第二〇号(昭一二・三・三)
 日満関係の現状           対満事務局
 陸軍記念日に際し日露戦役を回顧す 陸軍省新聞班
 注目を惹いた中国三中全会の経過  外務省情報部
 最近公布の法令           内閣官房総務課

   注目を惹いた
    中国三中全会の経過
                     外務省情報部

   一 三中全会に対する各派の動向

 西安事変の後を受けて開かれた中国国民党の三中全会(第三次中央執行委員全体会議)の経過如何は各方面の注目する所であつた。特に我国としては同会議が曩に張学良等に依つて主張せられたと伝へらるゝ容共抗日政策を如何に処理しようとするかといふところに重大な関心を持つたのであるが以下簡単に三中全会前に於ける抗日派及共産党等の策動竝に会議の経過に付説明を加へることゝしよう。
 西安事変後勢力を増した人民戦線派の抗日救国運動に対して国民党部は全国の人心を収攬するために人民戦線派に対する対抗策として救国統一運動を企て所謂国民戦線運動を開始し、一月九日上海に於て封建的残余軍閥。共産党及所謂人民戦線或は聯合戦線、その他一切の反統一勢力を否認し、全国一致統一救国運動の完成を声明した救国統一宣言を発表したが、一月十七日には中国文化建設会の主催で救国統一運動討論会が開催せられ、その後この運動はC・C団を中心として全国各地に拡大され二月十五日にはC・C団を中心とする市党部、文化建設会、大学中学各教職員聯合会、総工会及同業公会の代表者を以て上海各界統一救国大同盟が結成され、その主張を三中全会に採納(さいなふ)方を電請し、代表を三中全会に派して請願させること等を決議したのであつた。
 また抗日派は三中全会の期日の切迫と共に運動は活溌となり、上海各界救国聯合会は全国一致抗日救国の請願運動を起し、十四日には上海各界慶祝三中全会開幕大会を開き、全国抗日救国、三中全会擁護を叫び、一致抗日、国民会議招集、即時出兵、失地回復、打倒親日派、擁護蒋委員長領導全国坑日、聯合英米仏蘇協同反日、打倒日本帝国主義等のビラを撒いて示威運動を行つた。また中国共産党中央執行委員会は抗日協同の目的から三中全会に対して (一)内戦を停止し国力を集中して一致対外すること (二)人民の言論、集合、結社の自由を保障する乙と (三)各演、各派、各軍の代表会議を召集し全国人材を集中して共同救国を為すこと (四)迅速に対日抗戦の一切の準備工作を完成し人民の生活を改善することの四項を決定されたき旨を電請し、同時に共産党は (一)全中国内に於ては国民政府を顛覆する武装暴動方針を停止し (二)中国ソヴィエト政府は中華民国特別区政府と改名し紅軍は国民革命軍と改称し何れも直接南京政府及軍事委員会の指揮を受け (三)特別区政府の区域内にあつては普遍的、徹底的民主制度を
現し (四)地主の土地に対する没収政策を停止し堅く抗日民主戦線の共同綱領を執行する、ことを自から保障する旨を宣言したと伝へられて居る。
 なほ三中全会に出席しなかった地方有力者の中で山西の閻錫山は趙丕廉、除永昌、李鴻文うぃ代理として出席せしめたが会議に対しては何等の提案をしなかつた。廣西の李宗仁、白崇禧は四川の劉湘及在廣西の中央委員との連名を以つて、目前の対日抗戦、危亡挽救に関する最低限度の方策として (一) 対日抗戦を発動して危亡を救ふ案 (二)民衆を組織訓練武装して抗戦動員の基礎となす案 (三)民衆の愛国言論を保持して愛国運動を開放して救国の力量を拡大する案を提出したと報ぜられて居る。

   二 会 議 の 経 過

 斯くて二月十四日までに提出せられた議案は馮玉祥
、李烈鈞等の救国禦侮に関する建議案を初め二十数件に達するに至り、蒋介石も上海より帰り余漢謀、曾養甫、沈鴻烈、商震、張発奎、何成濬、徐源泉、秦徳純、何柱国等の中央委員も続々入京し、愈々十五日午前九時から中山陵前に於て開会式が行はれ、蒋介石は出席せず百七十六名の委員が参集し、汪兆銘は左の如き開会の辞を述べたのであつた。

