首都南京陥落す   陸軍省新聞班

    一 北支方面

 北支に胎動しつゝあつた新政権への希望は遂に東亜
の安定と支那五億民族更生の輝かしい使命を担ひ中華
民国臨時政府として十四日午前十一時北京居仁堂にお
いて正式結成の式典を挙げ中外に宣言を発表、こゝに
支那再建設の歴史的第一歩を踏み出した。此は、夜来
の寒風もおさまり北京は和やかな多の陽ざしに恵ま
れ、北支民衆歓呼の中に輝く未来を約束されつゝ東亜
の歴史は茲に新たなる劃期的第一頁を印せんとしてゐ
る。
 先に平漢線東方地区の残敵を掃蕩して威県にあつた
部隊は十二月五日より八日に至る間に館陶、臨清、冠
県地方を占拠した。その他の部隊は堂邑附近の敵を撃
破し同地西南方地区に進出した。堂邑附近にあつた敵
は迫撃砲を有する約一千で山東省第六区遊撃隊に属す
と云ふ。十日県南方地区に進出した部隊は十一日に
は観城(大名東南方約五十粁)附近に前進し更に十三
日観城にあつた約一団の敵を撃破した。
 かくて平漢線東方地区の治安は漸次回復し、十二月
初旬臨清附近にあつた支那軍約七千名及隆半(順徳東
北方約六十粁)附近にあつた約八千名の敗残部隊は我
軍に帰順を申出でた。

    二 南京攻略戦

 愈々南京最後の日は近づき蒋介石は七日朝飛行機に
乗つて南昌に都落ちの情報も確実化せられた。南京防
衛司令唐生智尚も死守せんものと最後の頑張りを見せ
てゐる。
 然れども南京既にわが掌中に在り。南京本防禦線と
攻略して残るは城内外の残敵掃蕩だけである。続々と
轡をならべて南京を目指して進む将兵の意気は沖天、
いづれも深い碧空の大気を胸一ばいに吸つて「おゝ南
京だ」と叫ぶ。血と汗に汚れた戎衣もやがて晴れの入
城の錦衣となる日も遠くはない。すでに本拠南京の死
命をわれに制されたとも知らずそここゝの山間谷間か
ら窮鼠猫を噛むの残敵の反撃振りは、敵乍ら一片の敬
意を表するに足るも誤れる抗日の末路として蕭々たる
紫金山の寒風にひとしほ哀れを留めてゐる。
 南京総攻撃を前に九日正午松井最高指揮官は南京防
衛司令官唐生智に対し廿四時間の期限を付け十日正午
迄に降伏するやう情理を尽した投降勧告文を飛行機よ
り投下して光栄ある日本武士道の精華を内外に示し
た。

勧告文全文

 日軍百万既に江南を席巻せり、南京城は将に包囲
の中にあり、戦局大勢より見れば今後の交戦は只百
害あつて一利なし、惟ふに江寧の地は中国の旧都に
して民国の首都なり、明の孝陵、中山陵等古跡名所
蝟集し婉然東亜文化の精髄の感あり、日軍は抵抗者
に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも無睾の民
衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大を以てし
これを冒さず、東亜文化に至りてはこれを保護保存
するの熱意あり、しかして貴軍にして交戦を継続せ
んとするならば南京は勢ひ必ずや戦禍を免れ難し、
しかして千載の文化を灰燼に帰し十年の経営は全く
泡沫とならん、よつて本司令官は日本軍を代表し貴
軍に勧告す、即ち南京域を和平裡に開放ししかして
左記の処置に出でよ

           大日本陸軍総司令官 松井石根

 本勧告に対する回答は十二月十日正午中山路句
容道上の歩哨線において受領すべし、もし貴軍が
司令官を代表する責任者を派遣する時は該処におい
て本司令官代表者との間に南京城接収に関する必要
の協定を遂ぐる準備あり、若しも該指定時間内に何
等の回答に接し得ざれば日本軍は已むを得ず南京城
攻略を開始せん

 然るに南京城の敵は投降勧告に応ずる色なく頑強な
抵抗を持続するので十日午後一時遂に我が軍は総攻撃
を実行するに決し砲兵の全力を以て砲撃を開始すると
共に全線一斉に進撃し飛行機の爆撃と相俟つてひしひ
しと南京域を圧するに至つた。
 地上部隊に協力する陸海空軍の巨弾は城内の敵に、
或は江上退却の敵に、或は遠く敵空軍再建のため、編
成中の根拠地待機中の新鋭機に攻撃を加へた。

