杭州湾奇襲作戦に成功す 陸軍省新聞班
天皇陛下に於かせられては北東及内斉方面に作戦中の陸軍賂兵に封し去る十−月十二日午前十−時参謀級長の
官陛下を召させられ便壌なる 勅語を下賜あらせられた.
勅 弘呵
北支及内蒙方南エ作戦セル軍ノ賭兵ハ喩峻ヲ皮y劉濫ヲ招ミ克ク異域ノ野ヲ征キチ困昔卜故乏
−エ堪へ長碗霧馳向フ朗敵陣ヲ鞋砕y鼻成ヲ中外1ニ且揚セヅ股沫ク其忠烈ヲ佳何ス息クチ敵丸
五時レ蛮畏俺レタル者品及へハ塞ユ仲但I−腱へス
惟フ1→状兵ノ目的ヲ壌シ束縛長久ノ平和ヲ確立セムコト前程何密濠ナ,爾等轟よ収束ヲ捧属シ
「
救難ヲ克服シ以テ股ノ侶椅エ副ハムコトヲ期セヲ
【 枚 況
′山嘗戦線敢の牙塊たる太原は日本武士溝によりて、
什方三河人及非救掃月の立返きむ勒台したる後、正々の
陣、堂々の態度を以て攻宰を開始し九日完全忙之をわ
がチに収めた.
平丸線方面は河南北部の要地彰‖確域を売仝に占捜し
H域粥甘同く日‡凍を接げ、後方部隊また著々故地巧兵の簿
萌に成果を奉げつ1ある.
上海戦線は蘇州河を‥堪えて南下せる怒涛の猛我と、
杭州渦北岸の奇態上陸作戦に成功せる新銃部隊の疾風
的進平により長江杭州滞の塩辛なり、上海包興陣形尭
成せられ、南市一部の抗日分子を除き上海南京の命脈
は完全に切断せらる1に至つた.
陸海軍致の棟批は連H銀翼む連ねて江南の峯を裁つ
て各方面陸軍第一線に協力、温却の敵部隊に反復爆学
を加へ、その間海軍横は長鮨戦略委線を鶉つた.
〓 山西方声
太原攻略は我が分進合宰の作戦により同蒲線む南下
した部隊と正太線を西進した部隊との挟革に依り、潜
錫山が三十萬を以て防備した敵陣最後の牙城も敢なく
郎えた・
同蒲線を南下急温の我が部隊は綬々と太原域に辿
り、大場、雫飯廃却隊は北側から、長野部隊は東側から、
後藤、猪鹿倉部隊は西側から完全に太原城を包観し弗
んV こ
の死命を几革中に収めたが、無事の域内住民に戦火を及
一でん・たん
灯すに忍びず、飛行横による倖畢、軍使流浪等により降
伏掛合を行つたが、七日支那軍は我が軍使に封し爽鵡
射撃を加へ、何抵抗の戦意を示すに至つたので断乎太
庶域攻撃、域内確故破滅の火蓋を切つた・
段上たる砲聾は山西の天地もさけ上とばかり弗キ
集中する十字砲火は城壁を刻一刻と崩し、我軍太原入
城の勇批なる前奏曲を奏するかに見えた・
八日午前九時三十分太原城壁東正面の一角は萱島部
隊により占接、大場部隊又午前九時三十分北側正門の
・す ガ
一角を占撮し、潮の如く域内に雪崩れ込み鴎析に市坪
戟を展開し確敵を掃涛した.
一方長谷川部隊は太原城西例を迂租南下し七日午前
十時南太原を占領した.更に入日扮河地富を甫進、
九日正午凡そ一千名の敵を清瀬に放て弊政同地を占挽
した.
太珠に舵て
太原は山西省政府及太原軍事委員骨太庶分合の斬在地で
山西省の政治、軍事、教育等の中心地であり人口は杓十萬人
である.(稟、粍済の中心は輸式、太谷地方に在り、河北方
′■んと
而に向ふ物資の呑吐も亦其の地方に於て行はれてゐる●〕高
さ的十米、厚さ杓五米の方形の拭牽を有し、北安長大の兵
工廠たる太原兵工廠を脅し各瑞兵器押葉を叔逢してゐる・
南方三十粁位の析に別に大麻粍と云ふのがある・其の小林
邑は太原耗城と呼ばれるが別のものである.
