第五九号(昭一二・一二・一)
満州国に於ける治外法権の撤廃及満鉄付属地行政権の移譲 外務省情報部
時局と農村の使命 農林省
時局と産業 商工省
戦争と鉄道 鉄道省
戦況
大本営設置せらる 陸軍省新聞班
黄浦江の水路開く 海軍省海軍軍事普及部
日独伊防共協定記念国民大会に於ける近衛内閣総理大臣祝辞
最近公布の法令 内閣官房総務課
大本営設置せらる
陸軍省新聞班
上海方面に作戦中なる陸軍将兵に対し十一月二十日午後二時三十分幕僚長の宮殿下を召させられ優渥なる勅語を下賜あらせられた。
勅 語
上海方面ニ作戦セル軍ノ将兵ハ克ク海軍卜協力シ障礙ト抵抗トヲ擠排シ敵前上陸ヲ敢行シ交錯セル深濠連続セル堅塁ノ間ニ勇戦激闘果敢力攻寡兵能ク敵ノ大軍ヲ撃砕シ以テ皇威ヲ中外ニ宣揚セイ朕深ク其ノ忠烈ヲ嘉ミス其ノ敵弾ニ殪レ病瘴ニ仆レタル者ニ思ヒ及へハ惻愴殊ニ深シ惟フニ派兵ノ目的ヲ達シ東洋長久ノ平和ヲ確立セムコト前途尚遼遠ナリ爾等益々志気ヲ淬祉V艱難ヲ克服シ以テ朕ノ信倚ニ対へヨ
松井軍司令官は二十二日午後五時職員を一堂に集め厳粛な勅語捧読式を挙げ、且作戦中の各兵団に伝達した。尚松井軍司令官の左記奉答は昨二十四日上聞に達せられた。
奉 答 文
中支那方面ニ於ケル作戦ノ成功ハ偏ニ 御稜威ノ然ラシムル所ナリ今図ラスモ将兵ノ忠勇ヲ嘉賞セレレ優渥ナル 勅語ヲ辱ウス寔ニ感激恐懼ニ堪エサル所特ニ戦歿傷病者ニ対スル 聖慮ヲ拝シ感泣措ク所ヲ知ラス
臣等益々発憤淬肢リミテ 聖旨ヲ奉体シ誓テ前途ノ万難ヲ克服シテ皇軍ノ威武ヲ顕揚シ以テ宸襟ヲ安ンシ奉ラムヨトヲ期ス
右謹ミテ奉答ス
一 大本営設置
今般事変に対処する為、十一月二十日大本営を宮中に設置せられ、同日大本営陸海軍部より当局談の形式を以て左の如く設立の趣旨を発表せられた。
「今般支那事変に対処する為、大纛の下に大本営を設置せらる。是れ今次事変の推移に鑑み長期作戦の覚悟を以て本格的に武力を行使せんが為、統帥部を戦時態勢態に移すを適当なりと認められたるに因るものなり。
抑々大本営は大本営令明示の如く大纛の下に於ける最高の統帥部にして、陸海両軍の統帥幕僚附属諸機関を以て編成せられ、帷幄の機務に奉仕し作戦を参画し、陸海両軍の策応協同を図るを以て本務とし、陸海軍大臣亦軍政処理の為、所要の随員を随へて大本営に在るものなり。
即ち大本営の設置は専ら統帥大権の発動に基き、平時統帥部と陸海軍省とに分掌せらるゝ統帥関係事項の処理を一元化するを本旨とする純然たる統帥の府にして、之が設置に依り統帥と国務との職域、責任の分界に何等の変化を生ずるものに非ず。巷間往々にして、大本営は統帥国務統合の府なりとなし、或は戦時内閣の前身なりと憶測するが如きものあるも、之れ全く根拠なき浮説にして、今次の大本営設置の真意に非らざること勿論なり。唯現下の如き状況に及びては、政戦両略の一致を期する為、大本営と内閣との連絡協調は特に緊密なるを要するを以て、陸海軍大臣之に当るの外、大本営幕僚長と関係閣僚等とは必要に応じ随時会同して隔意なき意見の交換を行ひ、重要案件に就ては御前に会議を行はせらるゝが如き前例も亦採用せらるゝことあるべしと拝察せらる。
今や皇軍は大本営の設置に依り最高統帥の陣容を整へられ、茲に陸海両軍緊密協同の態勢を以て、更に運営の卓絶と統帥の完璧とを期し、全軍将兵亦一段の生気を加へて出師目的の貫徹に邁進せんとする次第なり。」
二、概況
察南、晋北、
の は 濱音治
上海戟繰は太潮以東を確保して、北は南京防粂の算
一線たる典籍の竪陣む突破し、無錫江陰の第二操に迫
り、南は嘉典の瓦解によつて杭州湖州の線早くも危し
と見らる1に室つた.
