第四五号(昭一二・八・二五)
爆音南京に轟く 海軍省海軍軍事普及部
其の後の北支戦線 陸軍省新聞班
拓け行く樺太 樺 太 庁
上海の話 外務省情報部
最近公布の法令 内閣官房総務課
其の後の北支戦線
陸軍省新開班
丁 寧接線万両の状流
山r ●
南口附悲から居庸閑を経て八壌嶺附近に至る平成線南側の地囁は、峨々たる山嶽為重にも喪し
けんL●ん けふりよく
瞼唆せ極めてゐる0加ふるに連日の露天候は、飛行横の協力を困難ならしめ、且慈路を賦桝と他ゼ
かんく ●lアームく・
しめつゝ参るが、我軍は参らゆる戴昔を克服して昔々其の地歩軋進めてゐる。
即ち十二日午後入時頃完金に南口鎖を占墟した我が部隊は、十三日午後四時三十分同地の北側蛾鑑
だつL小
線路南側の高地を奪取し、十四日夕渦坑附紀支那軍第入十九師の陣地に射し攻扱者開始、之を攻略し
て十五日夕我軍の第一.線は湛殿、罫の線に湛出した。
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別に坂田部隊は敵陣地の右翼方南を竜同すべく行動中で参つたが、十三日午前入時松樹逮附近に、
十四日夕には長城線に乾く港出し、ニニ九〇高地を占領ゼる第四師の約一師を攻撃中で参る。
たい官
我が萌兵隊は日下徳勝口に参る支部軍と野崎んてゐる。
〓新掛軒方南の胱流
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兵力未絆の支那軍は十三日夜八軒(徳他西方約五十粁)西方地富に侵入した一が、曳十四日梯喚から商
●り●lノとん
都駐屯の内禁軍は、砲を有する約三千の
支那畢騎兵の攻撃を受け、又五台(張北
西北方約七十粁)には同日午前入時頃約
八官の支那兵叔批し、同地駐屯の内蒙軍
と交戦中である。 ヽ
lニ卒漢、津浦線万両の状況
平漠線に於ては、辣州より固安を経て
其の東方永定河に亙る線の支那畢配備は・
のlノみり
盈−汲密とな打つゝ参る。津浦線方南の
欺況は大なる…轡化がない。
甘 卒薄地方の状況
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北文人の北支安定を目指す民衆の機運
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は漁て醍醸中で参つたが、今岡の北支事
せんrいいちぐう ばり
襲を千撃遇の好機として釦郎として勒
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興し、各界より邁披された民衆代表は、十
皇
六日自動車約首婁を連ねて北平宰円を隈
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孝く示威運動を行ひ、#介石政樺の抑郎、地方治
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安耗蒋曾の鼻面的支持、共産乱射齢等のヌ了ガ
yを碑げ注停紺青二十常枚々那かし、且軍紀堪正
にして男敢無此の皇軍を郎那し、一般民衆に基
か’Lやう
礎を置く新政樺の樹立を高唱した。何乙れ等の代
表は北平武官及特務機閲等を歴訪して鼻音に感謝
山rつ一ブーー
の意を未了ると共に、日支合作の下に前述の目的
姦成ゼしめられたしと切望し叱。
北卒附乾各瑞鼻骨、商曾及エ曾等地方自治神償
の河瀬於て計蟄申で参つた河童安搬持轟合
†は、十日凝曾式を畢げ、孟玉柴が・主席とな少、
十四日には曾朗々決定した。十七日其月代表は北
平に至り〕我が部隊、葺湘、帝政府、公安局等
を鹿敬し、各僻の発情を報合し、併せて今後北平
治安維持曾と密接不樅なる抑係を結び、河北省の
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地方民心安定、蔑策経済の積極的復興に′向つて邁
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準したき旨申入れた0
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北平治安雄持音では畢枚に於ける粥粥教育を叔
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稚アるため、教科脅改訂委員禽を設立し、新たに
教科専を遽定する乙とになつた。
又北卒市内抗日同音の没収焼却は警察局等身写
一
によつて励行せられて居つたが、十日頃漑は軌軒
完了した。何者店に於ても爾後此の種同音は絶対
に取扱は瓜乙とゝなつた。帯揚箭北平で孝行され
て居た新月は三十七種に上つて居陀が抗日系
華北日報、世界日報等十三敢は閉鎖せしめられ
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郎かに駄嘲を保つて居た掛新政務葬具甘は轟に
ひ−りん
南京系委員八名を罷免し、三日其の後任に江朝
来、冷家磯、潜敏捷等北平治安維持曾の委員を補
充し、十一日には新たに陣中字、江朝宗を常務委
lIやlノほん
具に任命する等延命兼に狂奔して居たが、形勢8
に非なるを悟り、遼に十八日自費的に同†を解散
するに室つた0
北卒西北方に参る頓和固(万春山)管理事務廃兵
は十三日我が北平駐在武官を来訪し、「本固は八月
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初旬迄時々普ありしも、日本軍淘外に駐屯して
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保注を加ふるに至りしにより毒も毀損する朗な
し。日本軍の軍紀厳正にして犯す朗なきは誠に戚
救に堪ヘアLと特に公文を以て感謝・の意を表した。