第四二号(昭一二・八・四)
郎妨事件以後 陸軍省新聞班
輸出補償制度の改正 貿 易 局
支那の抗日団体 外務省情報部
第七十一回帝国議会に於ける国務大臣の演説
近衛内閣総理大臣演説
広田外務大臣演説
賀屋大蔵大臣演説
最近公布の法令 内閣官房総務課
郎妨事件以後 陸軍省新聞班
我が挙国一致の牢固たる決意と、支那駐屯軍の厳正なる態度とにより冀察側は遂に軍の要求を承諾し、十八日宋哲元は第二十九軍を代表して軍司令官を訪問陳謝し、二十一日事件の責任者たる営長を免職、第三十七師長馮治安を譴責訓戒した。又我が要求に基き、日支国交に妨害ある人物として先づ雷嗣尚を罷免し、廿二日永定河左岸地区及蘆溝橋対岸にある第三十七師の部隊を西苑に撤退せしめ、次いで同師の第百九旅第二百十八団(原駐地は保定)を、二十二日午後五時四十分、二十三日午前七時十五分、午前九時三十分、午前十一時十五分発の各列車により長辛店良郷及州に向け移駐せしめたが、従来北平にあつた部隊は全く撤退の模様なく、二十四日以後は車輌不足を名として一列車をも運転せざるのみならず、第百三十二師の独立第二十七旅は約に背いて既に北平に進入したので城内の兵力は却て増加し、更に其の第二旅は固安(北平南方四十五粁)に到著、第一旅は平漢線に依り北上を開始する等撤兵に関する冀察側の誠意は見るべくもなかつた。
加ふるに八宝山附近の陣地は、石友三の保安隊を以て其の守備を交代せしめたが、彼等は依然陣地の補強工事を中止せず、第二百二団は其の後方田村、空村、黄村附近及北平北方地区に陣地を構築する有様で、殊に参謀次長熊斌が二十二日北平に来て、秦徳純、馮治安等を激励してから、彼等の坑日意識は更に強硬となつた模様である。
右の如く支那側は表面約束をしながら、現実に於ては其の実行を渋る模様があるので、二十四日軍は参謀副長を北平に派遣し厳重督促すると共に、情勢の急変に対処し得るの準備を進めた。
天津北平間の我が軍用電線は、事変発生以来屡々支那側の為切断せられたのであつたが、二十五日郎坊駅(天津西北方約七十粁)附近で又もや障碍が起つたので軍は其の旨支那側に通告した後之が修理の為、通信隊の一部及其の掩護隊として五ノ井部隊を天津より派遣した。該部隊は二十五日午後四時三十分頃郎坊に到著、同地にあつた支那軍と交渉の上駅内に入り故障個所の発見及修理を実施中、午後十一時十分頃、支那軍は突如小銃及軽機関銃射撃を加へ、更に郎坊駅北側三百米の支那兵舎からも亦迫撃砲等の射撃を浴(あび)せたので、五ノ井部隊は之に応戦し孤軍奮闘よく敵の攻撃を支へた。
五ノ井部隊の急報に依り、天津駐屯軍は直ちに鯉登部隊主力を同地に急派したが、同隊は午前六時三十分乃至午前七時三十分の間に逐次戦線に加入し、北平居留民保護の為北上した広部部隊及我が飛行隊の協力の下に午前八時頃支那軍を潰走四散せしめ、午前十時五十分頃から先づ安定(北平南方約三十粁)に向ひ追撃を開始し又広部部隊は北平方向に列車により追撃を始めた。郎坊の戦闘に於て我が損害は戦死、下士官一、兵三、負傷、下士官一、兵九、計死傷十四名で、交戦した支那軍は第三十八師(帥長張自忠)の第二百二十六団である。
前述の如く第三十七師の撤退は二十四日以来何等進捗せざるのみならず、更に第三十八師と日本軍との間に郎坊事件を発生するに至つたので、支那駐屯軍司合部は宋哲元に対し、二十六日午後三時三十分左の通告を手交した。
「昨二十五日夜郎坊に於て、通信交通の掩護の為、派遣せる一部我軍に対する貴軍の不法射撃に起因し、遂に両軍の衝突を見るに至りしは遺憾に堪へず。斯の如き事態を惹起するに至れるは、貴軍が我軍との間に協定せる事項の実行に対する誠意を欠き、依然挑戦的態度の緩和を為さゞるに起因す。貴軍に於て依然事態不拡大の意思を有するに於ては、先づ速かに蘆溝橋及八宝山附近に配置せる第三十七師を明二十七日正午迄に長辛店に後退せしめ、又北平城内にある第三十七師は北平城内より撤退し、西苑にある第三十七師の部隊と共に先づ平漢線以北の地区を経て本月二十八日正午迄に永定河以西の地域に移し、爾後引続きこれら軍隊の保定方面への輸送を開始せらるべし。