滞州の階落によつて南京攻防戦の農期となり、情報
によれば南京軍事重点曾内部に放ては、早くも大本餐
の移博論、南京放棄論が唱へられて、南京死守の束帯
▲つ几●
の轟に内部軋轢が転つてゐると倖へられる.かくて彙
金山腹に数千草花を投じて造られた豪放睾鹿の中山故
に眠る閑民革命の父大碑文の濃骸が彼等自らの手忙上
って放棄されんとするのもいまや時の同額となつた.
抗日国民政府何鷹に行かんとナるか、大本営を南京
に硬し、その他を挙げて重度長汐漢口に移押し、欺湘
大戦に於げる.ハy−に鞭して命長期抵抗を豪語して
も、その響には室虚な飴由が残るのみであろ・
プラッセルの舞叢に辻かないフット・ヲイトを浴び
たブ酎舎熊の脚本も支部例の吠息と共に剛毅とならん
としてゐる.
自国内新脚耗に於ても、歯民政府の自力の過大許頒
と欧米依存の迷夢を打破せんとして、「一切を自己忙
川U・, かり
間へ」との祀詮を摘げて政府の封内外政策の訣藤を喝
一打
破するものも生じて釆た.
≡ 祷我損尊の概故
事撃発生以来彼我規審概数は左の洩である.(十一月
二十日調による)
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=仙骨 苛
書ほ頚骨−曾ソしもののみに誓詞茸せるものにして拝
辞、由埋兵器ほなほ多故ある見込
四一帯古方面の治安
さき忙竜泉故赫の現絆を振し輝かしい新生の第一歩
を緒み出した竃晋北、叢盲塀盟聖二自治政府は、施
政♯智者の駄身的努力と一般民衆の協力忙より諸政者
守とその鮮につきつ⊥あるが、今回右三政府は利専得
失と同じくし豊する重宰事項に関して緊密な秋制
協粥によつて共同目的と尊成せんとして、家経聯合
責甘なるものが二士言張衆口で成立した.
玉 津蓮方面
薄帝線を黄河へ黄河へと前進した我が皇軍は韓道線
と中心に済曝、靖河忙亙る黄河北岸の線藍冗仝に占渡
し、並添紆線一ニケ月の取扱幾度か夢に見た沼々たる黄
河の流れに我れ来たり、見たり、膠てりの感激を浮べ
て新たなる済甫政略の血を払やした.
鬱栗部族は十五日義と占放し黄河銀穣北鴇む確保
したが、鉄橋は麦邪軍に上り壌破された.
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六 上海教練
●▲・▲・■・,
上輝附延の戟は陣地戟の様相を晩して、大迫坪数忙
移り、蘇州、常熱、摘山の線に必死の防架陣を布く放
と攻撃中であつた各部隙は途に此繰を突破†るに至つ
た.野田、助川部隙は十∧日来常熱の東正面より、永
津、高橋、佐藤の各部隙は敵の左側背の勝山に進出
はく。柑・,
し、別に柵化谷水上機動部隊は白茄新市より神髄にょ少
鳥域湖を横断し、常熱南方莫域銀を占操したのと相
倹つて、十九日速に常熱を占撮、こ1に奥指陣地(臭
江 − 稲山間)瓦解の端緒を閃いた.
常熱と占捜せる永津、佐藤、高橋の各部鞍は械いて
迫撃に移り、二十日夕にはその先頭を以て治糖鋲を占
挽、野田、助川等の諸部隊は何湖南方地髄より舛錫に
向ひ迫撃、常熱、栢山を連ねる陣地線の中央炎破を企
簡し、蘭家椿、謝家橋頚東方の線に展開し、クy−ク
埠防の線に操つた敵む攻撃中であつた我が部隊は十七
日謝家橋銀を占凍し、爾後戦果を凍張、十九日夜半上
り無錫方向に向ひ追撃に移つた.
