第二一号(昭一二・三・一〇)
 五箇条御誓文 奉戴七十年に当りて  林内閣総理大臣
 五箇条御誓文の由来         文 部 省
 農地法案に就て           農 林 省
 我国財政の変遷           内閣統計局
 コンゴー盆地条約とは        外務省情報部

 

  五箇條御誓文の由来
                      文   部   省

 第一 勅意宏遠 今を去ること七十年前慶応四年即ち明治元年の三月十四日 明治天皇には群臣を卒ゐて紫宸殿に出御あらせられ、国是の條々五事を掲げて天神地祇を御誓祭あらせられました。厳かなる御神事の次第は、太政官日誌に依れば

  一 午ノ刻群臣着座
    公卿諸侯母屋、殿上人南廟」緻士末席
    入ん†ゐ
   →頓水行事
   弼舶那粥之奇田三位侍従
    さん▲lい
   →散水行邸
    紳紙樺列輔勤レ之粗放少粁
    しん▼のかさ
   →紳紙督着座白川≡位
       かさお ろ しかふ〜トハ
  一紬叩於呂志紳歌
    糾紙督勤レ之
    けん′ヽ
   →瓜供

    紳紙沓川棚川梯列
      hつhつは√■・〜
    革等流列邦迭川棚
           ●ヽ・九」り人
    沖和野付従粘放
        しルつy▲
 一天患川御
   ごさいちんよみあJV
 一御祭文譲上
    絶就職勤レ之≡條大
           J
     止椚嘗
一天皇御榊非
        したし  へいばく  た‡ぐし
    親ク解約ノ玉■串
     噂▲フ▲けん
    ヲ容蹴yク†フ
 一御誓藩瀬上
    総裁職勤レ之
  】公卿諸侯就約
        ち●えlノ
    但一人宛中央エ
    湛ミ先ツ紳位ヲ押
    y 御座ヲ秤シ而
  後鮎勤加名





  −天皇入御
  一徹供
     秤遣如ヒ初
     も げ
  一紳阿計紳歌
     紳紙督動′之
  一群乾退出
               †いさい
 と記して湯川茎して、天皇の御曹祭ほついては申すも良き乙と乍ら、か舶紆侯各壷約につきし乙と
を今浪想しても箕に紳々しjさまを息ひ浮かべられるので参u蔓ア0その御誓文には
一庚ク嘉ヲ射y別称公彗決スへy
          書かん けい●ん
 l上下心ヱ;チ盛エ経輸ヲ行フへy
  くhん∫いりとしよふん      と    ,
 一宮武一途庶民1壷ル迄各其志ヲ鎗ケ人心ヲyチ倦マサラyノン革ヲ要ス
    ‡lフもい ろ,しふ              lとづ
 一昔凍ノ障習ヲ破す天地ノ公式エ基クへy
    ちし●             {h▲i しんき
 一姦ヲ世界エ求メ大I−鼻基ヲ振起スへy
と参ります0乙の時紳ヰをあ祭りになつたのであり会すがその御条文の中ほは次の》青菜がむざいま
 す0
郎新和軒湘宗宗l義男照準む削潔柑遊撃朗.稲武.郎嘲可鞍朗

 パ謁か禁批鵬懲讃如意抑
 尉々朗奈川l胡伽奈留崇戎
   †べらいが土つりごと々あむむ小土つ〜つかへ1つちせたiへ とこひのゥーセ†
 盈我 敦 賀輔黎審判令仕奉給閉止詣所申
   とほつみおやのサーとのみハエ?山ゆ々かうむり てとこしへにつかへ土つれ
 速 勅令乃思和束沖水利天無窮仁仕奉祀
   るひとともの け ふ のうけひ にた〆は むものはあ1つかAくにつかみ
 帝人兆乃今H乃誓約爾逆波無音波天神地兢
   の〃ち土ちにつみむひた土托 むものr と
 乃倹忽七刑罰給波撫物甘止
又群駐に御誓文を畢不しに々り空した勅弼に
    み モ I へんか′ヽ
 我嗣未竹村ノ埠革ヲ名ソトy
                  ちか
 股朋ヲ以チ彗先ンy天地神明壷ヒ大l鹿
                          L▼
 岡是ヲ定メ萌民保全ノ道ヲ立ソトス衆亦此旨
 しゆ   けふしん
 趣一−共キ協心努力セヲ
 と仰ゼ出されて、一常萌民たる我が紳閑の姿を
 見る乙とが出水るので為ります。更に叉乙の時
          しんかん
 あ下しになり空した御壊翰を挿し会すと
     入うにやく     にはか   とう  つ  じちい
 股幼崩ヲ以チ狩I−大統ヲ紹キ爾泰何ヲ以テ