 「全国の和平統一は二中全会の宣言に基き著しい進歩を示し、西北の共匪は自滅に垂んとし、また綏遠の役に於ける奮闘は守土禦寇の成果を挙げ、同胞に一線の希望と無限の勇気とを与へた。西安事変の発生は救亡図布の基礎に異常の動揺輯を与へんとしたが幸に蒋介石の脱出を見、秩序を回復し和平解決を告げた。然し国難の益々加はる際、失地を如何にして回収すべきであるか、未だ失はざる領土を如何にして保ち得るべきかは今後の努力に俟たなければならぬ。これが吾々工作の中心問題である。また西北の不安が未だ去らない今日、統一と安定を図り既定の国防計画及剿匪工作を挫折させないことも当面の急務である。惟ふに救亡図存は国力の充実に保ち、進んで民力の増進に俟つ。吾人は如何にして民権主義に基き民主政治を樹立し以て建国の工作を完成すべきであるか、これまた当面に解決を要する問題である。」

 開会式に次いで中央党部会議室に於て予備会議が開かれ、(一)蒋介石、汪兆銘銘、戴天仇、王法勤、馮玉祥、于右任、孫料、鄒魯、居正を会議の主席団に推薦すること (二)葉楚(いふそさう)を会議の秘書長に推薦すること (三)会期を三日乃至五日とすること (四)提案審査委員会は党務、政治、経済、教育、
軍事の五組に分ちその人選は主席団に一任する乙と (五)提案は審査委員会の審査を経て主席団に送付すること竝に十七日を以て提案の受付を締切ることを決議し、十六日より正式の会議に入つたので
ある

△会議第一日(二月十六日)=は先づ綏遠陣没将士及西安事変犠牲者の黙祷があつて議事に入り予備会議々事録、秘書処報告、提案審査委員会委員名(党務組陳立夫以下三十八名、政治組邵力子以下四十
七名、経済組孔祥熙以下三十一名、教育組王世杰以下二十五名、軍事組可応欽以下三十五名)党務報告(常務委員会、組織部、宣伝部、民衆訓練部各報告)政治報告(中央政治委員会、行政院、立法院、
考試院、司法院、監察院各報告)があり更に党務報告を党務組の審査に附すること及政治報告を政治
組の審査に附することを決議した。
△会議第二日(二月十七日)=は主席団より大会の宣言起草委員として汪兆銘、戴天仇、葉楚
、邵力子、陳布雷の五名を指名したことを報告した後議事に入り、何応欽の軍事報告及張群の外交報告があつた他何等の討議も行はれなかつた。
△会議第三日(二月十八日)=は孔祥熙の財政報告及国民大会選挙総事務所の工作報告があつた後に党務

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組、政治組及教育組各審査黍貝曾から穂出された各耗尭を上程し、討論の埠掛一十教件の誘秦が通
                     さいみん
 渦しね。その戦実は政治に賄するものは災民救済、音更制度の改正、地方自治の改革等で教育に肺す
 るものは畢枚制度の改聾及教育費の増額に関するものが主で為る。なほ李宗仁等が提案した民衆を組
                  ▲す▲ようこ
 織訓練して杭敵地動員の共礎を撃固にする案及変圃約言論を保障し愛開運動を解放して救国の資力を
 檜大ゼしむる実も上程されたが、参考意見として珠樺し中央に交付する乙とになつたと停へられて居
 る0
 △合轟第凶Rス二月十九旦=は薄介石より国賓事礎の経過に関する左の如き聾菅が提出され陀0
  「丙安事項は金団軍民の正義により叛乳者を悔悟ゼしめ平野に蹄する乙とを得、自分は十二月二
 士八日壁点し張畢良も自首した。常時叛乱流は朗串に関する主張を池電し外聞の注意を虚したが自
 分は終始粥を叱責したため張は各部の意見を首ひ轟さデ、串率教生後の草二日に室つて初めて所謂
              かいモ
 八項即ち (一)南京政府を改組し各蕉各派を交へ救国に曹る乙と (ニ)一切の内観を停止する乙と
               りやゥしう
  (三)上海に於て速補した変固の領袖を梓放する乙と ハ四)金団の政治犯を樺放する乙と ハ五)人
                                                モん
 民の集合、結社その他一切の自由を保護する乙と (六)民衆の富窪動を解放する乙と (七)孫漁
   ゐしよく   じゆんしゆ
 理の池場を確貿に漣守する乙と ハ入)救圃曾耗を即時召集する乙との貸行を自分に強要したので自
 分は張に射して、罪を悔い自分を南京に捻還する乙とを命ヂると共に、蕉閑には一定の組織と系統
                                       さと
 が参るから何等か異見が参るならば中央に陳情アべきを熟したと乙ろ張は自分が蹄京した後に乙れ
 を中央に提出アる乙と姦う托ので、依つて自分は中央に提出アる乙とは弟文へがないが自分は弦