最右共にあつて福山攻撃中であつた騎兵部族は二十
】日午後十時福山を占捷した.
太湖北方に作戦しっ1ある部隊は連日の降雨のため
でいねい
活路は全く泥浄と化し補給棲めて困難なるに拘らザヽ
茶難を耕して徹底的塩辛を敢行しっ1あり、又我が箆
軍飛行隊は二十二日敷同に五つて右の部隊に対して有
史以来かつて見ない墓中より鴇食山弾蛮爪の・犬補」拾と待
つた.
又最近簾徳ハ杭州西北方)、漂陽(東嶺北方)に移駐し
て木た敵の高等司令部に対して我が陸海客車はl一十二
日も雄操革を加へた.
〓 丸い
旦山を攻略して渇寧鋳造に滑つて一路蘇州城の敵大
集囲に向つて進拳中の欝士井、伊佐部隊は、十人8且
義銀に於て我が進撃を阻んでゐた敵トーチカ陣地を突
破、蘇州稗造及式場地道に拾うて追撃態を展開し、富
士井部隊は陽城湖水上部隊を約成して湖上を突進し、
途中岬家路小鞄等に兆敗な敵前上陸と行ひ、艮正面か
ら敵陣に向ひつ1あろ陸上部隊の指進撃に多大の教典
を奉げた.かくて十九日午前六時年富士井部族の寄製
け♪
に上り蘇州に突入占操し、歩武堂々九時入城した.蹟
つ
閤の嵐を衝いて蘇州城柴目指し進む我軍の進出が飴少
山つ イ)
早かつたため、守備の支郷軍は雨合羽を著た皇軍を自
軍が返却をして衆たものと思ひ速ひ、我軍の隊列に入
つて千束で歩いてゐたといふのが教へ切れぬ程あり、
域内守備兵も邁を開いて迎へるといふ有様で、東郷軍
が誰も知らぬ間に占撮されてしまつてゐた.蘇州坂内
の掃蕩を捻るや更に長座、無錫に向ひ進撃を開始した.
♯州に出て
蘇州ほ上海の西、水路で入十浬の地にあつて、近く太湖
の末岸に蒙し大運河と蘇州河の分岐鮎にあろ.古の奥の固
くむ
都であつて二千有飴年来の古城であるが、救次の鍋軋に合
ひ城内の牛分は饗丁の繋哉するに委せた状態にある。市韓
は城内、許蜉O及居留地の三堪に分れてゐろ。始壁は周射
的二十粁、南北五粁牛、東西四粁の長方形をなして居て、城
壁の萌さは火米内外あり、城壁に治つて運河を擦らし、城
門ほ南北各一節、東西各二億を有し外に五箇の水門を設け
城内外の濯河を適格してゐろ.
西門外城西一帯の地は近時商業紫盛を来し、大商店、●
しっぴ
館、公桝櫛比して居る.日本民居留地は西部、公共租界は
日本居留地の東部を占め、前者は十二萬坤、後者は九費
の地域を有し盈路の設備は完全てあるが、家島は多々たろ
・ものである.
太帝ほ物資比較的塑冨で衛生設備も可なり戦逢してゐ
る.戸救は約七革一千戸、人口は約三十五萬を有し、多♯
く.βん 一
の曾弼、嬰汝、痢擁等の建築物がある.
情報に依れば敵の第一線陣地は嘉輿、蘇州、常勤、
情山の械で、孝一糠陣地は杭州、湖州(奥輿)、無堵、
山・フいん
江陰の繰及宜輿、常州の線で、錦江にも盛んに陣地が構
築せられてゐる.級兵力は三十萬を下らず、白崇薙が
之を指坪してゐるやうであろ.
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今次支那軍の退却は大混乱む呈し志気全く汎弛し
て、武許を接帝せず、接食を求めて彷ふ兵が秒くな
い.十六日には中央軍の一部は撫錫に於て兵奨を起し
中火、小閥、交通の三鈍行支店を現革したと停へられ
てゐる.
十一月七日より十五日に至る兇山附近の合戦を湖東
禽恥と糾することに簸められたが、此の合戦に於ける
敵の鴻饗屍牌五萌、伴虜少くも−萬、敵の根傷は十五
茶を下らない模様である.