     たいりつ
 萌圃エ封立y
  hつ モ つか hトて王つ   て●}†l享よ●’′ヽ た
 列租エ事へL琴ラント朝夕恐愕エ堪へサルナタ
   せいきゆう                               え・♪
 と聖那を仙労ゼらるゝの勅意を挿し奉り、中葉
    ろ, てうせい おとろ  ¢ゑん
 武家樺を辞して朝政の衰へし所以を述べさゼ
 ら爪て、
   おくてう           た人 号●し じや,  し      もた
 億兆ノ父健トぞァ紹チ赤子ノ情ヲ知ルゴト能
           はか      つひ  おくてI IFさ     たr
  ハサル械計,ナシ蕗エ億兆ノ君クルモ唯名ノ
      はて  ト‥dの
  ミエ成ブ果共力一馬テ今日
     てい  モ、んちや1ノ  いにし    は√
 朝廷ノ尊重ハ☆ヘエ倍セyカ如クエタ
   ゐ ‡†土T   あひ‘む    せlフじや1
 朝成ハ 倍衰へ上下粕離ルーコト啓嬢ノ如
                    ′ヽん」ワん
  シカカル形勢エチ何ヲ以チ天下エ常臨セソ
  ヤ今般
   てうせい  しん     ちた  てんかおくてI      モのところ
 朝政一新ノ時エ鷹す天下億兆一人モ其虞チ
       ネむhれ つさ        しんこつ
 得サル時ハ凄腕力罪ナレハ今日ノ事険身骨ヲ
 那シ舶かヲ如/批批ノ撃→繋郎へ祁敵ノ新
       たl   もと  ふ   ち†‡  つと       はCわ
 サセ給ヒy樅ヲ履ミ治顔ヲ動メチコソ始チ
   てんしよく ほ,   おくて} 与さ       ■.む
 天職ヲ奉シテ億兆ノ君クル朗I】背カサルヘシ

                         一∧′▲Yヽ▲            l●ヽ▲
と仰ゼ出されて居り空して、天追御朝政の叡慮のはどを押し会すと拘に暴れ多き乙とを戚ずる次欝
 で参り萱▲ア0
                                  あり†がばのみやたるひと
第二 御誓文奉澱 御誓文を押し空し陀群駐は乙の宏遽なる勅詮に封し奉り材柄川宮蛾仁親王を始
 めとして公卿譜侠は御背丈奉戴の兇約についたのであり会す。その奉答審には
      くh〜えん       かんめい たへ†               き モ      いづ           つ・しふ
 勅意宏速誠エ以チ戚鮒エ不桝今日ノ急務、氷牝之兆碓此他一【出へカラス臣等注チ
   入いし  牡,一hh√         けんべんことにしハがひこひね〆げ
 叡旨ヲ奉戴シ死ヲ智ヒ馳勉従事 菜 クハ以デ
 しん▲すん や†ん
 裏山襟ヲ安シ奉ラン
                 しんかん                  でひつ
 と為ります。又御裏翰につき会しては総裁輔弼の名を以て
      とほb      さ・’†い
 御貴翰之温顔ク天下億兆蒼生ヲ
 おはしめ
 息食サセ給フ滞キ
           ごしゆい         もの  いた ミでけいしや, たてlつ  こころ人◆叫がひこhなく
 御仁意ノ御趣意二付未未之者ヱ室ル迄敬承y奉り心得達無之
   こくか  たら  せいせい■・のぶん  りく
 同家ノ▲馬エ梓々其分ヲ轟スヘキ事
     ゆ し            h・つせいふ′ヽ・−      †べ          よ
 と同氏に教示すると乙ろが参り空した。王政復古直後の政治が凡<乙の五箇條御誓文に破られ空し陀
      lノるふ           せいたいしよ
乙とは、同年駒川月l手一日定められた政憮音にもその初めに御誓文を掲げられ、「鼻政維新撃三
警置蒜チ八局ヲ設ケ蓑ヲ分儲ス表芸熟祁ノ問責未ク似い鮎…彗姦御誓文ヲ溜
       ちひもらたわさせちれ    だじやきl−hん
的トy政硝職制被粕改侯云々」と太政官より達して居りきす。又常時各藩は藩政改革を待つtゐ







