が存して居り、成立当初既に米国
はモンロー主義に還つて参加せず、独、蘇も聯盟外に
立つてゐた。其の後ロカルノ協定によつてドイツが加
はり(日本脱退と同年の秋脱退)、日本脱退の翌年(昭
和九年)秋蘇聯邦が仏国の勧誘で加盟し、エチオピア、
スペインの如き問題の国も現に加盟して居り、イタ
リーの脱退温は規約上は二年後に脱退を完了するのであ
るが現在の所加盟国はイタリーを除き五十七箇国に達
してゐる。
 聯盟を脱退した国及びその理由を挙げると次の如く
である。

コスタリカ(中米) 一九二七年一月一日脱退完了
ブラジル 一九二八年六月十二日脱退完了
 (常任理事国になれぬ為)
日本 一九三五年三月二十七日完了
ドイツ 一九三五年十月十九日完了
 (軍備平等権を主張)
パラグァイ(南米) 一九三五年二月二十三日通告
グァテマラ(中米) 一九三六年五月十三日通告
ホンジュラス(中米) 一九三六年六月二十二日通告
ニカラグァ(中米) 一九三六年七月三日通告
サルヴァドル(中米) 一九三七年七月二十六日通告
 (経済上の理由)
イタリー 一九三七年十二月十二日通告

 昨年中米三国の脱退に付ては理由を明示してないが
対伊制裁の不便を知り、且つ同年十二月開催の汎米会
議に期待した結果と見られる。
 斯くの如くにして最初の米国及び其の後に於ける中
南米主要国の脱退により米大陸の有力な代表者を失
ひ、日本の脱退で極東の重要代表国を失ひ事実上欧州
聯盟と化した聯盟は、独伊の脱退で欧州聯盟たるの地
位をさへ失ひ、英仏蘇の現状維持同盟と化し去つたの
である。
 斯くて集団的安全保障頼むに足らずと見てベルギー
の如き早くも中立還元を声明し、独伊両国の脱退で二
大非聯盟に挟まれることとなつた聯盟の所在国スイス
の如きは愈々不安を感じ、絶対中立の確保を必要と
してモック兼摂外相は聯盟に対し此の地位を承認せし
める措置を採る様考慮中と伝へられるが、聯盟の機構
内で中立の保障を得ることが出来るか否か疑問である
とて一部には聯盟脱退論まで飛出す有様で、少くとも
聯盟規約の経済制裁には絶対参加しない方針と見られ
る。
 欧州の形勢が英仏蘇と独伊の対立に分れた結果は、
聯盟の庇護に安んじてゐたその他の小国も何れかの枢
軸に走るか、中立に還元するか迷つてゐる有様で、聯
盟の権威は小国に対してすら失はれつゝある。
 又聯盟としても此の儘自然の解体を俟つことは不可
であるとして仏蘇の間には煩い国が居なくなつたの
を機として聯盟残留国の結束を一層強化しようといふ
策動も行はれるかも知れぬし、又英国の一部に考へら
れてゐる如く聯盟を改造して日独伊も再加入し得る様
な新機構を作り出さうといふ努力も試みられるかも知
れない。
 併し乍ら聯盟の様な集団的安全保障が化石しつゝあ
る間に、日独伊提携の如き新形式から新しい平和が生
れつゝあると云ふ時代の推移に目を閉ぢてはならな
い。

  正 誤
前号「ソ聯邦の総選挙」の記事中、三五頁下段右より六
行目以下四行を左の如く訂正す。
 都市は選挙人二万五千人につき一人、農村は住民(人
口)十二万五千人につき一人の割合で代議員を選出
する。ソ聯邦学者によれば農村では人ロ二人余につ
き選挙人二人となる割合であるから、都市の代議員
選出率は農村のそれの約二倍半となる。

              外務省情報部