第五三号(昭一二・一〇・二〇)
臨時資金調整法に就て 大 蔵 省
製鉄事業法に就て 商工省鉱山局
百貨店法に就て 商工省商務局
石家荘・緩遠城の攻略 陸軍省新聞班
支那海軍を撃破す 海軍省海軍軍事普及部
事変と支那言論界 外務省情報部
最近公布の法令 内閣官房総務課
事変と支那言論界
外務省情報部
支那事変が始まつてから後の支那言論界の動向、支
那各地で発行される新聞雑誌が、事変をどんな風に報
道、評論してゐるか? といふことは、日本としても知
つて置かねばならぬところであり、又興味あるところ
でもあるのだが、事変勃発とともに、配達、郵送機構
が一時こはれたものゝ如く、到著が不規則になつて
ゐるので、到底其の全豹を窺ふわけに行かない。然
し間歇的に入手する新聞雑誌に拠つて、大体の状況を
察知することはさまで困難でない。
先づ眼に著くのは、平常は二十四頁もあつた大新聞
が、六頁か四頁に縮小されてゐることである。ヒドイ
のになると僅かに二頁といふのもある。事変で広告が
激減したのと、「紙荒」即ち紙の飢饉が原因になつてゐ
るものと思はれる。平常通りの厖大な紙幅を維持して
ゐるのは、香港の新聞ばかりである。其の他の地方に
至つては、例外なしに大々的減頁をやつてゐる。雑誌
も大部分停刊したものと思はれ、停刊しないものも、
精々十六頁か三十二頁くらゐの小雑誌に変形してゐる
やうだ。邦人の間にも多数の読者を持つてゐる「国聞周
報」が、十六頁の「戦時特刊」になつてゐるのなど、ち
よつと悲惨だ。
報道振りはどうか? 蘆溝橋事件から大山大尉事件あ
たりまでは、周知の通り、「支那は連戦連勝し、日本は
連戦連敗してゐる。」といつたやうな報道を満載し、其
の結果各地で戦捷祝賀大会をやつたりしたものであ
る。上海に戦禍が移つてからも、かうした報道振りに
は大して変化なく、荒唐無稽に終始してゐるが、流
石に大新聞といはれるほどのものは、いくらか良心に
咎めるものと見え、最近では支那軍の敗戦を認めるや
うになつて来てゐる。尤も、「保安方南の我軍は、戦
略上の必要から、新陣地を南方某地に設けた。」といふ
やうな書き振りではあるが、ともかく事実は事実とし
て報道するといふ風に変つて来てゐるが、「小報」即ち
豆新聞に至つては、依然として荒唐無稽振りを発揮し
てゐるし、又広東、香港あたりのは、これに輪をかけ
た、途方もない記事を掲げるのが多い。 ― それらの
ヨタ記事の見本を示すと左の通りである。
〇日本海軍飛行機は、終に我が先施デパートを爆撃
し、罪なき民衆を殺傷した。
〇日本の侵略行為に対し、我方は報復を実施すべく
東征敢死隊を組織し、東京、大阪、神戸等を空襲
することになつた(九月十日)
○平漢、平綏両路の我軍の進展は極めて神速で、張
家口、長辛店を前後して恢復した。日本軍は北平
に向つて撤退しつゝある(九月十三日)。
〇敵の飛行機は終に我が国旗を使用し、我が飛行機
に偽装しつゝ広徳を爆撃した(九月二十七日)。
かういつた夢物語に類する記事を、平然として載せ
てゐるのである。
評論の方面では、例に依つて例の如き日本攻撃の論
文の外、避難民の救済方法、救国公債募集問題、文化
中枢移転問題、戦時教育、戦時財政、聯盟提訴問題、
米国の態度等を論じたものが多い。一々其の例を挙げ
る煩を避け、これらの論評を通じて感得されるところ
を要約すれば、列国の干渉を誘致しようとする意向
が、極めて濃厚なことである。即ち日本を以て、世界文
化の破壊者であると誣ひ、日本は支那でかく/\のこ
とをやつてゐる、列国はこれをしも黙視するのである