            lI t             はん
 空したが、その改革の兆礎を五革御誓文に置いて居る藩が多く、熊本津では「御誓文ヲ目的トy、上
          じゅんほ,                                              ヌ一
 ハ維新ノ政憫を超奉シ、下ハ滞治ヲ公訴シテ公法ヲ立タ、、以チ是ヲ行政司法ノ官エ授ケ、藩民ヲ撫
 亡ゆつ あミね             はかた
他シテ周ク 盈化ヲ施サンーヲ妥ス」と云ひ伯太藩は「綿政御曹文ヲ以チ目的トス」と定め、大海藩
                              あしが,甘
は「御誓文五綺條之和解」なるものふ藤内に神山付し、明治光年足柄糠は五筒條御誓文を刊行して械角
   ほんぶ   せんけうし
村々に舶和し、又寛敢使中には乙の條々姦為して同氏敵将に務め、幹網攣二島紳触は「御誓文大意」
            こしゆし てつてい
 なる一番を刊行頒和して御末旨の徹底を期したので参り萱ア。
                けいおう                   よしの月     竣うくhん        1ちろth,
第≡ 草案起草の歴史・慶應三年十月十川‖十五代柑翠徳川慶事は大政を奉還致し空した0勿論王
 †い・てこ      つうT               め√ぶん もと             たいかう
政復☆は常時の始発で為り空したが、その水分の下に如何に政治組織の大網を定むべきかについては
          ・てrい              た♪托う〜やう    エ ー}て,      1I    托た
常時色々の問題が伏托してゐたので参ります。大軍令の制皮に破る王朝の普をその使にて−果して曹
        てさ        rもん いだ                                 lは’
時の時勢ほ適ずるや否やと疑問を懐く者も参り、又一部には軟洲に行はるゝ靖合判度を横放して之に
                           こんとん
基いて詑をなしてゐる者も為つて、政治思想界は謂はゾ混沌たる状態であり空したので、十二月九日
              〃:かうhい くhんはつ                         ちよくじやう
に充つて玉政鎚巾の大地令が漁蛍ゼられるに至つたので参ります。その勅綻を挿しますと
         ●てゐはんくhい おんもとゐハ・せちh     せつくhん    はいでつモ?−ん土づか   モう雀いr号?っ苛んょ さんしよく
 「王政紘☆開成挽同ノ御兆被角立條同日今瑞開幕僻等膚紹即今先侶,エ総裁講定参輿ノ三職ヲオカ
             ちとづ しんしんぶペん〃うじやうち げ →つなく    つく   さうせ●
レ酋横可被為行諸事紳武創発ノ始メエ原キ結紳武弁堂土地下ノ無別室常ノ公講ヲ均シ天下卜休戚ヲ
    ぁモはきるべ}        むいちん ちよく1ん「−にん−・てじ ご11がかサーモうぶ けでん■・,しゆごしよくしよしだい
同シク可被遊」と為つて、佃内兇 勅閉御人数国事御用掛講葬式家伴奏守笹職朗司代等虜ゼらる・
   だじや}l−h人はCら              音1へい              どうかい
卒、太政官始浪々興させらるゝ事、音節御一洗につき音譜の遭胴開ゼらるにょつて見込参る向は

