第四〇号(昭一二・七・二一)
派兵に関する政府声明
北支派兵に至る経緯 陸軍省新聞班
軍機保護の必要性 陸軍省新聞班・海軍省海軍軍事普及部
最近に於ける第二十九軍の不法事件 外務省情報部
地方長官会議に於ける近衛内閣総理大臣訓示
最近公布の法令 内閣官房総務課
最近に於ける第二十九軍の不法事件 外務省情報部
北支は我が盟邦満洲国の隣接の地で、同地方の平和は日満支三国の提携即ち東亜安定に重大な関係がある。従つて我国は常に北支地方に関心を持ち、今日迄あらゆる犠牲と努力を吝(をし)まず、所謂北支の明朗化の実現に尽して来たのであつたが、我が帝国の努力は実を結ばないのみか、北支は藍衣社或はC・C団の如きファッショ的排日運動者や共産党の魔手に操られる抗日人民戦線派の暗中飛躍の舞台となり、排日、抗日の中心地の観を呈するに至つた事は実に遺憾の極みと謂はねばならぬ。特に北平、天津附近に在る第二十九軍の将士が盛んに排日事件を惹起しつゝあるが、元来第二十九軍は、現在冀察政務委員長宋哲元の麾下に属する軍隊であつて、曾て馮玉祥の下に属した旧西北軍の一部である。
由来此の第二十九軍は抗日意識甚だ強く、昭和八年我が熱河作戦の時も長城線に拠つて、我軍に頑強に抵抗を試みた軍隊である。又昭和十年末に冀察政務委員会成立の後に於ても、北支密輸問題、北支駐屯軍増強問題発生以来、特に抗日傾向が著しくなり、翌年五月末の冀察文武官会議に於ては張自忠等の実力派は、数日に亙つて、強硬論を主張したと伝へられてゐる。
其の頃から益々第二十九軍の邦人に対する不法行為は一層其の度を加へ、態度も甚だ露骨となつた。
茲に第二十九軍の北支方面に於て我に加へた不法事件の中、昨年及今年に入つての分の主なるものを列挙すれば左の如き多数に達するのである。
一 朝暢門事件 (昭和十一年一月五日)
北平朝陽内に於て第二十九軍の兵士は我が鈴木大尉以下七名の乗車せる自動車に対して無法にも実弾を以て発砲したが、幸に命中ぜず事なきを得た。
二 北支駐屯軍輸送列車爆破事件 (昭和十一年五月二十九日)
天津東站に於て我が駐屯軍が輸送中の貨車の下に爆弾様のものが炸烈して我兵には幸にして死 傷がなかつたが、我が軍馬三頭は負傷した。
右の事件に対する我方の厳重な抗議に対し第二十九軍長宋哲元は、其の責任を認め、陳謝其の他の我が条件を容れ解決した。
三 豊台事件(一) (昭和十一年七月二十六日)
豊台に在る我が兵営を第二十九軍の支那兵二名乗馬にて横断せんとしたので、邦人雇員は我兵と協力してこれを阻止したる所、支那兵は乗馬六頭を遺棄して逃走せしも、支那兵約二十名は乗馬奪還のため来襲し、右の雇員を殴打して暴行を加へたるのみならず、今月事件調査のため赴ける我が北支駐屯軍本部の河野大尉一行に対しても銃剣を突付けて威嚇的態度に出で、又大尉以下を監禁するの不法を敢てしたので、我軍は、直ちに厳重抗議し、支那側の陳謝、第二十九軍の犯人及責任上官の処罰、部隊の撤退、賠償、将来の保障をなさしむる事の條件を支那側が容れたので一応解決した。
四 豊台事件(二) (昭和十一年九月十八日)
右豊台事件後近々約二箇月を出でずして、我が豊台駐屯部隊が夜間演習のため豊台の街を通行中、第二十九軍の一部隊と行違ひたる際、我が一小隊長の乗馬と支那部隊の一兵士が行き当りたるに端を発し悶著を起したので、我軍に於て、支那部隊の連長の同行を求めたる所、同部隊は俄然戦闘隊形となつたので、我軍も止むなく対峙する事となつたが、交渉の結果支那部隊が撤退することとなつた。
