第四四号(昭一二・八・一八)  
 長江に動く帝国海軍        海軍省海軍軍事普及部
 北支・中南支の情勢        陸軍省新聞班
 北支事件特別税法に就て      大蔵省主税局
 支那共産軍を語る         外務省情報部
 第七十一回帝国議会の概観     内閣官房総務課
 最近公布の法令          内閣官房総務課

 

支那共産軍を語る  外務省情報部

一 支那共産軍の改編

 中国共産党が其の隷下に共産軍を持つてゐるといふことは、他国に多く例を見ないところで、国民政府にとっては一大敵国を形成してゐたのであるが、中央の屡次の討伐に堪へかねて、主力約十万は客年秋全部西北部甘粛省に西遷した。之に対して政府軍は五十万の大軍を以て討伐に向ひ、客臘共産軍は将に風前の灯にも似た窮状に陥つてゐたのである。然るに、昨年十二月の西安事件発生後、中国共産党の主唱による国共妥協即ち国民党と共産党との合作の具体化に伴ひ、支那共産軍は今春に至り国民政府軍数ケ師に改編せられた模様であり、師長は共産軍側から、副師長及政治訓練処長は国民党側から出すことに話合がついたものゝやうである。又南京政府から之が改編維持の為に巨額の軍費が既に支給せられたとの情報もある。これ等改編共産軍の駐屯地は依然陜西、甘粛、寧夏省境一帯に指定せられ、国民政府軍事委員会の指揮命令に服することになつた由であるが、目下幹部級の人事行悩みの状態にあり、実際の指揮は依然共産党側にあるものゝやうである。国共妥協により形式上共産主義を唱へる共産党は支那から消滅し、又共産軍の改編により共産軍は一応は消滅したかの観を呈してはゐる。然し共産主義の洗礼を受けた抗日的急進国民革命軍は依然として存在してゐるのである。之を共産軍の消滅と見るのは早計と謂はねばならぬ。
 以上は支那西北に遠竄した主力中央共産軍の改編について述べたのであるが、其の他支那各地例へば福建、広東省境、江西、福建、浙江省境、湖北東南部、湖南、湖北省境、四川省等にも少数の共産匪が盤踞してゐる。彼等は多くは西遷中央共産軍の残留部隊であるが、党中央の最近の政策即ち擁蒋抗日、国共妥協等には必ずしも追随してはゐないのであつて、或者は今尚反蒋抗日乃至は共産主義本来の諸政策を実行してゐるが、共産党中央の指示により次第に本妥協の趣旨を了解して、国民政府に対し最近投降を願ひ出でるもの多きを加へて来た現状である。

二 改編前の支那共産軍の兵力組織

 支那共産軍の兵力に関しては種々の説があつたが、西安事件前後に於ける甘粛合流中央共産軍は西遷の途次兵士の戦病歿、脱走残留(例へば第一軍第三師は湖南湖北辺区に残留し、第六軍台十六師は湖南東部に残留)等に依り兵力損耗し、婦女隊等をも加へ約十万に減少したと称せられる。之に前述支那各地の共産匪、遊撃隊、不正規軍約十万を合すれば総兵力は約二十万と推定せられたのである。今年春陜西、甘粛省一帯の中央共産軍を国民政府軍改編の際は約六万人であつたと伝へられるに徴しても、これ等兵士の内真に戦闘に堪へ得る改編適格者は約六割に過ぎなかつたと見られるのであり、以て兵の素質が窺はれる。中央共産軍兵士の年齢は其の最低年齢者の部隊たる少年先鋒隊兵士は十二歳より十七歳迄であり、又一般兵には最高年齢六十七歳の者が居る。下級兵士より上級軍官全員の平均年齢は二十四歳であり、彼等は平均八年間の戦闘経験を有する旨宣伝せられてゐる。彭徳懐の率ゐた第一軍団兵士の職業別出身を見ると、其の中五八%は農民、二五%は賃銀労働者(大工、運搬人夫、徒弟等)三%は工業労働者、四%は有識分子、資産階級出身である由であるが、右は以て全貌を窺ふに足る資料である。斯の如く其の殆ど大部が農民階級に属してゐる点は支那共産運動の特殊性と其の将来を卜するに足るものと思はれる。
 次に共産軍の組織を見るに、其の組織は常に国民政府軍と同様に編成せられ、其の基本部隊は大体に於て、軍、師、団、営、連、排に区分せられ、原則として三単位制を採用してゐるが、戦病歿、脱走等により兵力著しく減損した場合には随時分合改編が加へられ、其の名稀番号等は整然たる体系を備へてゐない。或は軍を合して方面軍又は集団軍となし、又は軍の上級部隊として軍団を設ける等又は軍に軍団縦隊、独立師、游撃師、戦闘団、農民隊等を配する等其の編成は相当雑然たるものがある。特殊の戦闘行軍等の前には予め軍の編成替を行ひ、第一縦隊、第二縦隊又は右路軍、左路軍或は第一路抗日紅軍、第二路抗日紅軍等適宜の名称と組織が更(あらた)められてゐる。今年春頃に於ける中央共産軍の編成は第一、ニ、三路の抗日紅軍と東路軍があり、寧夏には回教徒紅軍、綏遠には蒙古游撃隊があつたと伝へられてゐる。これ等路軍の下に軍、師があるのであるが、大約二十個の軍が存在してゐたと観測せられる。
 次に中央共産軍の武器を見るに、其の銃器は何れも旧式のライフル銃、自動ライフル銃であるが、銃数は総兵力の約七割であると称せられてゐる。其の他拳銃は上級軍官が所持して居り、機関銃、軽野砲も傭へてゐるが、これ等銃器は皆国民政府軍よりの鹵獲品であると自称してゐる。