     か・    Iたん                  と・i,                        ¶ヱじ†}
溌鵬ほ拘はらず忌仰なく郎言致すべく、且人材登成算一の御急務につき心常りの人為らば言上すべき
             と}き                           かさ        き人手ふ        ひつ今やう
珊、泣年物椚格別腐食如何ともすべからざる勢笛者は益宵を累ね質者は糸努念に禿りたる趣挙党政令
                                         しんちゆ・, なや              ちぼうゑんし亨へい
不正より致す朗比は‡瀦の大筋げ耕御一新の折柄労 定衣を憎まゼらるゝにょり部課藷救弊の
       トhhかh
策あるものは維枇なく巾川ずべしなと仰ゼ〓されて居り芝す。次いで昔々王政複台の下に政治が行は
                                    いlノし   こく′I
ゼらるゝに発つ托のであり空したが、その年末か究明治元年の年珂頃に有司の間に同是を樹成するの
                                           さん よ 血丁 り
粥があり空し托。今H牝に公にゼら札付るその岡是秦と思はるゝものは、藤井洋士参輿由利公正の自
                              Cや−しよ
粥秦に、市如滞火参輿浦川拳沸の佗正加粥したものと、締岡孝弟の沖脅したものと、中外新聞外務
  けいさい                                                                き モ
に粥織ゼられたものと、その秦に水戸孝允の加韓したものと、都合四通り参り萱すが、その基礎とな
つて肘るものは山利公正の尭と瓜は札ます。その轟には
   溝小之欄大意
 しょ入・ん         ・)
一席比志を速け人心をして倦まさらしむるを欲す
             けい▲ワん
一土民心を一にして盛に純綿を行ふを要す
一智縄を枇界ほ求め硬く 鼻兆を掘起すべし
  こ}し
一貫士卿舶を以て賢才状況るべし
一萌機公油に映し私に冷するなかれ
   れつこうくいいめい                          たいしや
 諸侯令兜之御趣意お等之筋に可披 仰出哉大赦の串









 とあります.乙れを更に稀訣F弟が次の如く修正したので参りきす。
       ・曾盟
    hつこう
  一列侯曾帯を興し常横公論に決すべし
   くh人月 いつ としよみん
 一宮武一漁庶民エ売る迄各共志を遊ケ人心をして倦まさらしむるを欲す
  一上下心を丁一し感に線輸を行ふべし
 一各級を他界エ求メ大エ
   鼻基を振起すべし
   ちよ,し       ●づ
  一徹士期限を以て賢才エ譲るべし
   右等之御趣意可被仰出戟且右曾盟相立傾度一−て大赦之令可被仰出哉
   一列偉骨盤ノ式
       ヒルんけんし
   一列藩巡見使ノ式
 何別に中外新粥外務朗我「京都曾盟の式」ほは
       ・明几約
   列侯曾積を輿し苫横公論に決すべし
   真一金戚民に至る迄各其志を簸けて人心をして倦萱ざらしむるを欲す
   上下心を−托して盛に緒給を行ふべし

   知細川を世界に求め大に 盈兆を振起すべし
    緻士期限を以て一賢才に譲るべし
                    けふりよく            ちかJ つかきど
    右の條々公平筒易に兆き 膀列僕庶民協力唯北日本を保金するを妥とす盟を主る事如斯
    ‥背く所為る串勿れ
 とあり会す。今之等を穐驚い托し会すと、その一貫して居る政治思想は禽盟であり空す。帥ち誇大
                                       な へん
 爺が禽合し盟約し互に相呼るべきを智ふ乙とに参つたのであり会す.。かゝる政治思想が郡遽より衆つ
                                                              ▲●I
 たもので為るかを知るには、先づ由利公正及縮糊孝弟の畢統を鬼る必要が参り会す。由利は其の帥境
 一々 せうむん
非小鵬の戚化々受けた人ですが、横井の政治詮はその著晶封議」に於壬見る働く、謂は還本的政
 治瓜想を懐いてゐたので参り会す。その稗詮の要旨が由利を娼して開是轟に表れて居り会す。稀糊孝
                  い”“
 前は土佐に参つて常時土佐人一部の懐いてゐた時務発の一つで参る鶉骨組繊論を唱へた一人である。
 山利とは謂はゾ真義を同じうしたので参り会す。
 かくして乙の尭を内申するに責つたので参りますが、曾時副総裁窮定三條芙輔弼中山郎耶等公卿
                                   きねとみ

