第四三号(昭一二・八・一一)
事変第二特集号
平津地方の掃蕩 陸軍省新聞班
事変と帝国海軍 海軍省海軍軍事普及部
在支邦人の保護 外務省情報部
銃後の後援 社 会 局
国家総動員の構へ 資 源 局
暴利取締令の改正 商 工 省
在支邦人の保護 外務省情報部
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一 在支邦人の概況
今次事変の勃発以来、河北、山東両省を初め全支の我が居留民の生命財産の安否に付き不安が感ぜられ、北平、天津、青島、漢口、上海の如き我が陸海軍の威力を以て直接保護を加へ得る地方は兎も角、張家口、済南、膠済鉄道治線、芝罘(ちーふー)、揚子江上流及中流竝に南支に於ける帝国領事館各管内は事件進展如何によりては全く孤立無縁に陥り、支那軍民の為不法の圧迫を蒙る虞のあることは、支那最近の抗日気運に徴し予想に難くない処である。在留邦人の保護の任に当る外務当局としては、事件の進展に伴ひ臨機応変の処置を採つて居るのであるが、先づ在支邦人の概況を領事館管内別及主要都市別に表示すれば概要次の通りである。
中華民国本邦人人口領事館管内別概計表(昭和十二年四月一日現在)
領事館所轄別 | 内地人 | 朝鮮人 | 台湾人 | 計 |
天津 (計) |
14,894 |
6,279 |
153 |
21,326 |
計 | 61,700 | 10,879 | 13,645 | 86,224 |
昭和一一年四月一日現在数 | 56,858 | 9,732 | 13,566 | 80,156 |
一年間増減数 | 4,842 | 1,147 | 79 | 6,068 |
中華民国主要都市在留本邦人人口概計表 (昭和十二年四月一日現在)
地名(所轄領事館内) | 内地人 | 朝鮮人 | 台湾人 | 合計 |
張家口(張家口) |
393 |
22, |
1 |
416 |
*1
*2
二 居留民保護の方針
事変当初から外務省に於ては、七月十一日閣議決定に係る現地解決、事件不拡大の根本方針に基いて、在支邦人の保護措置に付き予め充分なる研究を重ね、必要なる準備を講じて居る。即ち事変発生と同時に、外務大臣から在支各領事に対し努めて管内の居留民を自重せしめ、苟も我方から支那側を刺戟して事端を発生せしむるが如きことの無いやうに注意を与へると共に、各領事をして地方支那官憲に対し、居留民の保証に付き万全の措置を採り、又排日の取締をなすこと等を申入れさせた。又万一事変拡大の場合に備へる為、鄭州、太原の如き僻鄙の地方の外務官僚に対しては、情勢に応じ居留民に関する措置を終つた上、適宜安全地帯に引揚げるも差支無き旨を訓令した。然しながら居留民の引揚は多年困苦と戦ひつゝ獲得した経済上の地盤に対し、極めて大なる損失を来たすのみならず、七月末はあたかも取引決済の時期でもあり、居留民一般の引揚は、極めて慎重なる態度を採り、特に内地への引揚は出来得る限り之を避けることとし、成るべく最寄の安全都市へ収容する方針を採り、例へば、張家口、張北の居留民は北平へ、芝罘(ちーふー)、龍口、威海衛の居留民は大連へ、坊子、張店、周村、青州、博山、川、膠済鉄道沿線の小都市及済南の居留民は青島へ、又蘇州、杭州、南京、鎮江、蕪湖、九江及南昌の居留民は上海へ、漢陽、大冶、武穴、長沙、宜昌、重慶等揚子江上流の居留民は漢口へ、更に又、福州、廈門、鼓浪嶼、汕頭の居留民は台湾へ、広東の居留民は香港へ、雲南の居留民は河内(はのい)へ夫々引揚げる計画を樹てた。
三 邦人引揚状況
八月三日現在に於ける在支邦人の引揚総数は約三、一七四名で、これらを地方別に概説すれば大要左の通りである。
