第二四号(昭一二・三・三一)
 紀元二千六百年に就て         内閣紀元二千六百年祝典事務局
 国防上より見たる米穀の問題    陸軍省新聞班
 我国に於ける犯罪現象         内閣統計局
 永代借地権の撤廃成る        外務省情報部
 最近公布の法令              内閣官房総務課

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紀元二千六百年に就て  内閣紀元二千六百年祝典事務局

   一 肇 國 創 業 の 本 義

 我が悠遠なる肇國は、天照大神が皇孫瓊瓊杵尊に「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく爾皇孫就きて治せ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮りなかるべし」と勅してこの国に降臨せしめ給うたときに存するのであつて、万邦無比の尊厳なる國體の基は実にこの時に確立せられたのであることは申すまでもない。
 瓊瓊杵尊は神勅を奉じて、日向に下り給ひ、これより御三代の間この地に於て我国を治め給うたが、東方僻遠の地は猶ほ未だ皇澤に霑はず、邑に君あり村に長あり、各々割拠して抗争を続けてゐた。そこで尊の御曾孫にあたらせ給ふ神武天皇は国の中央に都を移して普ねく万民を安んじ、皇祖神勅の御旨を全うせんと思召し、甲寅の年冬十月、御親ら軍を率ゐて日向を発し御東征の途に上られ、あらゆる艱難御辛苦を歴て遂に賊虜をまつろはせられ大和地方を悉く平定して、国内統一の大業を完成遊ばされ、己未の年春三月、「我東に征きしより茲に六年になりぬ。皇天の威を頼りて、凶徒就戮されぬ。辺土未だ清まらず、余妖尚ほ梗しと雖も、中洲之地復た風塵無し。誠に宜しく皇都を恢廓め、大壮を規_るべし。而るに今運屯蒙に属ひ、民の心朴素なり。巣に棲み穴に住む習俗惟れ常となれり。夫れ大人の制を立つる、義必ず時に随ふ。苟くも民に利有らば何ぞ聖造に妨はむ。且当に山林を披払ひ、宮室を経営りて、恭みて宝位に臨み、以て元元を鎮むべし。上は則ち乾霊の国を授けたまふ徳に答へ、下は則ち皇孫の正を養ひたまひし心を弘めむ。然て後に六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ひて宇と為むこと、亦可からずや。夫の畝傍山の東南檀原の地を観れば、蓋し国の墺区か、治るべし」と勅(みことのり)りせられて都を橿原の地に定めて宮を造らせ給ひ、その翌々年、辛酉の年春正月庚辰朔、始めて即位の礼を挙げて広く四方の民に皇位の尊きを仰がしめ給うた。皇祖天照大神の定め給うた帝国の基は、この時に至りて愈々固く、千代万代に動かぬことゝなつた。神武天皇を以て人皇第一代の天皇として仰ぎ奉り、その御即位の年を以て紀元元年とする。
 実に我国の起原は遠く皇祖天照大神が国土統治の大本を定めて皇孫をしてこの国に降臨せしめ給うたときに始きるのであつて、神武天皇の創業はこの肇國の大精神を体して国内を統一し天業を恢弘せられたものに他ならないのである。

    二    紀 元 二 千 六 百 年 の 意 義

 来る昭和十五年は正に紀元二千六百年に相当する。
 神武天皇人皇第一代の天皇として即位の大典を挙げさせ給うて以来、皇統連綿として日月の如く、上に聖天子在しまして蒼生を和育し給ひ、万民亦心を一にして皇運を扶翼し奉り、一君万民、忠孝一本の國體は克く幾多の試練に堪へて国運は愈々隆昌の一路を辿り国威は今や普く八紘を光被するに至つた。
 紀元二千六百年を迎へるに当つては、遠く肇國創業の偉業を瞻仰(せんぎやう)し歴朝の懿徳を景慕し奉ると共に、我が國體の精華と肇國創業の大精神とを広く中外に顕揚して、内は愈々国民精神の振作更張を図り、外は八紘一宇、万邦協和、共存共栄の世界平和確立の大理想具現の為に一段の進展を期する所がなければならぬ。茲に来るべき紀元二千六百年の意義が存する。