 は之に封し陥る意中かならざるものが参つたのであり空す。かゝる形勢で参つた馬岩倉具鋭は緻士参
              ▲●しみち
 申哨内開串務局判事大久保利穐を訪うて相談する朗が参り空したが、徴士参輿職絶表局顧問木戸孝允
 は蛇におの一触撃フ奏稀を上つるに至つたので参∽ノ払ふ▲ア0
   入・∬r巾bは                与だめヽせんh
  仰 餅クハ前途之大方針ヲ披角足










      し ■・んしトh し
                                              しめヽ−せちhた′ヽ
 車律動敷ク公卿諸侯及官甘ヲ率ヒ神明ヱ被為誓固是之確定アル朗ヲyチ遽エ天下之衆度エ雑多不度
    しがんにたへサ
  不拭禿山頃L保
                     てんじんち y  ゼいき√
 乙ゝに於て禽盟の主義は消え空して天皇には天御地紙に御誓祭参り、群旺盟約に就くの儀確立し、
 北が閑欄は益そ明かとなつたのであり翌す0而して其の盟約の文字は之を抹消して1誓Lとなし、1徹
                        ろうしう   lノだい
 士期似ヲ以チ賢才二譲ルベy」の行を抹して「香水ノ隅智ヲ破y宇内ノ通学−従フベyLと加筆し、又
條々々次第し空した。孝允臼蟹の文沓が僕侍家に存する事貸より見ると、木戸孝允が御誓文の革秦に
 関する意見の程を解する乙とが刑務るのであります。
              へんかく            はか               ・盲r とでつ
第四緒鈷凡そ融合の拍車を行つて国内の統こを周るに皆川会しては、多くは内公靖を杜推し、外
      しゃだん いうし  ほしい●TI
諸岡と交際を遮断し、有司政を檀にしてその目的を達成ぜんとする例が外国には砂くないので為り
                  よ へい
まア。然るに明治維新の際には嘗制の飴弊未だ去らデ、文明は外圃に此して著しく劣れるものが為つ
   か・は                                土いしん
たに拘らヂ、宏速なる勅意の御誓文を開是とゼられ、上下一鰭輿固に邁進ずる乙とゝなり、遂に今
日の如く開運の隆昌を観るに東つた乙とに想到いたし蟄了時に、御誓文の有難味を切に威ヂるので参
                                        せうカ・)
り会す。その「頻ク曾韓ヲ輿シ常梯公彗決スへy」と参り会すのは後の憲法韓布に照應アベく、1上
下心ヱl;チ盛エ経給ヲ行フJシ」「宮彗途庶民−壷ル迄各其志ヲ藩ケ人心ヲyチ倦マサラyメ
ソ事ヲ要ス」の條は拳竺致東栄軍事の発達に不断の努力を為すべくカ甥き御示しを賜つたもので参
り、「沓承の耶靴ヲ破美地ノ公彗基クへyと萱はやが重岡興隆條約改正の棲成ゼらるゝ基と

                                           い・’●り
怒り、「智細ヲ世界エ求メ大I【 良兆ヲ掘起スへy」とあるは文切開化の時勢を誘致して我同郵術の湛
渉を促したもので参り芝す。観衆れば今口例迦の准展岡威の額掲を見空した乙とは一に乙の固是に兆
かざるものはないのであり会し乍、滋に五術條御背丈奉戴七十年の記念日を迎ふるに普り、今更に
         ¶}入いりよ                    ごせいし                   ふくよう
嘲治天皇の御叡慮のほどを押鶴し奉ると北に、御聖旨の布ずると乙ろを愈†奉戴服鷹して現下の非常
時朗に廃するの覚悟を期ゼねばなり芝ゼ瓜。