1 南京城東正面の状況

 南京攻撃中の各部隊は敵の抵抗を排除しつゝ逐次そ
の包囲圏を縮小しつゝ、湯水鎭、湯山附近の敵陣地を
突破し、主力は九日夕刻頃黄泥南北の線に達し、そ
の先鋒部隊たる大野、野田の各部隊は既に八日正午麒
麟門(紫金山東方八粁)に迫り、九日未明猛攻を開始し
た。
 九日夕には麒麟門東方より蒼波鎭に亙る線に前進
し、当面の敵に猛撃を加へ敵陣を突破して、十日午後
には右翼を以て堯北門(南京東北九粁)に、主力は紫金
山頂東方及其南方山麓附近に進出して依然敵に猛撃を
加へた。
 十一日に至り、右翼部隊は堯北門附近の敵陣地を突
破して其西方地区に進出、主力部隊は紫金山頂小衛間
の敵陣を攻撃中であつたが、同日夕刻玄武湖北端より
紫金山西麓を経て中山門東側に亙る線に前進した。
 刻々南京圧迫の陣を進めつゝある前線は十二日夕、
其の右翼方面は和平門附近に進出し主力部隊方面にあ
つては午後五時半紫金山頂を占領した。
 大野部隊の一部は十三日午前三時二十分南京城中山
門に突撃これを占拠、日章旗を城壁高く掲げて万歳を
絶叫し、片桐部隊の一部は午前零時中山陵と占拠万歳
の声は夜の紫金山を震はせた。
 中山門占拠に次ぎ城門附近より勇躍突入した我軍は
同門附近の軍事中枢機関を占拠し又南京城北方に迂回
した助川部隊は下関に迫り敵の退路を断つに至つた。
 南京北方地区に於て十三日迄に敵に与へた損害中敵
の遺棄死体四、五千を下らない有様である。
 十三日下関に於て機関車三、客車六、貨車三十八を
鹵獲した。

2 南京城東南面の情況

 六日以来淳化鎭附近の敵を攻撃中であつた我が部隊
は、八日午後遂に淳化鎭を突破して敵を猛追して夕刻
高廟の線に達し、九日朝より南京城壁に近迫しつゝあ
つたが九日午後には中山門東方附近より南京東南角に
亙り城壁クリークの線に進出した。
 旧街道を驀進した脇坂部隊は九日早くも南京城光華
門前面に迫り、城壁上から猛射を浴せる敵軍最後の抵
抗に対し悽壮極まりなき近迫戦闘を続けてゐたが、
十日午後五時決死的爆破が功を奏し、光華門の一部は
破壊されたので時を移さず突入城壁高く日章旗を飜し
た。折柄西に沈む夕陽を浴びて、我が一番乗の勇士が
力の限り左右に打ち振る日章旗は首都南京陥落の曲を
奏でるタクトとなつて、万歳の声南京城を圧する中に
此の豪壮雄大なる情景も薄暮の中にかすんで敵兵掃蕩
の激戦の幕が切つておとされた。次いで十一日光華門
附近城壁に到著した後援部隊と共に逐次戦果を拡張す
る態勢を占むるに至つた。
 南京域東南角方面を担当する我が軍の右翼は中山門
東方高地の敵陣を突破して十一日中山門前面百米に迫
り砲兵掩護の下に血戦死闘を続け銃剣相摩する所まで
迫つた。十三日払暁を期して中山門側の破壊口から一
斉に城内に突入頑強なる敵を圧しつゝ漸次戦果を北方
に拡張して、残敵に最後の鉄槌を加へた。
 別に常州金壇を経て西進中なりし部隊は天王寺胡熟
を通過し十二日上方門に達し、その先鋒鷹森部隊は南
京城東南角方面の戦闘に加入し武定門に対し攻撃準備
中であつたが、十三日南京城東南角を占拠し武定門に
向ひ戦兵を拡張した。

3 南京城南正面の情況

 水より南京に迫りつゝある部隊は七日秣陵関の敵
を一蹴して潰走する敵を追撃し、別に郎渓より水南
方地区に進出した岡本、竹下等の各部隊も之と併行し
て西北進し、八日夕には水閣北方地区より谷里村東方
地区に亙る線に進出した。更に九日には敵を南京城に
追ひつめて雨花台南方の台地より西善橋の線に進出し
た。
 南京南側香椽樹安徳門の線にある敵陣地に対し千
葉、山田、矢崎、山本の各部隊は十日夜引続き攻撃を
続行し右翼方面より戦況逐次進展して十一日薄暮頃山
本部隊は雨花台々端より七、八百米の線に迫つた。 
 南京城南側安徳門、毛関頭の線にある敵陣地に対し
両岡本、長谷川等の各部隊は十一日攻撃を続行し、午
後五時前安徳門高地方面より極力戦果拡張に力め、別
に竹下部隊は揚子江岸に近く迂回して南京西側に進
出、十三日午前水西門を占拠城内に突入し掃蕩を開始
夕刻城内西北方の高地を占拠した。
 城内の敵は猶頑強に抵抗してゐるが十一日午後四時
頃から十数隻の船舶によつて揚子江上流へ退却中であ
る。此の退却中の敵に対し歩兵、砲兵の一部は江岸に
出で敵船を撃滅しつゝある。
 南方より攻撃の各部隊は十二日朝雨花台北端附近に
進出続いて愈々城壁に対する攻撃を開始し、十二日正午
南京城門中最も堅固な中華門に対し長谷川及千葉部隊
は相次で突入城壁高く日章旗を飜し、続いてその西方
に於ても強攻を続け岡本(保)部隊は午後四時二十分城
壁の一角を岡本(鎭)部隊は同四時四十分西南角を占拠
し引き続き城内掃蕩に移り敵を北方に圧した。
 南京完全占拠を目ざして東南西の各門より突入せ
る皇軍は十三日夕刻南京城内の残敵を完全に掃蕩し
た。
 南京域壁を震撼した我が爆音銃砲声は敵にとつては
正に抗日亡国の弔鐘であつた。此日江南の空澄み渡
り日章旗は城頭高く夕陽に映じ皇軍の威風は長江一帯
を圧した。

