第四四号(昭一二・八・一八)
長江に動く帝国海軍 海軍省海軍軍事普及部
北支・中南支の情勢 陸軍省新聞班
北支事件特別税法に就て 大蔵省主税局
支那共産軍を語る 外務省情報部
第七十一回帝国議会の概観 内閣官房総務課
最近公布の法令 内閣官房総務課
長江に動く帝国海軍 海軍省海軍軍事普及部
一 長江筋在留邦人の引揚
前号週報(第四十三号)に述べた通り、今度の事変勃発以来、帝国海軍は事変を中南支に波及せしめない様に、最も慎重なる態度を執り、在留邦人の保護、帝国権益の擁護に当つて来た。然るに支那側の抗日、反日行為は日を逐うて熾烈且陰険となり、邦人と取引する支那商人を奸漢と称して之を迫害し、邦人に使傭せらるゝ支那人を脅迫して逐出(おひだ)し、果ては邦人婦女子、小児に石を投げたりする様な悪戯(いたづら)を始め、邦人に食糧品を売らない迄に立到つた。斯くて邦人経営の会社、工場は使用支那人が迫害を恐れて出勤しない為に閉鎖の止むなきに至つたものも生じ、一般商取引は全然杜絶し、生活さへも脅成せられる様になつた。加ふるに支那軍隊又は保安隊は日本人の居住する租界、其の他の居留地域を包囲的に、塹壕、鉄条網、其の他各種軍事施設を構築し、軍隊を集中増加し、何時第二、第三の通州事件が起るかも知れず、延いては事変の全支波及をさへ憂慮せらるゝに至つた。
斯の如き情勢となつたので、事端の発生を未然に防止し、且又支那側の挑戦的動向に鑑み、万一事変が全支に拡大する様なことになつた場合のことも考へ、急速収容困難なる長江筋上流の居留民を一先づ引揚げさぜることに決定し、重慶、宜昌(ぎしやう)、沙市(しやし)は八月一日日清汽船会社船に収容、我が軍艦護衝の下に漢口(ハンカオ)経由上海に向け下江したのを始めとして、長沙(ちやうさ)は八月四日発下江、漢口居留民は八月六日頃から事態が急に逼迫して来たので急遽引揚を開始し、八月七日午後、日清汽舶の鳳陽丸、信陽丸に収容、我が軍艦三隻の護衛の下に、続いて八月八日九江(きうかう)居留民は瑞陽丸で、大冶(たいや)、蕪湖(ウーフー)の居留民は襄陽丸で、南京、鎮江(ちんかう)居留民は洛陽丸で、夫々我が軍艦護衛の下に引揚げ、これ等の居留民は八月九日午後恙なく上海に到著した。
長江筋警備艦隊の司令官谷本少将は、漢口居留民の引揚を見届けたる後、同地日本租界警備の為駐屯して居た上海特別陸戦隊派遣隊を収容し、八日午前、漢口に残つて居た麾下警備艦船を率ゐて漢口発下江、前に述べた各地の居留民の引揚及其の乗船の掩護に任じつゝ、九日上海方面所在海軍部隊に合同した。
引揚居留民の乗船及護衛艦等の下江に際しては、江岸各地の支那砲台からは絶えず大砲の砲口を指向けられ、又夜間は度々探照灯の照射を受けたが、我が海軍の威武と適切なる措置は、何等の事故をも生ぜしめず、上、重慶より上海に至る約一千四百浬に亙る各地に分在して居つた我が居留民約二千八百名をして僅々四五日の間に無事引揚を了せしめたのであつた。最も急迫せる事態に処して、斯の如く何等の混乱も事故もなく安全に引揚を完了し得たのは、帝国領事官憲の行届いた配慮と、我が海軍警備艦隊の周到なる計画と不眠不休の努力に負ふものであるが、同時に我が居留民が大国民たるの襟度を持し、節度を保つて行動したのにも依るものである。