かといふ類である。ヒューゲッセソ大使問題の時な
ど、其の狂奔振りは笑ふべきものがあつた。尚、目
前の戦局については、当然論評で触れることが多い
が、流石に敗戦の事実を如何ともすることが出来ず、
不承無承これを認め、怒りを地方軍閥に遷し、閻錫山、
韓復の二人が狙上にあげられる。抗戦について、支
那内部の不一致がこゝにも窺はれる。
以上の叙述で、観察の対象としたのは、支那人の所
謂ブルヂョア新聞、雑誌である。彼等は内心戦争を欲
しない。然し環境上、それを表面に現はすことが出
来ない。致し方なく、いかにも抗日情緒に燃えてゐる
やうに装つて、宣伝記事を書かなければならぬ。ちよ
つとでも本音を吐くと、忽ち迫害の手が下る。上海に
於ける大陸報、大公報記者銃殺事件は其のいゝ例であ
る。だが、敗戦は動かすべからざる事実であり、それに
因る状況の緊迫は、新聞経営を益々困難ならしめる。正
に新聞社及記者の受難時代であり、落附く先きは停刊
と失業の外はない。上海大公報の漢口移転の如き、彼
等に取つて一つの方法たるを失はず、所謂文化中枢移
転の先駆として、一応賢明なやうであるが、さて漢口
に移つてどうなるか? 紙代は高く、広告収入は減じ、
うまく経営が出来るかどうか疑問である。 ― かくの
如く、事変はブルヂョア新聞に与ふるに致命的打撃を
以てした。
然し、かゝるブルヂョア新聞の苦境を尻目にかけ、時
を得顔に跋扈してゐるヂャーナリズムの一世界がある
ことは、事変を繰る支那ヂャーナリズムの一異色風景
である。それは、 ― いふまでもなく抗日アヂ新聞、
雑誌の跳梁である。
かうした豆新聞の横行は、然し事変後はじめて起つ
たのではない。抗日運動の領導権が、中国共産党に移
りつゝあつた一九三四 ― 五年頃から、これら豆タン
クの合法、非合法舞台に於ける活動が目覚ましいもの
のあつたのは事実であるが、西安事件後、国民党と共産
党との合作が著々進捗し、やがて今度の事変 もう
誰に憚かるところもなく、縦横無尽の乱舞を開始した
のである。九月下旬までに入手し得たものだけでも、
次ぎのやうなものがある。
(一) 「救亡日報」。上海市文化界救亡協会の機関紙で、
タプロイド型日刊四頁。茅盾、郭沫若、巴金、潘漢
年、鄒奮、章乃器、王芸生等を幹部若くは主なる
執筆者としてゐる。
(二) 「抵抗」三日刊。三日に一回発刊の雑誌で、四六
倍判十二頁。鄒奮が編輯人となり、郭沫若、李公
樸、鄭伯奇等が書いてゐる。
(三) 「吶喊」。左翼作家の根城である「文学季刊」の後
身と見るべきもので、不定期刊。幹部は巴金、茅盾、
胡風、蕭乾等。
(四) 「汗血」三日刊。藍衣社機開誌「汗血月刊」の別働
隊で、四六倍判八頁、幹部は劉達行等。
(五) 「戦時教育」。鄒奮の「生活者店」から出てゐる
四六倍判十二頁の旬刊。執筆者は陶行知等。
(六) 「文化戦線」。上海編輯人協会の機関誌で、四六
倍判三十二頁の旬刊。艾思奇、金則人、姜君辰等。
(七) 「戦時特刊」。「国聞周報」の戦時版で、グラビュア
もあり、四六倍判十六頁の三日刊。
(八) 「戦声画報」。四六判の五日刊。
(九) 「抗日画報」。四六倍判二十頁の純画報。
(一○) 「抗敵画報」。同前。両誌とも英文説明が附い
いてゐる。けだし外人にも読ませようといふのであ
らう。写真其のものも相当の出来栄えを示してゐ
る。
(一一) 「戦時画報」。同前。良友図書公司発行。
(一二) 「非常情報」。タブロイド型十四頁の旬刊。茅
盾、鄒奮、杜重遠、張仲宝、郭沫若等が執筆して
ゐる。
