第四四号(昭一二・八・一八)
 長江に動く帝国海軍        海軍省海軍軍事普及部
 北支・中南支の情勢        陸軍省新聞班
 北支事件特別税法に就て      大蔵省主税局
 支那共産軍を語る         外務省情報部
 第七十一回帝国議会の概観     内閣官房総務課
 最近公布の法令          内閣官房総務課

北支・中南支の情勢  陸軍省新聞班

一 平津地方の状況

 我が駐屯軍の猛撃に遇つて、平津地方にあつた第二十九軍は一たまりもなく潰走したが、残りの敵は各所に蠢動して治安を紊(みだ)してゐたので、我軍は之が掃蕩に努力した結果秩序も逐次恢復して来た。
 一方北平天津等では新たに治安維持会が組織された。即ち北平に於ては宋哲元、素徳純等逃走以来、政治機構は崩壊し治安は混乱するの状態に陥つたのであつたが、支那側倒は自発的に治安を恢復しようとして、去る七月三十日江朝宗以下冷家驥、鄒泉*1、潘*2桂等を委員として北平治安維持会が成立した次第である。そして爾後金融、特に河北省銀行の安定、避難民の救済及交通の恢復、特に食糧輸送に便宜を与へる等のことを実施して居る。
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 斯くて八日正午、我軍各部隊は沿道一帯に集つた在留邦人の熱狂的歓呼の裡に歩武(ほぶ)堂々各域門から北平に入城、交民巷(大使館区域)前の日本軍練兵場に終結し次いで閲兵式を行つた。式後、部隊長は日本軍入城司令の名を以て、北平市民に対し治安の維持、安寧の確保に任ずる旨の声明を発した。在留邦人も二週間に亙る籠城を解いて、翌九日特別地区の居住者を除き、殆ど全部が夫々市内の自宅に帰つて行つた。
 天津に於ても北平と略々同様に八月一日の高凌蔚以下十一名を委員とする治安維持会が成立し、そして日一日と平常化して天津、北平間の鉄道は六日から普通列車が開通され、七日には北寧線の交通通信は殆ど旧態に復した。又同日から邦人紡績の三工場も操業を開始した。
 冀東政府は通州事件に由り一時潰滅したので、取敢へず長官代理となつた池宗墨は、天津に在つて其の職務を執つてゐたが、政府の所在地を臨時に冀東地区の略々中央に位置する唐山に設け、九日同地に赴き新機構と新首脳部を以て業務を開始し、人心の安定治安の維持に専念することになつた。

二 支那軍の行動

 中央軍は依然津浦平漢両線に依り北上中で、津浦線方面の前線は滄州(天津南方約二十五里)附近にあり、平漢線方面に於ては保定附近が中心であつて、目下盛んに陣地を構築して居る。天津方面で敗退した節三十八師は馬廠(天津南方約十五里)附近に集結中の模様である。
 平綏線沿線の支那軍の動きは最近頗る活溌を極め、八月十日頃迄には中央直系たる第十三軍(湯恩伯)に属する第八十九師(王仲廉)は南口(北平西北方約十里)、永寧、延慶、懐来の地区に、同じく第四師(王万齢)は下花園沙城間の地区に進出し、傍系の第八十四師(高桂滋)は赤城から鶴関の地区に配置せられ、第二十九軍に属する第百四十三師(劉汝明)は張家口、宣化間の地区に集結してゐる。又第八十六師(高双成)、第二十師(李仙洲)等は大同附近に進出中である。尚共産軍の先鋒は百霊廟に達したとも伝へられてゐる。

三 皇軍の活動

 四日正午頃、岡崎部隊は機関銃を有する七八十の支那兵と良郷附近に於て遭遇し、之を南方に潰走せしめた。敵の遺棄死体凡そ二十、鹵獲兵器小銃三十挺、手榴弾二百個、我方には損害がなかつた。
 同日夕南雲部隊は戒台寺(長辛店南方三里)を攻撃し敗残兵三十を補獲した。
 八日午後三時頃、察哈爾の東南部にある永寧城南方約十五粁の二道河子北方に於て約百の支那部隊が越境して来たので、該地附近の我軍は交戦約一時間にして之を国境外に撃退した。
 十一日夜半、装甲列車及迫撃砲を有する五、六百の支那部隊が良郷の我が部隊に対し攻撃して来たが、午前五時過ぎ之を撃退した。敵の遺棄せる死体百を下らず、我軍の損害は戦死二、負傷十九であつた。独流鎮(天津西南方約五里)の我が部隊は同時頃敵の夜襲を受けたが之を潰走せしめた。