支那章命に鞍し嘲錫山ほ此の地に兵を辛げ、帝黎牝の地
に在つて富山西モy∀−主義と稀して夢睾げ、山西
樺埼省と桝せられた.一九三〇年反落濱勅を為したが失敗
して一時此の地を捨て1法亡したが、費年再び此の地に点
々軍政府より太畔招喝主任に任ぜられわ「一九三大年に
中央帯が火縄耶肘伐の名打で牧師の兵を此の地に入れ、こ
とに出門モソロー虫菅破れて中央化しで仕舞つち今次
#巧に怖しては山河中絶揚力葡招故の仙古跡地となつたが、L
今や阜耶の璃め永く死禽を刺せられて仕*つた●
戦略的に見れば簑舵としては四万に瞼披なる山岳を舛
ちし、所謂守るに仰であり、之が開錫山をして十救年の永き
に瓦つて山押モソP−東山裏切せしめたのであるが、皇
‡の前には此の究輿の箪も何等の管・ヽとを捏明し
た●
牝の万両の敗戦により敢ほ粂く北真に姶ける推動の墟虫
を失ふに禿り、和琴の京漢、洋浦雨尤同に放け轟河以北
の作鞄湛抄と和代つて、辣に北蛮ほ坤かし彙を収
めたものと謂ふを柑べく、北家→帝の明朗化は常に速度を
加ふるに繁るであらう.平に太戦果が婁那軍の
恵気を氾施せしめ、蔓簡の仲故汁峯て輿ふること
亦膏人の柵但丁晶である.
正太線方南より水原晶して西池せ晶茸−小林、
森本、鈴*、岡崎の各部酸性敗潰する敵を敷浪し、石門
口、中盤、陀泉、帝暢の各地を次々忙占操し、北方部
陳と呼喝敢節を牽制しっ1四日夕刻小林、鈴木粥部
匪は愉次を占埠同蒲線を太原南方に於て遽鞄−敵の
屯路忙迫カ、七日森本部味は太谷耕北側地硬より南方
に向ひ魚油埠中である.
我が轟革は四日太原西璃方五里清瀬附泣を南方に向
ひ、温坤中の散乗用革ニ†、−ラック五十を犠♯し、
徹底的煙管を輿へた.
≡ 卒演線方南
鬱積攻弊を坤備中であつた我軍は四日早朝.ょりÅT
田、速喝今の緒部隊は砲、婁協力の下忙猛攻皇開始
し、午前∧時項停車場附近一帯を占捜し、午後二時年金
に彰徳域を完全に占捜し、域預高く日章碗を掲げた.娩
内の敢は五官の死樟と無数の武辞推奨と要して、南
方忙敗走した.我軍は敗球兵を稀萌しつ土浦下の浄備
中である.
杉律 ほ苧漢線に於けろ黄河以北の最後的払地で、西ほ山
西の鼻緒を有し、東ほ直路大名に攣る蛮池由毒
で、大原方簡との政治経済轟の朗係ほ豪群に次いで¢
要地であろ.
四 津浦聾丙
敢の小癖なる鍵製を盤丁温し後方の敗残兵シ轟漬しっ
つあ少、此の方南は大なる変化を見ない.
五 上海戦根
上海方南に於ける戦局は嘉定常翔を結ぷ北部戦線
と、概ね蘇州河の線による南部戦線のこ方面に放て農
村されてゐたが、五日未明我が新政部隊は爽如枕州升
の北岸地隈に敵前上陸したので戦線は新たに此の方面
にも長山開された.
北部裁線の最右翼部隊は三十日来新銀攻半を印棉し
周字橋等を占領後、劉河鍔方面を照迫、中央部に於て
は楊淫クy−クの要鮎廣帽鋲の爽角に撮る故に射し田
代、南角、倉林の各部隊は三十日釆攻撃を開始し、井
の側面の新木椿、載家宅、老陸宅の各陣地を占操「廣
緒銀の包衝陣形を完成之を郎迫中である.
左翼方南では安達、津間、和知の各部難が甫翔に向
って敵を攻卒中で、南翔東側の揚家宅、馬路潜「金家
宅竹南、郭家宅、箔家宅等を逐次占領し南翔の散大
軍を−耶迫申である.
南部戦線に於ては下枚、脇坂、富士井、伊佐、田
上、石井、席埠川並の各部験は勇敢なる工兵部族
の架穂偉業と強力なる砲兵の掩護射♯の下に、三十−
日米各祈に於て決死的敵前渡河を敢行、攻東に戦果と
凍張しっ1あつたが、四日八手椿の占領に上り放は大
判格を来し、この方南に績力演軍と集中し、五日には
蘇州河以南埠隈に的十萬の大軍が充満するに室つた.
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七日夜頚強なろ故の斌統を耕険しっ1猛雨泥渉を■
して極力攻♯と横行し、八日朝に至りビアス路甫方侃
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巻上、林骨格南方朱家宅専の敵陣を速攻奪取し、九日
ヤ前十時二十分鴨坂部隊は今次上海事轡底接の導火線
大山大尉事件の軒棉飛行場を占塙し、正門屋上高く日
章旗を掲げ、感激の高磯を唱へた.蘇州河を渡河し敵陣
を突破し、浪頓中の川並部隊は一路中山ふ指を疾風の如
西南方滑河経に達し、去る∧月二十三日乳野上陸以殊
勲戟奮闘音に八十飴日、こ1に上海市の包囲全くなり
上沖全線忙萬歳の畢晩秋の天地を稀がした.
