第四七号(昭一二・九・八)
 皇軍中支を衝く          陸軍省新聞班
 迅雷の攻撃続く          海軍省海軍軍事普及部
 事変を繞る列国の動き       外務省情報部
 第七十二回帝国議会に於ける国務大臣の演説
  近衛内閣総理大臣演説
  広田外務大臣演説
  賀屋大蔵大臣演説
 最近公布の法令          内閣官房総務課

贋 札 外 番 犬 臣 演 説
  今次支那事華に封しまする帝何故府の所信は只今混
 帝搬理より御詮明になつた洩りでありまして、私は故
 に皇叩倉後に於ける本事蟹に閑する外交の経過に付き
士して和増陳述致したいと存じます. ふくわくだ
  ‡奨勃教以来、帝閲政府は、現地解決事態不疎大の
 方針に基きまして、滞京政府の速かなる反省を求め、
    し1しふ
 時局の収拾に努力し雑つたのであります.然るに南京
   小l
 政府は奄も祓意を示さず、益、中央革を北支に集中して
     て1†ん
 我が方忙桃乱し来ると井に、揚チ江流域及南支各地
     いんけん   はいE●
 に放ては筐極まる排日を行ひ、是等地方に放ける我
                         ●−−い
 が轟留民の平和的椚動は固より、丼の生存をすら危殆
 ならしむるに先至つたのであり士す.斯かる状態の下
 に放きましても藤岡政府は、何出来得る眠り事態のや
 和的収拾を期しまして、溝口を初め、長江流域魂留邦
 人と全部引抜げしめたのでありまナ.虚が井の篠偶、
 ∧月九日上海に放きまして、我が陣取験の大山中尉及
 ♯♯水兵が、支那保安陳の名無球忙殺帝せらる1に至
 り士したが、我が方に放き士しては何努めて平和的解
 決の方針を以て之に虚しまして、右保安駿の急速なる
山野也に昭和七年の婁先に撞艮する各種の軍‡
     †、つ●■一
施設の撤去を求めまして、それに俵つて事態の収拾む
 d小
何らむとしたのであります.然るに支那偶に放ては育
と左右に託して之に應ぜざるのみならす、益、停戦罷域
内に於ける共の兵力地に軍事施設を埠大し、我が方に
対して不法にも攻勢に‖でました食、帝国に放ては已
   カ,●ふ 々 も
むなく應急の措紀として、少数の海軍兵力を上海に埠
壮しまして、我が居留民保捷の安を全うせむことを期
 したのであります.
 斯くの如く上潅の形勢が不穏に立至り士するや、八
月十−日夜南京英米礪俳伊の五簡閲大使は、日支費方
に封し、上海に於ける外閑人の生命財産の安全を計る
     へいくわ ち’た
名、同地を兵火の巻とせざるやう、出水得る眠りの稽
確を練ぜられたき旨申‖たのであります.之に封し帝
囲政府は、上海に於ける内外人の生命財産の安全は、
固より我が方に於ても食も桝射する朗であるのであり
                       けふゐ
ますが、是が鶉には租界附紀に鵜川し、我が方に脅威
を輿へつ1ある析の支那例の正規軍及保安陳を交戦
                           Tウ
拒鞭の外に撒逢せしめ、租界附近の軍事施設は是が撒
 し,
牧すると云ふことが先づ先決同額で、支那側忙して右
條件と受持するに放ては、我が方の陸取除の配備とも