四 南口附妃の戦闘

 平綏線方面に行動してゐた我が部隊は、十二日払暁から南口停車場附近の支那兵を攻撃し、午前七時頃同地を占拠、続いて右翼方面に於ては虎峪村附近一帯の地区を占領し、更に午後四時三十分頃老爺山に向ひ当面の敵を追撃した。左翼方面は午後六時より南口鎮及其の西方高地に対し夜襲を開始し、午後八時頃完全に南口鎮を占拠した。
 当面の支那軍は第八十九師(王仲廉)麾下の第二百六十五旅の一団であつて、本戦闘は中央軍との最初の衝突である。

五 中南支の状況

 支那各地の将領は八日初頭から続々南京に来集した。
 全国々防会議は六日午後二時から蒋介石司会の下に開催され、国民政府の執るべき最後的態度に就て討議の結果対日開戦は不可避なりといふ意見に一致した模様である。
 南京は七月二十九日政府の方針を決定して以来、北支に於ける我が空軍の威力が逐次伝はつた為か、防空の準備特に厳重となり、各防護地区毎に青年訓練所生(女子を含む)を召集し、防空及救護の訓練を実施し、又平時から準備した各地点に高射砲を据附け、前線又は地方から続々飛行機の徴集を行ひ、或は乗合自動車を八月一日以来二日間に全部灰色に塗換へ、重要建築物(外人のものをも)の塗換を命ずる等防空に大童である。市民は我が空軍の来襲に怯え、津浦線方南からの避難民も加へて上海に避難するものが、停車場に殺到し、臨時列車を繰出すも尚足りない有様である。
 漢口の日本租界は五日頃から約一万の支那兵により包囲せられて全く孤立に陥り、支那軍用機は租界の上空を飛翔し、且便衣隊の活動甚だしく、日本租界に迄侵入して日本人に関係ある支那人を連行するに至つたので、通州事件直後のことでもあり、六日遂に約一千の残留居留民は総引揚げを断行するに決し、老幼婦女子等は上海まで、壮年の男子等は取敢へず江岸の日清汽船ハルク迄引揚げたが、事態は益々と切迫したので七日遂に男子迄も全部引揚ぐるに至つた。
 其の他長江筋の各地に於ても八月一日の重慶、宜昌、沙市の邦人引揚げを始めとして長沙、漢口、九江、蕪湖、大冶、南京、鎮江等の居留民約二千八百名は九日午後一時を以て全部上海迄引揚げを完了した。
 上海の空気も益々緊迫を加へ邦人婦女子の自発的に引揚げるものが日に増し多くなつてきた。支那人も不安に駆られ、上海事変当時の中心だつた閘北を始め江湾、虹口、北四川路、方面のものは大半避難して了つた。邦人の使用人や出入り商人迄も次第に隠れて了ふ様になり、邦人に対する食料品の不売は愈々深刻化して投石悪戯も屡々で、在留邦人は益々ゐた堪らなくなりつゝある。又素性不明の支那人の日本人の状況を調査する者あり、租界外の邦人も租界内に避難するに至つた。
 尚支那側の各種防禦工事は公然と行はれ、江湾市政府方面は昼夜兼行で陣地を構築しつゝあるばかりでなく、保安隊巡警類似の服装をした武装壮丁の多数は連夜演習を行つてゐる。
 斯の如く邦人は日夜生活を脅かされつゝあつたが、果然九日夜、我が陸戦隊の大山海軍中尉は斎藤一等水兵と共に虹橋飛行場附近道路上に於て支那保安隊の為に射殺せられたので、事態は愈々重大化されるに至つた。
 山東方面では日本軍上陸の謡言盛んに行はれ人心の動揺甚だしく、芝罘、済南、青島等に於ては支那人の地方へ避難する者続出し、済南始め膠済鉄道沿線の我が居留民は大部分七月三十一日青島迄引揚げて来た。青島に於ても日本人の使用人の大半逃去り、邦人側も掃蕩動揺し、内地帰還者尠くなく、一般に物情騒然たるものがある。
 廈門市内は表面平静を保ちつゝあるが共産党の入込んだ噂があり、又余漢謀差廻しの便衣隊が横行して居る。居留民には目下動揺の色がないが、支那側は他方面に避難するものが続出してゐる。
 汕頭は流言蜚語旺(さかん)んで、支那側の抗日態度益々露骨化し、前途憂慮すべきに至つたので、領事館員を除く外、邦人は十二日引揚ぐるの余儀なきに至つた。
 広東の排日運動は益々激化し、日本人と関係ある支那人を口実を設けて逮捕し、日本人使用の料埋人及女中に至る迄退職を余儀なくせられつゝあり、加ふるに支那の各種の謡言通州事件及揚子江上流方面特に漢口引揚実施に神経を病み、最近引揚げる者多く、十二日迄に主とてし婦女子約八十名離粤(ゑつ)する筈で、其の後の残留者約三百名である。支那側も家族の避難する者が多い。