三 共産軍の命令系統

 支那共産軍は素より中国共産党に属してゐるが、其の命令系統は中央政治局の軍事部の指揮には属しない。別に存する中央軍事委員会(正しくは中国工農紅軍革命軍事委員会)の指揮命令に服するのであつて、軍の編成、作戦竝に兵站(へいたん)に関する問題は同委員会の権限にある。現在に於ける該委員会主席は朱徳であり、副主席に周恩来、王嫁薔があり、顧問として露西亜人リトロフが居る。この軍事委員会の下に支那共産軍が活動するのであるが、共産軍直接の総司令は朱徳である。この共産軍と対等の位地に政治部なるものが軍中に併設せられ、共産各軍の政治的活動を統制し竝に該部隊内に組織せられた共産党の細胞を軍事部と連絡之を監視し、他面各種の宣伝、竝に占領地に於ける軍政、其の他の政治工作の任に当つてゐて其の権力は相当大である。この総政治委員は張国*である。この総政治部の下に軍区政治部、軍政治部、師政治部、団政治部等があり何れも軍、師、団中の政治工作を司る。各政治部には夫々政治委員、政治部主任等が置いてある。
 又昨年夏頃から支那各地の残留共産匪竝に地方共産匪の指揮系統統一の必要を認めた中国共産党は、別に中国共産党紅軍游撃隊総隊部なるものを組織し、中華ソヴィエト人民共和国中央政府主席毛沢東を其の総隊長に任命し、各地共産匪を夫々游撃大隊或は游撃師に改編方命令した由であるが、各地共産匪は未だ其の編号名称兵力何れも区々である。中央の命令は連絡方法の不備により徹底してゐない。これ等地方共産匪へは中央側より政治委員が派遣せられてゐる処もある。

*・・・

四 共産軍の戦術

 共産軍の戦術は所謂「パルチザン」式游撃戦術として有名なものであつて、戦闘力は軽視すべからざるものがある。昨年共産軍の甘粛省に入つた当時は、西北剿匪総司令代理張学良麾下の旧東北軍は共産軍の為苦戦疲弊し、私(ひそ)かに妥協停戦を策したとも伝へられる程である。今夏国民政府主催の廬山に於ける民衆夏期訓練には朱徳、毛沢東の両名が招聘せられて、国民政府軍官に対してこの得意の游撃戦術を講演教授したとの情報もある程である。尚参考迄従来共産軍の用ひて来た戦術の概要を左に掲げよう。