右実行を見ざるに於ては貴軍に誠意なきものと認め、遺憾ながら我軍は独自の行動を執るのやむなきに至るべし。此の場合起るべき一切の責任は当然貴軍に於て負はるべきものなり。」
其の後広部部隊は豊台に到り、更に北平城内の日本兵営に入る事になつたので、事前に我が松井特務機関長から北平外城広安門の通過につき交渉し、秦徳純市長の応諾を得たので、午後六時頃冀察政府軍事顧問桜井少佐が連絡の為広安門に赴いたところ、同門警備中の支那軍は城門を閉鎖して居るので、再三支那側に要求し漸く開門を約諾した。然るに現地の支那軍は何等誠意を示さず依然開門しようとしないので、其の後両者間に種々交渉の結果午後七時三十分頃漸く門を開いたが、我が部隊の三分の二を通過せしめた後、突然門を閉ざし我軍を城門の内と外とに分断して置いて不意に手榴弾、機関銃を以て猛射を浴せた為、我方も已むを得ず門の内外から応戦したのである。此の戦闘で我軍に戦死上等兵二、負傷少佐一、大尉一、軍曹一、上等兵二、一等兵一、二等兵七、軍属二、新聞記者一、計死傷一九外に桜井顧問に同行した通訳が一名戦死した。
以上の様な停止するところを知らぬ暴戻(ばうれい)さと、絶対に反省を期待し得ぬ不誠意不信を眠のあたりに見ては和平解決は最後の望みを絶たれ、駐屯軍司令官は七月二十七日夜半遂に前日の通告を取消し、更めて宋哲元に対し「協定履行の不誠意と屡次の挑戦的行為とは、最早我軍の隠忍し能はざる所であり、就中広安門に於ける欺瞞行為は我軍を侮辱する甚だしきものにして、断じて赦すべからざるものであるから、軍は茲に独自の行動を執る」ことを通告し、更に北平城内に戦禍を及ぼさゞる為、即刻支那側が全部の軍隊を城内より撤退することを勧告した。
斯くて軍は二十八日早朝より平津地方の支那軍を膺懲する為、所要の部署をなすと共に、一般民衆に対しても安民の布告を出して、軍は決して河北の民衆を敵視するものにあらざること、列国の権益を尊重し、其の居留民の生命財産の安全を期するは勿論北支領有の意図なきことを明らかにした。
内地方面に於ても本事態て[ママ]鑑み、二十七日午後一時三十分左記要旨の内閣書記官長談が発表せられた。
「北支の安寧は帝国の常に至大の関心を有する所なり。然るに支那側の徹底せる排日抗日政策は屡々北支の平和を脅威し遂に蘆溝橋事件の勃発を見るに至れり。
爾来帝国は東亜平和の為事件不拡大、現地解決を方針として平和的処理に努め、冀察側に対し支那軍の蘆溝橋附近永定河左岸駐屯停止、将来に関する所要の保障、直接責任者の処罰及謝罪の極めて寛大且局地的なる条件を要求したるに過ぎず、冀察側は七月十一日夜右条件を承認したるも之が実行に誠意を示さずして今日に及べり。一方帝国政府は七月十七日南京政府に対し、あらゆる挑戦的言動を即時停止し且現地解決を妨害せざる様注意を喚起したるも、南京政府は現実の事態を無視し帝国政府の主張を容れず、却て愈々戦備を整へ愈々不安を増大せしむるに至れり。然れども帝国は尚隠忍、平和的解決に努力中、支那側は七月二十六日郎坊に於て電線修理に任ずる我が部隊に不法射撃を加へ、正に同日夕居留民保護の為冀察側の諒解を得て北平城内に入城中途の我が部隊に対し、突如城門を閉鎖し不意に急射するの暴挙に出でたり。