北 平 北平地方は事変の中心地なる関係上、最も早くより引揚を開始し、先づ七月十四日約三〇〇名(内朝鮮人二〇〇名)天津へ引揚げたのを手始めとし、七月十七日迄に約一、〇〇〇名天津へ引揚げ、又残留者は七月二十七日正午迄に交民巷(公使館区域)に収容せられた者内地人一、〇五一名、朝鮮人一、二八二名に達した。これら引揚の邦人は交通杜絶の為、食料品、野菜等の供給不足し、又支那人商人は日本人への売捌きを憚かる等の為、物資欠乏、物価騰貴の状態にある。
天 津 当初同地は北平方南よりの引揚地であつたが、事態の変化と共に在留民の保護必要となり、同地特別第一区在留邦人は全部二十九日日本租界に引揚げ、特別第三区在留邦人も同三十日租界に引揚げた。
通 州 通州は七月二十九日早朝第二十九軍の敗残兵の襲撃に続き、突如冀東保安隊第一、第二大隊が寝返つた為、約三百に近い在留邦人と数十名の滞在者は惨虐に遭ひ、八月二日迄に判明せる生存者は内地人七十一名、朝鮮人五十九点、計百三十名であつて、他は恐らく悉く事変の犠牲となつたものと見られ、其の惨状言語に絶する状態であるが、此の事変に於て領事館警察分署勤務の巡査部長日野誠直、巡査石良戸三郎、浜田末喜、金東旭の四氏及天津から応援に派遣され巡査千葉貞吾及草場敏夫の両氏は居留民保護の重任を双肩に担ひ、必死の応戦の後六警官悉く壮烈な殉職を遂げた。
張家口 同地は平綏線の集要地点で、支那軍の出動を見た為危険少からざるものがあつたので、七月十七日及十八日在留邦人三六八名は主として承徳方面へ引揚げたが、其の後も引続き支那馬車による
等の困難なる方法にて引揚を行ひ、七月二十八日迄に領事館員、特務機関、軍関係者等四十五名を除き全部引揚げた。更に八月二日領事館員以下全部張家口を出発、多倫経由四日承徳著の予定で、斯くて張家口には内地人は既になく朝鮮人医師三家族残留するのみとなつた。
綏 遠 七月十四日内地人六名は張家口へ引揚げた。
包 頭 十四日内地人二名は張家口へ引揚げた。
石家荘 朝鮮人七名七月十三日天津に向ひ残留者はない。
太 原 七月十三日内地人六名、七月十六日一〇名漢口又は北平へ引揚げ、特務機関員も同二十九日引揚を完了した。
大 同 七月十三日内地人三名張家口へ引揚げた。
済 南 七月十八日一三四名、十九日五六名、二十三日二五五名何れも大部分婦女子であるが青島へ引揚げた。其の後三十一日の特別列車で青島に引揚げた婦女子数は済南三一四、張店九七、博山二四七、合計六百五十八名あり、青島到著後は民国義勇隊及領事館警察官に於て保護を加へ、親戚、知人方に落著く者を除き夫々寺院、学校等
に収容した。
右に依り七月末日残留留邦人数は済南五七三、張店一五二、博山一七九、計九〇四名である。
鄭 州 七月十九日領事館員家族婦女子六名漢口経由上海へ引揚げた。
漢 口 七月二十四日内地人四二名上海へ引揚げたが、右は台湾行、正金銀行、日本郵便等の社員の家族である。
汕 頭 七月十九日三家族香港へ、二十六日内地人二七名、台湾籍民四〇名台湾へ引揚げた。残留者に対しては物資の不売、運搬拒否は勿論、市商会は食糧、日用品竝水道、電灯の配給を停止する等の圧迫に出て居る。
揚子江上流 揚子江上流地方即ち重慶、宜昌、沙市、長沙等の在留邦人の保護は同地方が交通不便の地域に位する為成るべく早く引揚げる要があり、大体これら上流在留者は差当り漢口、上海に引揚げしめる方針である。然るに最近は揚子江の増水堪だしく、汽船の遡行が漢口より宜昌迄四日間、更に宜昌から重塵迄五日間を要する状態なので、七月二十四日以来重慶に在る宣陽丸を停舶せしめて、万一の場合に備へることとした。しかして同地方の引揚手配は重慶八月一日出帆の宣陽丸、宜昌八月一日出帆の長陽丸、沙市は同じく長陽丸、長沙は八月五日何れも漢口方面へ引揚げる予定である。
杭 州 居留民九名及領事館警察署員家族十四名は七月三十日上海に引揚げた。
潮 州 台湾籍民三十名は事変以来潮州市民の圧迫に耐へ兼ね七月二十九日全部汕頭に引揚げた。
雲 南 居留民三十名は八月三日河内(はのい)に引揚げた。
(以上八月三日現在の状況)