各部隊はすで忙南市を一完全に封鎖、咽喉を舵して】
気に葬らんばかりの態勢にあるが、域内無事の民を戦
術より救はんとする慈悲心を以て柊の進学を中止し市
中に侍畢を撒布替曾を卑する外、戦車隊の一部隊、憲
兵隊の一部隊が南市の一部に入り凡ゆる方法を壷し南
市の中和的明渡し工作を行つてゐる.
隆軍飛行隊は共の全力をあげて海軍舵室保と聯合
し、八日早朝より日洩に寅るまで速くは常州、湖州、杭
州方面の敵後方部隊の状態を捜索し、近くは敵第一線
陣地の要鮎を弊破し、地上部隊の攻撃に協力すると共
▲ しム
に、鳥山、嘉輿、青浦、蘇州等に招集する敵軍隊故に槍
簗、繊椿等を猛爆し、敵後方部隊の純乳、返却行動む
妨審をなし敵・に多大の脅威と拍車を輿へた.
南翔、蘇州河の敵陣地の中央竪鼻たる江補山耕に向ひ、
入日早朝から攻撃を開始した.和知、湧間柄部隊は∧
日午後三時激戦二時間飴の後、和知部隊は東北部か
ら、湧問部隊は東部から突撃し之を奪取し、敵は南翔
」万両に敗未申である.
更に江椅錦西方張家宅、朱家辛などを占捜し西方忙
敵を那‥泊〜中である.
別に陸軍の一部は粛○艦隊司令長官指揮下の海‡二
部の碑凍なる協力の下に、十一月五日未明折からの漁
簿を官し彗北岸に敵前上陸を敢行し、大成功む収
めた.糊意周到、秘策辟守、陸海軍の協同一致等よく
敵の嬢を衝き戦史に輝く一貫を加へた.
上梓確驚異的快速雄琴を続け」黄浦江を鎗えて北改
申であつた我軍は研奄の敵を騒壊して銃意北進を攻
こ 小,一’
け、共の一部は七日柊江西方地囁に放て渇杭雨革姐と
憑断し更に北進した.
租江を攻撃せし岡本(銀)、岡本(保)、竹下、長谷川
の諸部隊は八日午後稔江を占嬢し、引続き同地西北方
の確敵を浪宰、片岡、野副、漆山の諸部隊は同日午後
穐沌錦を奪取した.
斯の如く上海西南方地萌の我が作戦は極めて有利に
漉展し00部隊は緒義南北の線に進鴇、00部族は
粥琵鏑、金山鋸の線に進伯⊥、故に南北爾軍感激的塩
辛をなし、江南の仝野日薫坪き渡り待望の上海包池
畔は完成きれた.
甫市に操る抗日分子の撤温を宰求中であつたが、丼
の熊度強硬であるため、断乎故半と開始し飛行増」主
砲を以て爆卒、砲辛をなし、十日午後士でに沸租界常
例クーーク地濱の薄満と経つて、宵市クy−クの線に
進出するに至つた.
滞軍杭全牒は連日の如く重要鋳潰路の爆破陸軍部隊
の協力に昔々成果を収め、十自長指南京島ひ華幻出
漁常に敢の心牌を塞からしめつゝあ亀.
六 上海攻略の委
十−月九日・我が南北空丁豊の如く弗の手と塩少
合ふこととなつたので、‥故に上浮は全く支那中央政府
より樅れ純立の渾命に聾した..
支那が如何に窒組してゐたかは、策の近傍に
支那各地か⊥鼻ハ十師七十州帯以上わ兵力、武豊も精
銃なる中央墨T・と著し、盆宜丁亦韓の・主力と山昔方面
に使用した事転以篭、しても察せられる‖.
東郷軍は義から構築した共同租界窪地笹の
t−チカ▲陣地故に笠わ部落夕甘T−タ管利用し、到
ll虫rい
る虜堅固なる拷萱を有する陣地義兵し、兵力
の増加と共に愈−鞋の萱如し、戦場の薫く」陣
地たるの歓を量したのにも拘ら“て、我軍が寡兵克く▲今
日の成典を得たことは、.粥に同慶に堪へない朗で粁兵
の山男戟健闘は血耳に感激の外はない.
上海戦線の勝利は在留居留民救漢の目的達成は固よ
り支那革に輿へたる鋳札的打平によりて彼等が如何に
大軍を集中し如何なる竪陣によるとも、我が狂故には
速に托し能はぎることを如‡に立辞せるもので、彼等
の戦意を破砕すろに輿つて教典あるべく、叉政治的中
心の南京に射し紀代支那経済活動の心械として、押角
政府の命の網・たる上海を切断したることは、南京政府
の運命に大なる影響あるを香定し得まい.勿冷麦邪と
しては南京上海間の連椅杜屯に虚するの発情と準備と
はあらうが、南京政・府が危瞼皇国仙琴に希薄するととは
決して昨日の此ではない−支那府懲の戟は北方尤原の
陥落と相保つて今や山野に本格的軌道に進められ鼻坪で
ある.