右両事件たるや我が駐屯軍本然の任務たる北平、天津間の交通線の確保及居留民の保護に対する支那軍の武力妨害にして今や軍は此の任務遂行竝に協定事項の履行確保に必要なる自衛行動を採るの已むなきに至れり。固より帝国の期する所は、今次事件の如き不祥事発生の根因を芟除するに在りて善良なる民衆を敵視するものにあらず。又帝国は何等領土的企図を有せず、且列国の権益保護には最善の努力を惜まざること勿論なり。
東亜の平和確保を使命とする帝国は、事茲に至るも今何支那側の反省に依り局面を最小の範囲に限定し、速かに円満なる解決を見んことを切望するものなり。」
かくて駐屯軍は二十八日払暁から北平周辺の支那軍に対し攻撃を開始した。
即ち北平南方に於ては川岸部隊、河辺部隊及萱島部隊は、飛行隊協力の下に早暁から南苑附近の第三十八師に対し、東西南の三方から攻撃を開始したが、支那軍は我が空陸の猛撃に抗し得ず、午前八時頃から逐次北方に向つて潰走したので、河辺部隊は一部を以て南苑の敵を攻撃せしめ、主力は馬村附近に突進し午前十一時頃南苑西北側地区に達し、時恰も同苑東北方地区に進出せる萱島部隊と相俟つて、支那の退路を遮断し、川岸部隊は残兵を掃蕩して午後三時完全に南苑を占拠し、以て南苑附近にあつた歩兵約四大隊の支那軍に殲滅的大打撃を与へ、北平城内に遁入し得た支那兵は纔かに百数十名に過ぎない程度であつた。
北平北方に於ては、酒井部隊は午前十時三十分沙河鎮(北平西北方二十粁)に拠れる敵を撃退、西苑に向ひ不良なる道路に悩まされつゝ前進、夕刻万寿山北方地区に達し、鈴木部隊は午前十一時から主力は清河鎮(北平北方九粁)の支那軍を攻撃、午後三時頃には同地を攻略して南進、夕刻には円明園及西苑の敵に対し攻撃を準備した。
此の間飛行部隊は猛烈な大雷雨を冐(おか)して出動、午前五時三十分頃西苑を、午前六時二十分頃南苑に対して爆撃を加へ敵に多大の損害を与へ、爾後適時各部隊の攻撃に協力した。
北平城内我軍及居留民は異状ないが、交民巷の公使館区域は第二十九軍の数中隊に依り包囲せられ、便衣隊は盛んに出没し我が動静の探査に努め、北平城外に通ずる我が有線電話は朝来不通となり、北平城内外の連絡は全く遮断せられた。
長辛店方面の敵情は変化ない。保定方向の中央軍は北上しつゝありと判断せらるゝも確報を得るに至らない。
塘沽方面に於ては入港の輸送船に連絡の為派遣された我が舟艇が午後三時頃大沽附近を航行中、突如該地の支那軍から約四十発の迫撃砲射撃を受けたので我は之に応射した。
天津方面に於ては二十八日の夕より支那軍の一部が天津を夜襲するとの情報があつたので警戒中、夜半から天津飛行場方面に於て数個の保安隊から攻撃を受けたが、飛行場守備の任にあつた我が部隊は之を阻止し、二十九日払暁に至り飛行機の爆撃と相俟つて多大の打撃を与へて敵を四散せしめた。尚午前一時頃から軍司令部、大倉農場、停車場、糧珠集積所等に夜襲を受けたが午前四時半頃撃退した。襲撃て来たのは第三十八師の独立第二十六旅及保安隊の一部であつた。
軍司令部は天津市内の治安を維持し居留民を保護する目的を以て、自衛上市内に於ける支那軍隊の主要占拠地点を爆撃するの已むなきに至れる旨を声明すると共に、午後三時半から空陸相呼応して、北寧津浦両鉄路局、保安総隊本部、警備司令部、市政府、大福公司其の他の爆撃砲撃を開始し其の目的を達した。
大沽に於ては午前八時十五分我が部隊は再び敵から射撃を受けたので、陸海軍協同して直ちに之に応戦十一時四十五分頃敵に多大の損害を与へて戦闘を了へた。
北平方面に在りて我軍は破竹の勢を以て敗敵を急追し、酒井部隊は夕刻迄に主力を以て黄村に、一部を以て衙門口を占領、鈴木部隊は西苑附近の敵を撃破して北平西側地区に進出し、河辺部隊は午後六時過完全に蘆溝橋(宛平城)を占拠した。
斯くて二十九日夕刻迄に北平西北方の敵を永定河右岸に撃退し、茲に支那駐屯軍は作戦開始から僅か二日にして北平周囲の敵の掃蕩を概ね完了したのである。