(一三) 「抗日輿論」タプロイド型十四頁の半月刊。
右諸雑誌の執筆者中、最も有名なのは、何といつても
郭沫若であらう。つゞいては所謂人民戦線派の章乃器、
鄒奮、李公樸等であり、更に茅盾、巴金、鄭伯奇、
胡風等の左翼作家であらう。「新生事件」で一時入獄し
た杜重遠もあれば、ブルヂョア新聞「大公報」記者の王
芸生、「世界知識」編輯長金則人等もあり、純粋の共産
党員としては潘漢年が「救亡日報」で連日毒筆を振つて
ゐる。
これら抗日アヂ雑誌の宣伝方法は、単に論文だけで
なく、新詩、童話、漫画、脚本、流行歌はいふに及ば
ず、「大鼓」といつて、我が講談に似て、これに噺子のつ
いたものがあるが、其の大鼓の台本などにも上海戦争
を織り込んだりしてゐる。「閻海文」 ― 上海の空中戦
で討死した支那空軍の勇士 ― と題する大鼓台本を、
趙景深といふ男がつくつてゐるが、其の最後に閻の墜
死を叙し、「此の報道が日本に伝はりますと、大阪の
新聞は競うて此の勇士の死を報じ、我が国人士が涙
を注いだだけでなく、敵人も亦其の勇に感服したこ
とでありまする。曰く中国は昔日の比ではないと。
閻将軍の壮烈な犠牲は、一場の大戦、驚天動地鬼神を
泣かしめ、正気浩々宇宙に垂れ、壮士の英名は乾坤に
振つたのでありまする。」と節面白く結んでゐる。例
の抗日巨頭馮玉祥も、種々な豆雑誌に新詩を発表して
ゐる。
― これを、現に支那ヂャーナリズムの一異色風景と
のみ看過してはならない。今次の事変が、所謂抗日人
民戦線派の活動を主たる原因としてゐる以上、彼等の
指導してゐる抗日アヂ雑誌が、其の形態の微小なるに
拘はらず、実に事変ヂャーナリズムの主流となつてゐ
るからである。「申報」、「新聞報」、「大公報」のやうな
大新聞でさへも、今日では此の主流に抵抗し得ず、甘
んじて後塵を拝して抗日論評を掲げ、或は其の論壇を
抗日論客に開放するのやむなきに立ち至つてゐる実
情である。実際、国民党は其の民衆に対する指導力を
喪失し、特に言論界に於ては殆ど其の存在すら認めら
れず、又人民戦線派に終始反対し来つた中国トロッキー
ストは、「大路」週刊に拠つて依然其の独自の筆陣を張
り、国家主義青年団も反共産の立場を守つてゐるが、
いづれも人民戦線派に対抗し得べくもないのである。
かくて人民戦線派は、終に一挙にして支那言論界を
壟断し、背後の中国共産党及コミンテルンの指導の下
に
(一) 今次の事変は、日支の全面的戦争であつて、絶
対に妥協の余地がないこと。
(二) しかし日本の大衆に対してはこれを敵視せず、
むしろ相提携して日本国内の攪乱を図ること。
(三) 最後の勝利を得るためには、あらゆる犠牲を忍
び、持久戦を以て臨み、日本を国内から崩壊させる
こと。
(四) 全面的長期抵抗に堪ゆるため、中央及地方政府
を戦時機構に改め、日本との妥協を策する分子を排
斤し、各党各派の強硬なる抗日分子を参加せしめ、
且戦時経済統制を実行すること。
(五) 民衆を組織化し、抗日教育を普及し、武装を許
し、救国に関する言論、集会、結社の自由を与へ、
生活を保障し、漢奸を粛清すること。
(六) 日本は世界の平和を破壊する公敵なることを宜
伝し、英米仏蘇各国をして対日米同戦線を張らし
め、進んで太平洋集団安全制度を樹立すること。
(七) 孫文の聯蘇政策を復活し、蘇聯と相互援助條約
又は攻守同盟を締結すること。
といふやうな宣伝綱領に依つて、シッカリと支那
民衆を把握しようとしてゐるのである。これが支那に
於ける事変ヂャーナリズムの核心的事実であることを
我等は牢記せねばならぬ。