    三    紀元二千六百年の祭典、祝典、奉祝記念事業等の概要

 かゝる意義深き歳を迎へるに当り、政府に於ては昭和十年十月内閣に紀元二千六百年祝典準備委員会を設置し種々の調査審議を行つた結果、紀元二千六百年の祭典、祝典及奉祝記念事業については左の区分に従つて之を実施することゝし、更に翌昭和十一年七月には「紀元二千六百年ノ祝典ニ関スル事務及各種奉祝記念事業ニ関スル事項ノ統轄ノ事務ヲ掌ラシムル為内閣ニ臨時其ノ所属局トシテ紀元二千六百年祝典事務局ヲ置」き、同時に曩に設けた紀元二千六百年祝典準備委員会を廃し「紀元二千六百年ノ祝典及各種奉祝記念事業ニ関スル重要事項ヲ調査審議ス」る為新に紀元二千六百年祝典評議委員会を設け、前記祭典、祝典、奉祝記念事業等につき、当該主務官庁と共に鋭意調査計画の歩を進めつゝある次第である。
(一)宮中関係の祭典
(ニ)神宮竝に官国幣社以下神社の祭典
(三)肇國創業に特殊関係ある神社の臨時の祭典
(四)大観兵式、大観艦式(又は艦隊の参列)
(五)国民的祝典
(六)奉祝記念事業
 即ちち毎年二月十一日には宮中竝に神宮及官国幣社其の他の神社に於て紀元節の祭典が行はれるが、紀元二千六百年の昭和十五年には、この日特別の意味を含めて厳粛に執り行はせらるゝことになる筈である。
 また神武天皇を奉祝する橿原神宮、宮崎神宮を始め肇國創業に特殊関係ある神社に於ては、右の紀元節に行はれる祭典の外に臨時の祭典が執行されるであらう。その時期は未だ決定してゐないが、各種の事情を考慮すればこの祭典は、後に述べる国民的祝典と共に恐らく仲秋乃至晩秋の候に執り行はせられる様になるであらう。
 大観兵式及大観艦式(又は艦隊の参列)は紀元二千六百年を慶祝する盛大なる行事となるであらう。
 また国民的祝典といふのは紀元二千六百年を慶祀するため厳粛且盛大に行はれる式典竝に祝賀会のことである。政府主催の祝典はその年適当の時期に於て東京に於て挙行せられ、これと同時に道府県市町村等の祝典も適宜挙行されることになるであらう。
 全国民慶祝の表現たる奉祝記念事業としては(イ)橿原神宮境域竝に畝傍山東北陵参道の拡張整備 (ロ)神武天皇聖蹟の調査保存顕彰(ハ)御陵参拝道路の拡張整備 (ニ)日本万国博覧会の開催(ホ)国史館(仮称)の建設(へ)日本文化大観(仮称)の編纂出版等が行はれることになつてゐる。
 いふまでもなく官幣大社橿原神宮は神武天皇が即位の大典を挙げさせ給うた聖地に於て神武天皇を御祀りしてゐる神社であり、畝傍山東北陵は神武天皇のとこしなへに鎭ります御陵である。橿原神宮竝に畝傍山東北陵を中心とする事業を計画実施することは、紀元二千六百年の奉祝記念事業として最も緊要剴切(がいせつ)のことである。橿原神宮の社殿竝に境域の整備に付ては現在の社殿竝に境域は神武天皇を奉祝する神社としては余りにも簡素狭隘に失するので、既に政府に於ても昭和十年度より総額八十万円の国費を以て五ケ年継続事業として目下施行中であるが、近時神宮の境域竝に之に隣接する畝傍山東北陵の附近の俗化する傾向があり、神聖の保持竝に風致の保存上洵に憂慮すべき状態に立到つてゐる。仍て現在政府に於て施行中の橿原神宮改善整備事業と相俟つて、紀元二千六百年奉祝記念事業の一部として神宮の附属建物の整備、境域の拡張整備竝に御陵参道の拡張整備等適当なる施設を行ひ一層森厳荘重ならしめんとするものである。
 紀元二千六百年の祝典に際し神武天皇の聖蹟を保存顕彰し以て天皇の鴻業偉績を景仰することは最も有意義なことでなければならぬ。今日、神武天皇の聖蹟として伝承せられるものは数十箇所に及んでゐるが、何分遠き昔のことであり資料も豊ならず、従つて種々の異説も行はれ国民として適従する所に苦しむ様な場合も少くない次第である。故にこの際充分の調査を遂げ、確実乃至最も信憑し得べきものに対して適当なる保存顕彰の施設を為さんとするものである。
 近時歴代天皇の聖徳を追慕し奉り御陵を巡拝する者の頓に多きを加へつゝあることはまことに慶ばしい事柄であるが、御陵に至る道路の中には未だ改良を加へられず、幅員、勾配の如きも近代交通に適ぜざるものが少からず存することは甚だ遺憾な事である。故にこの際之等未改良の道路を自動車交通に支障のない程度にまで改良せんとするものである。
 国民に我が尊厳なる國體の精華と我が光輝ある国史の成跡とを認識せしめ国民精神の作興を図り、併せて国史教育の振興に資する目的を以て国史館を建設することは、紀元二千六百年の奉祝記念事業として洵に適切なことである。茲に国史館と称するのは仮称であつて、その正式の名称は建設の位置、内容の充実等の問題と共に、将来に於ける慎重なる調査研究に委ねられてゐる。
 日本文化大観(仮称)は紀元二千六百年の祝典に際し、肇國創業以来生成発展し来つた日本文化の精髄を広く中外に顕揚して民族文化の振起発揚を図らんがために編纂出版せんとずるものである。
 以上五種の奉祝記念事業は、財団法人紀元二千六百年奉祝会が全国民の協力と国家の助成とに依つてその施行を担当せんとするものであつて、日本万国博覧会の事業は社団法人紀元二千六百年記念日本万国博覧会協会に於て之を実施すべく目下主務省たる商工省の指導援助の下に諸般の計画婁が進められてゐる。

四 結論

 國體の悠久尊厳なる、我が国の如きは実に萬邦にその比を見ざる所である。来るべき紀元二千六百年こそ我国民のこの限りなき矜持と歓喜とを以て、飽くまで盛大に之を慶祝すべきである。然しそれと同時に、この機会こそは我が国の生成発展の跡を顧み将来の躍進に備ふべき重大なる時期であるから紀元二千六百年の各種慶祝行事は飽くまでも厳粛に之を行はねばならないのであつて、只一片の御祭騒ぎに終らしめない様に充分注意しなければならない。