五 豊台に於ける朝鮮人殴打事件 (昭和十一年八月二十一日)
豊台に於て朝鮮人森川太郎は第二十九軍兵のため、何の理由もなく突然殴打暴行を受け重傷を受けたが、同地に於ては昨年六月頃より居住の邦人に対し支那人の加害的行為が頻々として起つた。
六 平綏線に於ける邦人不法調査事件
昨年来平綏線南口駅及西直門駅に於て第二十九軍兵士の清査処員と称する者が帝国臣民に対し身体及所持品の検査を強行した事件が頻々と起つたが、其の主なるものは左の如くである。
(昭和十二年二月二十一日)
平綏線南口駅に於て清査処員と称する第二十九軍兵士は我が張家口の中野領事代理の身体及所持品の不法検査をした。
(昭和十二二年三月二日)
平綏線南口駅に於て張家口の原巡査部長は同じく第二十九軍の兵士のために不法検査を受けた。
(昭和十二年三月十三日)
平綏線南口駅に於て北京新聞の香川記者も同様の不法検査を受けた。
(昭和十二年三月下旬)
平綏線南口駅に於て張家口大本特務機関長及在北平牟田口部隊長に対しても同様不法検査を行つた。
(昭和十二年五月一日)
平綏線南口駅に於て張家口の邦人商人岩橋豊楠は第二十九軍兵士のため所持品の不法検査を受けたる上散々に殴打されるの不法事件があつた。
これらの被害事件は、非常に在留邦人を刺戟し事態甚だ楽観を許さぬものがあつて、我国としては、北平市長秦徳純に対して右の如きは、日支間条約に違反する不法行為である旨を指摘して右の厳重なる急速停止に就て警告した処、四月六日秦徳純は事件に就て遺憾の意を表し、解決方法を提議したので、我国は寛大な態度を持して一応解決した。
以上掲げたものは、昨年及今年に入つての第二十九軍の在留邦人に加へた主なる不法事件であるが、此の他に雑小な排日事件は無数と云つてよい。然し我は隠忍に隠忍を重ね自重に自重をなし、一途(いちづ)に其の平和的解決のために、彼の反省を期待して今日に及んだのであつたが、今回の彼の第二十九軍が北平郊外蘆溝橋に於て我が駐屯軍に加へた不法射撃に就ては、彼は問題解決の誠意無く、又悪意の武力抗日である事が判明したので、我が政府は此処に廟議一決して重大決意をなすに至つたのである。
尚、支那全般に渡つての不法極まる排日の事実は昨年特に猛烈を極め、我等の記憶に新しきかの成都事件(大阪毎日記者等惨殺事件)、北海事件(日本商人中野某の虐殺事件)或は漢口事件(我が巡査惨殺事件)等の血生臭き事件が次から次へと起り、我国民を刺戟したが今日迄政府は其の都度厳重なる抗議警告を発して、支那側当局の善処を要望して来たのであつた。
一方其の根本的解決のため、昨年十月日支交渉を開始して、本年に持ち越したが、本年に入つてからは、彼の抗日的態度は山東に於ける税警団の鮮人に対する暴行事件、汕頭の我が青山巡査に対する暴行事件を除いては、各地を通じて表面的には平静を保つて居る様に見えたのであつた。
然し、それは全く表面だけの事で、其の実中央政府は、最近に於ける支那国民の国家意識の勃興を利用して、まづ排日抗日をスローガンとして全国民に呼びかけ、対日強硬方針を標榜して全国統一化を計画し、他方コミンテルンの魔手に踊る上海各界救国聯合会其の他の各地救国会を中心とする所謂抗日人民戦線は全支に亙つて根強い思想的の排日抗日の気運を醸成しつゝあつた。
要するに今回の北支事件は、今日迄支那全土に流れる排日思想の時流に原因するものである。