居留民引揚に伴ひ、長江筋各地に於ける在留邦人の財産竝に帝国権益は、事変落著次第邦人が復帰、之を再興し得る様厳重に支那側の保管に託してあるのであるが、これ等の保全は他面帝国の国威と実力が背景となつて居るものであることは勿論で、万一各地に一時遺留してある邦人の財産竝に我が権益を支那側が侵害する様なことあらば、国際信義無視の支那自体の自殺的行為である。尚汕頭、廈門等南支沿岸の各地の居留民も一部は既に引揚げつゝある。
二 上海大山事件
本事件は去る八月九日午後六時半頃、上海虹橋飛行場東方越界路(ゑつかいろ)である碑坊路(モニュメント・ロード)上、飛行場東南正門の北方約三百米附近で、海軍中尉大山勇夫と海軍一等水兵斉藤嶼蔵の両名が、支那保安隊の為殺害せられた事件である。
越界路(エキステンション・ロード)とは、各国共同の租界行政機関たる工部局が管理して居る租界近郊にある道路であつて、道路竝に之に附随して居る設備、建物等の諸財産は、租界と同様の特権を有し、同様の取扱を受けるもので、これ等には支那側の支配権は及ばない。
上海には、共同租界の東部に東部紡績工業地帯、共同租界の西部及其の西方郊外に西部紡績工業地帯があり、これ等工業地帯には邦人経営の多数の工場がある。而して西部紡績工業地帯には、豊田紡織廠、内外綿紗廠、東亜製麻会社等の工場が散在して居り、これ等の工場等護衛の為、上海海軍特別陸戦隊より若干兵力を分派し、其の本部を水月倶楽部(内外綿社員クラブ)に置き、兵をこれ等の工場に分駐してあつた。
大山中尉は其の派遣隊長で当日午後五時陸戦隊の自動車に乗り斉藤一等水兵に運転させ、派遣隊本部(水月クラプ)を出発、附近地区視察及連絡の為陸戦隊本部に向ふ途中、前記の場所で両人共支那保安隊の為に射殺されたものである。
当日上海市長及淞滬(しようこ)警備司令から我方に、日支兵交戦中との報せがあつたので、沖野上海駐在海軍武官は、午後七時頃現場に急行調査した処、自動車は道路の東側に逸出し、前後左右に数十発の小銃弾痕及数個の大型破孔があり、運転台附近には多量の血が流れて居た。而して大山中尉は車外に倒れて居り、斉藤水兵は行衛[ママ]不明であつた。尚、附近には多数の保安隊及支那軍隊が密集し、厳重な警戒をして居た。
同夜十一時頃、上海市長は帝国総領事館に来訪、総領事及大使館附武官と会見し、我方は即時実地検証を要求したが、彼は之を拒絶し翌日実施する事を主張して譲らず、漸く屍体の引取だけを承諾し、十日午前一時二十分頃支那側と共に現場に向つた。現地の状況は、自動車に付ては前に述べた通りであるが、大山中尉は全身に大小十八個所の銃創、刀創を受けて居るが、保安隊の射撃で車中に俯肘(うつぶ)せに倒れたところを車外に引摺り出し、銃の台尻で乱打するやら、銃創で突刺したり、刀で切つたりしたものらしく、頭部は二つに切割られ、顔面半分は全く潰され、腹を露出し、心臓部に拳大の穴をあける等、鬼畜も及ばぬ暴行を加へて居る。又同中尉が所持して居た軍刀、靴、時計、シース等一切の物を掠奪して居つた。
斉藤水兵の屍体は現場の北東千米附近の畠中に発見せられたが、後頭部貫通銃創の致命傷を受けて即死したものを車外に引摺り出し、顔面頭部にかけて銃の台尻で殴打し、更に左右腰部に盲貫銃創を加へた上、犯行を晦(くら)ます為屍体を溝渠(クリーク)で洗つた形跡があり、所持品は大山中尉同様全部掠奪されて居た。