 亦常態に祝するの川悲ある旨を答へまして、関係列娼
 に於て兜づ支那倒をして右條件を受諾せしむるやう労
 力せしむることに致したのであります.然るに支那刷
 は右和が方の臆急場切なる條件むも耳を傾けなかつた
 巾であります.次いで八月十三日には更に在上流仰の英
・・米仰三術拘絶朗事よ牡交職停止方に関する新しい−
・つの典憫案を示して参りまして、日支間の屯接交渉を
 行つて、目前に氾つて居る危横を避くるやう蟹方に中
 川たのであります.非の申入は八月十三日の夜牛に東
 瀧に背きました.交郷側は是にも拘らず絞々上海附近
 に脱税箪を弛めまして、眈に同日の午後から攻解を始
 め、十四日に車つては遽に戦が陣戦隊及革艇奴に粗銅
 耶仰のみならず「机界内随桝に烙印を投下するの界単
 に川ました為に、事故に責りましては帝国としても故.
                          ●ん●ん
 卒中和的収拾の望を拾てまして、三筋人に重々とする
 粥が居留民保故の馬に、逸打数嗣を行はなければなら
 ぬ事態になつたのであります.斯く致しまして関係列
 国の卜労力も、支那例の熟拳に依りまして一瞬忙して水
             ▲の 小ん
 泡に挿したことは誠に逝憾に堪へないと息ふのであ少
 ます.
  斯くの如く上池仰一帝は戦火の巻となりました結典と
 して、紆掛忙莫大の投資と多数の居留民を有して居る
 仰の閥係各閥は、日然之に封して訳大なる関心を示す
に至りまして、英固からは更に八月十∧絹に「日東南
 国政府が費方の兵力を稚温し、共同料界及撼界路魂佳
 日本田代の保沌を外固倒に委任するに於ては、英閲政
 府は他の列閲が「イギyス」と兆に同l行動に貼る眠
 り、北ハの安住を執る川想ある」旨を中川たのでありま
 す.「フラyス」政府も亦現十九日に、右英開政府の中
 川を支持する旨を中川ましたが、共の以前から米閥政
 府からも、上海に放ける馳率を停止する研の希望女中
 並べて参つて居つたことがあるのであります.▲帝団と
 致しましても是等の諸岡と同様、上海には東大なる利
                小ん〃
 零細係を持つて居りますことに鑑みまして、‖氷るだ
               ●払ん
 け同地の平穏を加軍念する攻粛でありますが、前忙速べ
 ました如く、今次上海に於ける支那例の行動は、昭和
                   一〃川
 七年の上海停職協定に速反して、渡りに正規軍を協允
 地域内に入れ、保安隙の政及武装を均強し、衆を和ん
 で我が軍民に挑戦し雑つた吹粛でありますので、此の
 英国政府の申出に封しましては、先づ我が方従雑の平
 和的の努力姓に支那側の不法攻撃の懲情を詳細に稔明
 しまして、上海に放ける戦闘は、要するに支那仰が直
 ちに右正規軍を協史地域外に撒過し、保安隊を前線よ
             し●う一々く
 り注ぎくるに依りてのみ、経線するの外なき旨を岡谷

 致しまして、「イギyス」も元木停戦協党閥係固の→つ
 でもありますし、速かに支那兵の停戦直域外撒温を資
 現せしむるやう.轟力せむことを求めまして、「フヲy
 スJ及米国に封しましても、それ▲r−略、同様の趣旨む
 河谷致したのであります.
 何北支に澱きましては、支那側は従来我が方との間
 此存在しました各種の約諾む蝕組して大軍む北上せ
 g柏ノ頻打ソに挑戦的態度に出て屠るのみならて更に
 索恰筒音南にも練々軍隊を進出せしめて参つたのであ
 りますので、戦が方と致しましても断然之に封鹿し
 て、簿切なる措億を執るの巳むなきに室つたのであ少
 女す.
 以止わ如く戦脚は今や北東のみならて中東緒方面
 忙も波及し、帝南柏逸に東郷との間に鹿範単に五つて
兵火を交へぎるを符ざるに室つたのであります・又中
南支及山東に放ける約五萬の我が居留民は、多額の投
資、多年の地盤及権益を後に球⊥まして、潮揚ぐるの
 巳むなきに立至少、更に戦火の犠牲となつね居留艮も
相常多きに上つて居りますととは、甚だ痛心忙堪へな
 い朗であります.−方在支粛三河人も亦我が居留民と
同様に、困難なる立場に置かる1青も少くないのであ
妙ます.是は舵に東の埼なととであると官はなければ

              一Pウ●●▲′
 なりませね.併しながら是れ畢東南東政府のみなら
す、地膚軍閥に至る宅、多年自己政樺強化の名に排日
       †ん’▲,
抗日の気風を煽動し、民心を激化するのみならず「進
        こ−小ふ
 んでは赤化分子と筍合して、日真の国交を益、感化せし
 めた結果に外ならないのであります.今や我が忠勇な
                        小んく
 る畠軍は、皐固†致の後叔の下に、日夜有らゆる鞄晋を
沸して戦圃に徒ひ、目覚ましき教典を奉げつ▲ありま
すことは、虜に感激、感謝に堪へない次第であります.
          ■て†            _与わていけい
 我が帝留の圃是が日浦安三園間の融和提携に伐つて
東亜安史の基礎を築き、以て共存共奥の‡を奉げ心と
するにありますことは、今更申す進もないことであ少
ます.然る忙支那は竃も我が虜草盈紺解せんとせず、
却て今日の如く大軍を動かして、我が軍艮に向つて参
り士した以上は、我が方も亦之に封鷹するの軍事行動
     ∬ん;     ††い lさ小
に伐つて、断乎として支部の猛省を促すことを急津
                     L■上−●
とするのであります.而して帝拷の麻幾すg腑は北支
 ●い一■▲7
を明朗ならしめ、支那仝はgり今何の如き戦術再教の
薮を除き、雨何の国交を網島k依て以て紺逃の国是
を‡現せむとするに外ならないのでありえす.故収私
            さ9くわん
は東郷為政者が東亜の大局む洞赦し、速かに反省し
て畜の理想に順應し爽らむことを望んで巳まない次
▲罪であります.