(一)政府軍を「ソヴィエト」区域(共産軍に占拠され「ソヴィエト」制が布かれてゐる地域)又は森林乃至丘陵地帯に誘導し、伏兵を以て之を撃つ。
(二)政府軍をして自己の軍隊を迫撃せしめ、之を迷路に導き、突如反撃して背部及側部より襲撃す。
(三)政府軍の集中部隊に対しては自ら分散して之を回避し(所謂整を化し零と為すこと)、政府軍の部隊が劣勢となつたとき攻撃力を集中す。
(四)「ソヴィエト」区域の住民を使用して政府軍を疲労又は恐怖せしめ、敵が疲労し弾薬を消尽するを見計ひたる上、初めて攻撃す。
(五)永久的防禦施設を攻撃ぜず、住民が「ソヴィエト」化しない地方に於ては交戦せず。
(六)宣伝員、農民、職工又は婦女を以て政府軍の精神を攪乱す。
 共産軍は以上の原則を正確に実行してゐるのであつて政府軍が大挙して来攻する時は正規の服装武器を隠蔽して分散し、無辜の民を装ひ、政府軍が地方が平静となつたと誤認し油断する頃合を見計ひ、忽ち集合して之を攻撃するのを常とする。加之共産軍は特に山岳森林地帯に盤踞し、其の地方に於ける住民を多数に包含する結果、地理に明るく又随所に隠匿の場所を用意してゐるので、之が追撃に向ふ政府軍よりも其の行動遙に敏速であつて多くは回避に成功するのである。然し共産軍は進んで政府軍を攻撃することは稀であつて、之を攻撃するは城市占領の必要ある場合、又は占領せる戦略上の拠点を政府軍に攻撃せられる場合は死力を尽して戦闘をを交ふるのである。
 共産軍が戦術上優れた点は其の行軍能力の大なること、山地戦に巧みなこと、射撃に無駄の鮮(すくな)いこと等でこれ等は過去の実戦で証明せられて居る所である。殊に江西省からの例の一大西遷運動は、彼等の非凡なる行動力を示したものとして各方面から驚異の眼を以て観られた程である。
 彼等の最も恐るゝものは空襲で之が対抗武器を欠く彼等としては蓋し已むを得ない所である。

五 軍事竝政治教育

 中国共産党は民衆教育特に共産軍兵士の文盲退治には大童であるが、党最近の政策たる抗日民族統一戦線の理論と実際を教授する為の特別教育機関を有する。其の最高の軍事政治研究機関が紅軍大学であり、軍事一般を教授する機関は歩兵学校である。
 略称紅軍大学、正しくは人民抗日政治軍事学校は陜西省延安(膚施)に設けられてゐる。学生は約千百五十名を収容してゐる由で、校長は林彪が兼任し、職員は十七名の教授と若干の講師とより成り、朱徳夫妻、毛沢東夫妻、秦邦憲、呉亮平等も教授に当つてゐる。学生は二十三歳より三十歳迄の者が其の半数を占め、十八歳より二十二歳迄の者が二割五分、二十歳以上の者が二割五分を占めてゐる。
其の入学資格は其の党以外の者或は「ソヴィエト」区域外よりの希望者は十八歳以上で、且中学を卒業した者であることを条件としてゐる。彼等は卒業後は支那及満洲各地に党又は軍の幹部となつて活動することになつてゐるが、最近は国共妥協成立の為国民党区域(即ち白区と称してゐる)内では最早階級闘争はしないことになつてゐる由である。学課は各班を通じて、常識的政治学、支那革命の根本問題、大衆組織法、党の路線研究が課せられ、下級班に於ては特に「パルチザン」組織、ゲリラ戦術等が主要学科であり、上級班に於ては哲学、政治学、経済学及戦術が主要研究科目である。又特に専門家養成の為に研究討論班が設けられてある。
 歩兵学校(紅軍歩兵学校)は陜西省保安に在り、約千名の学生がゐる。こゝでは歩兵一般の教練と学科の教授が為され、課外として登山、土木等が盛んに行はれてゐる由である。学生は何れ素衣素食に甘んじて研究してゐるとのことである。

六 結言

 以上で支那共産軍の極大略を述べたが、要するに支那に於ては比較的優秀な兵力を有する中央共産軍殆ど全部が甘粛、陜西省一帯に集合したが、其の盤踞地域が満洲国及内蒙に接近せる点より考ふるに、其の政策が抗日統一戦線拡大に向けられたる今日、其の一部が将来或は満支国境方面に進出し抗日の姿勢に出づることなきは保し難く、其の重大性は著しく増大したものと謂ふべきである。今回の北支事変に際し、支那共産軍の一部は抗日決戦の為、綏遠省又は山西省に進出した等の情報ある矢先、日本としてこの支那共産軍の動向には充分の関心を払ふ必要があるのである。