尚屍体引取の際有馬軍医少佐が作製した検屍書に対し署名を要求したが支那側は之に応ぜず、十日午前十一時半改めて日支双方立会の上検屍を行ひ我方作製の検死書に調印した。
現地検証は、日支双方関係官立会の上十日午前から行はれた。支那側は路傍にある保安隊負一名の屍体を示し、大山中尉の自動車が虹橋飛行場に入らんとしたので番兵が之を制止したところ、自動車を碑坊路に向けると同時に士官は拳銑を発射し、保安隊員の一名を斃したから、保安隊は之に応射したと称して居た。然し大山中尉は拳銃は官用、私用共携へて居なかつたことは確実であり、斉藤水兵は拳銃は携へて居たが、肩から吊つて自動車を運転して居たのであるから、射撃の出来る筈もない。且自動車のある場所、被弾の状況等から見ても、支那側の説くところと一致しないので、現地検証の結果、支那側は其の虚構なることを認めた。尚、其の後支那保安隊員の屍体を検屍した結果、傷は拳銃弾に依るものでなく全部小銃、機関銃の弾丸であることが判明した。
前にも述べた様に、北支事変発生以来、我方は極力中南支に波及する事を避ける為、最も慎重な態度を執つて居たに拘らず、上海に於ても支那側は停戦協定を無視して盛んに租界附近に陣地を構築し、夜間日本人居住地帯の襲撃演習を行つて、抗日気勢を煽(あふ)り、小児、婦女子に投石悪戯し、或は日本人に対しては食糧品の不売を行ふ等険悪な事態に導き、遂に今同の如く、「正規の服装をして公務執行中の帝国海軍将校を国際法上通行を許され支那の権利の及ばない越界路上に於て、支那保安隊(武装警察隊)が惨殺する」と云ふ様な不法事件を惹き起すに至つたのである。
本事件に対しては、海軍としては慎重にして且最も厳重公正なる態度を持し、帝国外交官憲と協力して処置に当り、本格的解決条件は留保して、差当り当面の危険を除去する為、支那側に対し保安隊の即時引下(ひきさげ)及停戦地区内の軍事施設の撤去を要求した。然るに支那側は保安隊を引下げないのみか、却て之を増強し、且租界周囲の陣地の構築を進める等挑戦的態度に出て来たので、上海居留民の保護、帝国権益擁護の必要上、一部の海軍兵力を増派せられた。
然るに十二日未明以来、支那側は停戦協定の明文を蹂躙して其の正規軍を続々上海に入市せしめ、日本人の居留地域はこれ等の軍隊の為全く包囲せられ、事態は急転して緊迫を告ぐるに至つた。之に対して我方は尚事態収拾の望みを棄てず、停戦協定員会の召集を求め、差当り日支両軍の衝突の危険を避ける為保安隊の引下を要求し、各国の委員も我方の誠意を認めて支那側の反省を勧請したが、支那側は少しも之に耳を藉さうとせず、為に事態は愈々危機に直面し、我方の努力は遂に報いられず、十三日より支那軍の挑戦に依り、我が海軍陸戦隊は防備部署に就き、之に応戦するの止むなきに至つた。
而も尚我方は上海が多数の各国人の居住する地であることを考へ、戦禍がこの国際都市に及ぶのを避けんが為自重に自重を重ね、殊に列国大使より日支両国に対し調停の申出もあつたので、十三日来の支那側の攻撃に対しては単に防禦に止め、支那飛行機の租界内低空飛行に対しても特に攻撃を加へなかつたが、十四日午前十時頃支那飛行機十数機は我が艦船、陸戦隊本部及総領事館等に対し爆撃を加へるに至つたので、帝国海軍も遂に断乎たる手段を執らねばならぬ様成になつた。
(一ニ、八、一四)