 三 南京上流長江沿岸の情況

 先に水陽鎭を陥れた山田、長野等の各部隊は北進丹
陽湖を渡つて当塗に向ひ、九日夕には当塗東方地区に
進出した。
 当塗県城は南京と蕪湖との中間、揚子江の南岸に位
する敵の要害で南京の後衛として重要視されてゐた所
であるが、もはや我軍により攻撃されるに至つた事は
恰も南京の背後に剣を擬せられたに等しいものであ
る。
 十日黎明と共に攻撃前進を開始し、午前十時一挙当
塗城内に突入周章狼狽する城内敵兵を掃蕩午前十一
時城頭高く日章旗を掲げた。
 常に予期せざる奇襲を以て神出鬼没の行動で知られ
る此の部隊は当塗占拠後古烈山(当塗北方約二十五粁)
附近より突如揚子江を渡り、対岸烏江附近に上陸し
烏江の敵を急襲して之を占拠、息つく隙もなく省境を
越えて江蘇省に進入し十一日午後十時三十分橋林鎭に
達し、少憩の後翌十二日未明同地を発して浦口に向ひ
進撃した。
 十二日夕江浦(南京西方十五粁)にある約五百の敵を
突破して東北方に向ひ、十三日浦口及浦口鎭を占拠し
て敵の退路を完全に遮断した。
 宣城より破竹の勢を以て前進せる片岡、小堺等の各
部隊は西北進して湾鎭に入り、北進して八日夕には
黄池鎭西南方南徒門附近に進出し、九日にはその先鋒
は蕪湖東方に迫るに至つた。揚子江江岸の要害たる蕪
湖は風前の灯となつたが十日遂に同地は完全に我軍の
手に落ちた。
 敵の退路を完全に遮断する目的を以て北進し、十一
日夕には大(蕪湖北方三粁)附近を通過十二日午後四
時慈湖鎭を通過北進した。

 四 南京下流長江沿岸の情況

 鎭江を攻撃中なりし我が安達、永津部験は八日午後
完全に之を占拠した。鎭江要塞に於ける鹵獲品は次の
通である。
十五加    十門(旧式) 同弾薬千
二十四加   四門(旧式) 同弾薬六百
二米探照灯  一(新式スペリー)
三〇浬探照灯 一(旧式)
発電所、発電車 各一(新式)
機械水雷  六〇
高射砲    八
戦車砲   十三
 鎭江を屠つた我軍は十一日焦山砲台(鎭江東北方四
粁揚子江中州)を占拠した。
 更に十三日午後七濠口附近に長江の敵前渡河を敢行
し敵を圧して攻撃前進し、十四日午前九時頃施家橋(揚
州南方九粁)附近の敵を攻撃中であつたが之を突破し
て同日午後二時四十分揚州南門を占拠し日章旗を掲げ
た。
 先に江陰要塞を占拠して長江南岸に沿ひ西進中の一
部隊は十一日正午以来山要塞(鎭江東方約十八粁)を
攻撃し同日午後十時之を攻略し、ニ十四糎榴弾砲四、十
二糎砲五、其他を鹵獲し、他の一部は同十一日象山砲台
(鎭江東北四粁)を占拠した。その一部隊は江岸に沿ひ
前進し十二日午前橋頭鎭(鎭江西方十七粁)に達した。
 更に西進南京北方の烏龍山砲台を攻撃して十三日午
後四時三十分之を攻略し、砲十四門高射砲四門を鹵獲
した。
 更に十四日午前十一時には幕府山砲台(南京北方四
粁)を占拠した。
 久しく軽快な鉄蹄の響をきかせなかつた我が騎兵部
隊は十二日夜仙鶴門附近に於て南京城東北方地区より
脱出し来た約二、三千の敵と激戦、大打撃を与へた後東
北方に撃退した。此の戦闘で敵の遺棄死体約七百を下
らない。
 揚子江上に活躍中の海軍○○部隊○○隻は十三日午
後五時遂に南京に到達、直ちに下関頭附近の敵密集
部隊に猛火を集中し南京攻略の我陸軍部隊に協力し
た。