 の主張には不賛成で参る乙とを必ず考明すると答へた。三中重合ほ於ては河北の蓉後措遼ほ通常の
                   けりんトhウ
 支持を輿へて明朝に射し詳細な瞼討が参つたが、乙ゝに張の要求ずる八項目の主張に封する経過を
 述べて参考とする次第で参る。」
                   モ ち                      じゆんしよく
 乙れに対して大倉としては蒋の取つた措置に封して深く戚謝慰問すると共に、事襲のために殉職し
           ▲のいトトう
 た文武甘に封しては哀悼の意を翠示するもので参つて、特に叛乳者が蒋に要求した所謂八項に対して
                ・はい
薄が厳然乙れに反封したのは威偶に堪へ瓜0乙の種の要求はその内容の如何を間はず救逆の行為と覿
 ゐ                    lす
 成の方法にょつたもので参るが故に、開法及軍規上許すべからざるは勿論、本大倉に於ても乙れを取
             つゐきう
 上げず唯悔悟者に封しては追求しない乙とゝした旨を快哉した。
 次いで討鶉に入り各審査委員曾から上程した (一)地方自治綱領草案は常務委員曾の研究に附し
     くhい“りウ
 (ニ)世界同数桝毅との政治、経済、教育、文化賄係の野生方に汲キる一定方針確立秦は中央政治委員
           きよう                               こ
 曾の審哉に移し (三)筆固な和平統一貸施方策確定尭は政治委員曾打審講に附し (四)庫金三宮粛元
                          べんはふ こうきう
 総理紀念畢輿働金設置秦は文化節栄計書委員曾をして更に群法を攻究ゼしめ常務委員曾の決義に移す
     ていあん                             てい
 乙と等の各提轟を決鶉した。萱た滞介石から提出された二月十入日附本衆各職離職鼻文は主席汲ゥら
 慰留万の意見附で上程されたが、同氏賞は困難の折柄薄の領導の下に努力邁進を望むを以つて乙の際
         書
 簡職の願出は鵡届けない乙とに鼻骨一致を以て決萌した。
                                      てい
 △曾萬節五日(ニ月二十日)=は主席園捻出の同氏大食に賄する我尭を上程し左の如く決定した。
  ハ一) 今年十一月十lニ旦二民大倉を開き悪法を制定し故にその施行期日を決定する乙と








  へニ) 同氏大倉組織法及代表選拳法に改正を加ふべき乙とが為るならば常務委員曾をして乙れを行
   はしむる乙と
 (三) 固民大食に関する提案は凡て常務委員曾に交付してその参考に費する乙と
 乙れに引緒き三申鼻骨宣言草案を附話したが討論の結果修正すべき郵を生じたので閉曾を宣する乙
 とが出水ヂ改め′上一十一日に間合式を行ひ宣言を教表する乙とゝなつた。
                            こんすつ
 △曾諌第六日(二月二十一日)=は主席淘の提出にか・る赤北根絶決講尭
        へんきやう
 「現在北東糸は遽境の地に在り中央に誠を誓ふといふ訟が停へられて居るが、典産真の過去に於け
                                 じゆんし血r
 る歴史に徹して彼等が具に改心し三二民主義に服従し、図法耳令を遽守して支那の良民となるので
 なければ中央は閑寂の治安の維持、人民の生命財産の保護上乙れを放任して浸く乙とは出水ない。
 ょって中央の執るべき骨南に於ける最低限度の便法は (一)主義の相容れない所謂紅軍及その他赦
 似の名目を有する武力は徹底的に取消す乙と (ニ)所謂ソゲイエー政府及その他同家統一を破壊す
 る組織を徹底的に取消す乙と ハ三)三民主義と絶対に相容れない赤他言倖を根本的に停止せしむる
 乙と (四)武装暴動の手段に出て敢曾民衆の不安を紹水する階級闘季を根本的に停止ぜしむる乙と
 の掴鮎であるが、要するに狗立自主の同に於ては断じて牛同家、牛民族にして而も外力に附加する
 南饅の存在及民生に有卓にして道徳を破壊するが如き行為の参る乙とを許さ瓜。吾人は先づ支都民
            くhいふく                      はんと
 務固有の梢紳と道徳とを快復して淘立自主の人格を樹立し得れば、支那固有の版同を復活し歴史
 的光桑を拇承しイ上二民主鶉を賓現し符べき乙とを知る乙とが出水る。即ち赤北の故絶は支郵の固家