大洲絹方を西方に越中中の我が部隊は十入日既に茅
輿た包剛して片岡、野副、小堺、漆山の各部隊は西北方
南し、矢崎、山本、山田等の各部隊は兎正面より宗輿城
に射し塞雨を官し猛攻中なりしところ十九日午紡途に
同塊を完全に占械した.別に同本部験は嘉輿西北方約
三十粁太湖南方南薄を占撮し、頼いて西方に進撃した.
【■ ▲つ 川
前輿はその昔輿鶴の覇を革つた婁曹であつたが、支
那事績の新教場に於ても此の方面の要事の一をなし、
蒋介ポは茅興南港の線を寮費組してこ1に放て我軍と
り▲
幾弊せんとしたが我が改革の前に一堪りもなく凍えて
しまつた.
常熱、蘇州、茅輿相次で箔立川し、湖東合戦の目的達
竣の公篭到著ナるや、陸軍大臣よトエ〓丁日夜椅井手司
令官宛左の一幌電を激した.
光埠ある蘇州攻略を祀ナ.
再現なる敢の蒙を排し大倉、鳥山、常熱、蘇州、嘉輿尊
敬の軍事操鮎を革祝し、克く歎をして抵抗の飴裕を輿へざ
ろ猛烈果敢の泡平に依り嶽々たる大勝を博したり0
此の光輝ある戦聯は克く皇軍の威武を中外に宜攣る柏の
にして、轟措兵適日の異教脊開に対しては虞に嫡搬措〈
能はぎるもの⊥めり.
れI⊥ん
推ふに事襲の前途倍速速なり.切に萱ハの武響X久を斬ると
共に、禿ね壷ある犠牲者に封し浬甚なる敬弔の意を梓ぐ・
又上海方面に勇教育閑を按けある各部顔中軸に全軍
の模範とすべき左記藷部隊に封し、十】月三8松井軍
司令官上り感状を樫典せられ、
姪せられた.
飯田部隊 天谷部隊
周上部験 せ森部隊
太海に裁て
十−月十九日 上朔に
和知部族
太湖ほ江、新雨省に確り、輿輿、長輿、宜輿、無銘、呉煉
(蘇州)、輿江六耗の管輔下にあり、湖周入育安里、附近
には巧小山があるが、概望丁軌で小糊多くn娼網を始め
大小河川蜘蛛の巣の如く通じてゐろ。☆上り官】憑叫る牽
隻し、女帝に於ける封指の農産地域で、無銭、霹州のこ粍
城は其の主事集散地として商工業捕る盛んであろ・駒鳥政
府南京覆都以来同地竣は政治、擬オ乃至軍事的書手性をせ
し、其の水利故に軍事施設は最近益l盛んになつた・
太潮の面秤は三草ハ千頃(約二千二宮徐平方粁)と辟せら
れ、流域地域は江南、斬西四十一脈市、南血竺衰九千飴平
方粁に注する.各地何れも水運凄めて便で、地味肥阜
安部に於ける屈指の農転地である.然し水利施設の不備よ
り火災、草災に見舞はれ甚大なる被害を彙ることがある・
太湖には銀魚、蝦等の魚類が多〈生息してゐる・其のま丑
明ちかではないが、相歯多如に↓り、之に従事†る漁船も
多放で漁業が盛んである.
潮中には山が多いが、洞磨山以外殆ど艮衆住居せず、居住
者は主に農家で大中上海に出て商業を鞍督してゐる・従て
比較的富裕で網庭山居住者は殆ど外部より無済駒壌助を受
け上Tと云はれてゐる.
大潮附近一帯は農作物が嬰官に東伯せられる.大采は米で
年恵攣一字常乃至四千塔石と構せられ、又棉の栽窄も盛ん
で年新約三首飴萬澹に差する.其の他奔、豆及蘇頼もyか
らず、殊に流域に於ける接線業は各地に普及され、支那に
於ける貰梯は太潮流故にまナるものが多い・
太湖衣附近には舟上り軒の梼址多く其の労力今椅大であ
る.海州、曹傲、山革河項大朝の富特赦に分れ・容赦、
河革木、ご療の労力最も大である.軒は何れも封建思想
b爪印謂報醐純絹蛇閑池川…
ぁるに加へ、軍事施設各地に施され菅何の最となるに放
て、軒の存在は愈く窮舞に略りつ1あるやうである・
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