  五 南京入場式
 
 敵首都南京城に皇軍万歳を凝結させて南京攻略に参
戦の陸海各部隊による南京入城式は十七日中山門より
国民政府を中心に挙行された。この日紺碧の空澄み渡
つて雲一つ浮ばず、銃火収まつた新戦場に平和の曙光
満ち渡る。
 陸海軍各部隊は午後一時中山門より国民政府に至る
南京第一の大通り両側に整列し、光輝燦たる軍旗及軍
艦旗を捧げて威容長江の浪に映発し紫金山の霜華一段
の光を増す中を朝香宮殿下を始め奉り松井軍司令官
中山路に到著し歴史的入城式が開始された。松井軍司
令官幕僚を従へて堂々閲兵すれば陸海軍飛行隊は大編
隊を整へて南京の空を旋回、かくして軍司令官以下陸
海軍各部隊長国民政府に入り、午後二時政府正門のセ
ンター・ポール高く大日章旗が掲揚された。
 全将兵一同東方遙か皇居を拝し奉り、松井軍司令官
が渾身の感激をこめて
 「天皇陛下万歳」を三唱すれば全将兵の唱和する万歳
のとどろきは、故国へもとどけとばかり。此の余韻遠
く消ゆる時、誰か殉国の忠魂、 護国の英霊皆中山門
内に来つて此の盛儀に参列せよと心に念ぜざるものな
からんや。

 六 南京攻略の意義

 十三日午後十一時二十分我軍南京を完全に攻略すの
公電来るや、大本営陸軍報道部は当局談を発表して江
南の華と散つた英霊に感謝と尊敬の至情を捧げ次に来
るべき決意を明らかにした。

 我軍は十二月十三日敵の首都南京を攻略し城頭高く日章
旗を飜した。
 顧るに我が軍は八月二十三日上海の一角に上陸、堅固に
構築せる数線の近代的設堡陣地を占領せる衆敵に対し、克
く寡兵を以て執拗且果敢なる攻撃を反覆し、之に徹底的打
撃を与へて上海戦線の膠着状態を打開以来我が猛撃の威
力は兵に疾風枯葉を捲くの概あり、已に世界の戦史に未曾
有の記録を輝かしてゐたが、今や彼等が死守を誓ひ不落を
豪語せる首都南京に於ても、敵に数日間の抵抗をも許さず、
之を放棄するの已むなきに至らしめたることは、更に皇軍
の精強を宣揚したるものとして寔に御同慶に堪へない。
是れ素より御稜威の然らしむる所であるが、統帥の卓越、将
兵の忠勇、挙国銃後の支援等の賜にして、就中江南の華と
散りし英霊の加護に依るものと謂ふべく、茲に謹んで此等
在天殉忠の英霊に対し心からなる崇敬感謝の至情を捧げ
る。
 上海南京一帯の攻略は江南戦局に一段落を劃するものと
して戦略上重大なる意義を有するもので、如何に巧妙なる
宣伝を以てするも支那側大敗の実情は今や全く掩ふに由な
かるべく、経済中心上海の喪失、北支戦局の進展と相俟つ
て、彼等の長期抗戦の企図が如何に暴虎馮河の類であるか
を自覚せしむるに十分であらう。
 然れども蒋政権が依然長期抗戦を策する限り戦局の前途
は遼遠と謂ふべく、国際動向亦偸安を許さないものがある
から更に緊褌一番新なる勇猛心を振起し、挙国一体出師目
的達成に邁進せねばならぬ。今や皇軍の土気愈々昂揚せら
れ、後方補給亦一層の堅実を加へ、形而上下に於ける戦力は
逐次増大せられてゐるので、今後抗日政権及抗日軍隊に対
する武力的圧迫は益々猛烈の度を加ふるに至るべく、内外
の全軍愈々緊張勇躍御奉公を期しある次第である。

 上海上陸以来文字通の勇戦奮闘を続け敵に多大の打
撃を与へたが南京攻略まで我と対戦した支那軍兵力
は約八十個師、八十万にして其の中約四十万は損害を
受け残り約四十万が奥地に遁入して尚も抗日救国と称
しつゝその実は亡国の一途を辿りつゝあるに気付かな
いあはれさを留めてゐる。支那民族更生の曙光はすで
に北支に輝き初めんとしてゐるのを知らざるや。
   国敗れて山河あり、城春にして草木深し
は単なる詩人の感傷ではない。冬来りなば春遠からじ、
醍めよ支那国民、起てよアジア民族解放のために。