         一へiI
 民旗繊維の不易の大道で参る。」
            しうぶつかい       ちんこウは′ヽ
 一、小火民衆訓辣部長周彿海の解職を許可し陳公博を後任に推す轟
         bう ろ いん †
 一、中央巾代悌部長劉鹿憬を柁め後任に即力子を推す尭
            こかんみん
 一、中央常務禽溝は主席胡漢民の死去兜に剤美作蒋介石の職務繁劇に過ぐるため今後主将制を座し
  常務黍只榊を従活する轟
 等を山礪決した。
 斯くて閉令式は二十二日に行はれ次項の如き宣言を韓して三中各曾は終ったのである。

   三 三 中 仝曾宣言

−封外方針
 支那は今H萱で孫文の遽訓で参る自救自強の途並五重大曾、二中鼻骨等に於て決定せる方針に基い
 て最大の弘耐と決心とを以て開家の生存と民族復興の活路を求め、和平が全く絶柴の時に至らなけれ
           はうき
 ば決して和平方針を拗東しないが滞一の場合は最後犠牲の大決心を以て外岡との和平に封して最大の
 努力を為して凍たが、二中鼻骨以後の封日交渉も仝く乙の方針に基いたのもので過去数ケ月間折衝し
      ひん            かく
 度.、決裂に瀬したが終始社務の方針を烙守して水た。今後も右方針を栂承し且乙れが遊行に努むべ・く
      かりむ
 若し閥家の蒙る拙劣が吾人の忽耐の程度を趨ゆる乙とが参れば決然抗戦の態度に出るが、乙れは盟丁.
 なる自街の手段ほ止まり決して排他的意味を含むものではない。併し乍ら吾人の和平の希繋が各くH斯









                                                ▲ひ ▲r
 穐せられない以前に於ては平等互京及領土主樺互食の原則により漸次に解決を発し、窟をし<その
  いらい          うしな                  くわげはんばう                     寺とり さり
 侍租すると乙ろを喪はしめ(二十一日の上海華美晩報に発表された宣言文には「巽東、察北の姥鰐をし
     い′りい
 てその倍租する朗を喪はしめ我華北行政及主権の障審を除去し」云々と参りたが乙れはその後削除さ
                                      けんあん
 れて発表されたもので参ら官・ノ)以て主樺の完成を期すべし。然るときは南開懸轟は未だ完全に落著し
ないとは錐も和平手段を以て跳糾を解決し得べき可能性が漸次現はれて凍るで為らう0乙れ支那が拳
 固一致して最も飽い期間に貫徹を期すべきと乙ろで参る。その他一般の閥際関係は和平の原則に基き
 政治的協調及経彗H作の賓現に努むべきは勿論である。
 〓 封内方針
 和平統一は数年以凍、金団民が→致して守つて凍た信條であるが、和平統一と所謂内戦停止とは虜
狭の差乙k参れ民族のカを集め目前の岡難を排除し民樺主義の大道に踏み入り国際間の淘汰から免れ
                                                 人山一ワ トト

ょぅとする目的には鍵りがなく、従って同一主義の下に於て単なる意見の相違にょり武力闘寧を馬す
が如きは同家として凍らないと乙ろで参る0典産分子は最窄共同那餅の頼語を以て呼懸けて居るが
                                              くLけ
過去の歴史に照し図民革命を破壊するもので参るから、方法の如何を論ぜヂ自カを以て赤銅の枚紹を
為さなければなら瓜。その他民衆の組椅及訓練は国民真の天職で参るが、同氏大倉開催の準備が未だ
              とく■く
盤はないから主管横閥を督促して速かに右大倉を相集し恵法を制定し民権主義の基礎を樹むるに努む
べく、芝た経済趣設も国家統一の進行上重要なる間堰であるが、右は孫線理の民生主義に基き農工蕗
発の発展を計り金剛経済の安定を兼するであらう。