第二〇号(昭一二・三・三)
 日満関係の現状          対満事務局
 陸軍記念日に際し日露戦役を回顧す 陸軍省新聞班
 注目を惹いた中国三中全会の経過  外務省情報部
 最近公布の法令          内閣官房総務課
 


   陸軍記念日に際し日露戦役を回顧す
                       陸軍省新聞班

   一 は し が き

 三月十日は我が陸軍の記念日である。
 この日は過ぐる日露戦役に於て、我軍が奉天合戦に大勝利を得、露軍の死命を制して戦争を終局に導き、我国の威武を中外に発揚した意義深き日である。
 陸軍に於てはこの日一般に業を休んで祝意を表し、幾多戦没者の英霊を慰むると共に、当時の偉勲を回想して将来に備へ、益々国運の伸張を期するのである。
 日露戦争は実に我国が国運を賭して戦つた曠古(くわうこ)の大戦で、その偉業は今日の帝国の進運に如何に重大なる関係を有するかを思ふときは、この日は単に陸軍のみならず、国民全体の為にも忘るべからざる記念日と謂ふべきである。
 歳月は廻つて今年は実に第三十二回の陸軍記念日を迎へることゝなつたのであるが、昔年を追憶して(うた)た感慨深きものがあるばかりでなく、殊に非常時高潮して今や内外の情勢は恰も日露戦前のそれにも髣髴(ほうふつ)たるものあるを思はしめらるゝ今日、この記念日の意義亦愈々重大なるものあるを覚ゆるものである。
 乃ちこゝに陸軍記念日制定の由来よりその意義を述べ、更に当時を回顧して現時の情勢に備ふるの覚悟に資せんとするものである。


   二 陸軍記念日の制定

 陸軍記念日が制定せられたのは、明治三十九年一月二十五日で、当時の陸軍大臣寺内正毅より全軍に対し左の如き布告が発せられてゐる。

 明治三十七八年戦役に於ける陸軍記念日を三月十日と定む自今毎年同日を以て陸軍一般祝意を表すべし

 尚之と同時に陸軍次官石本新六の名を以て左の如き記念日設定趣意書が発せられてゐる。

        明治三十七八年戦役記念日設定趣書

 今回の戦役は我国曠古(くわうこ)の大業無前の壮図にして皇威を宣揚し国権を伸張し我武()れ揚れり是れ我国史上に一大光彩を加へたるものにしてこの偉績は軍隊の永く後来に忘るべからざる所なり是に於てか年に一定の日を期しその洪勲(こうくん)に対し祝意を表する為適当の式典を行ひ或は相会して往を談じ来を語ると共に戦没者の英霊を慰め以て後進者を砥励薫陶(しれいくんたう)し益々陸軍の進歩を図ること頗る有効のことなりとす而して従来の戦役は徴するに各部隊又は関係者に於て随意記念日を定め一部若は一戦闘の記念会等を行ふものなきにあらずと雖も是等記念曾等はその範囲狭小なるが為年所を経るに随ひ関係者の減少若は部隊長の更迭等に依り自然永続せざるの傾向ありて永遠に之が目的を達すること能はず加之是等記念日はその数多きに従ひ益々その価値を減ずるに至るが故に今回の大戦役の為には特に陸軍全般に亙る記念日を定め本戦役に干与せる者は勿論後来陸軍に従事する者をして本戦役の偉績を懐想し祝意を表せしむるを最良の手段と認む是れ独り戦没者の英霊を慰藉(ゐしや)するのみならず軍隊の士気を振起し精神上多大の稗益(ひえき)を収得し猶後世に至るまで能く本戦役の洪勲を欽仰(きんかう)せしむることを得べし奉天の大会戦は今回の戦役中我軍隊の大部分之に参与し各軍に関係ある戦闘にしてその三月十日は戦況最も良好なりし日とす是れ特に同日を(えら)び陸軍全般に亙る本戦役の記念日と定めたる所以なり




    三 日露戦役の回顧

      (イ) 開戦前の情勢

 日露戦役は日本が東洋の平和と帝国の安全とを確保する為、横暴極りなき露国に対し国運を賭して戦つた乾坤(けんこん)(てき)の聖戦であつた。
 露国は遠き以前より極東侵略の野望を以て西伯利亜、満洲の方面にその魔手を伸ばしてゐたが、日清戦役の直後、独、仏両国を誘つて所謂三国干渉を行ひ、遼東半島の還附を要求して来た。
 当時清国を討つことすら既に重荷であつた帝国としてはこの強大なる三国の威嚇を受けては遂にその理不尽なる要求と雖も之を容るゝの外なく、涙をふるつて遼東還附の詔勅を拝したのであつた。
 然るに露国は、その忠言の舌の根も乾かざるに傍若無人にも自ら満洲占領に着手するに至つた。即ち、明治二十九年には露清協定を締結して東清鉄道の敷設(ふせつ)権を得、三十年には旅順、大連を租借して旅順に堅固なる要塞(えうさい)を築き、更に北清事変を好機としで満洲の軍事占領を敢行し、(やが)ては朝鮮をも併呑(へいどん)せんとする形勢を示して来た。
 帝国はこの間隠忍(いんにん)に隠忍を重ね、所謂臥薪嘗胆(ぐわしんしやうたん)の思ひを抱いて只管(ひたすら)事を平和的に解決せんことを努めたのであるが、世界に誇る強大なる武力を有する露国は頑として我が要求を容れざるのみならず、愈々その態度を露骨にし、帝国に対して屈服をすら迫つて来た。
 この儘之を放置するに於ては東洋の平和は固より帝国自体の安全をも保ち難くなるので遂に敢然として国運を賭しても戦ふに至つたのである。


     (ロ) 戦争の結果

 明治三十七年二月十日遂に対露宣戦の詔勅は渙発された。
 我が陸海軍は(しよう)天の意気を以て奮戦力闘し到る所に殊功を建てゝ大勝を博し、殊に明治三十八年二月下旬以来は約二十五万の兵力を以て、奉天附近に陣地を占領せる約三十七万の露軍を攻撃し、冱寒(ごかん)氷雪の中に力戦苦闘すること十余日、遂に頑強なる敵軍を撃破して大(せふ)を博し之を遠く北方に退けて三月十日には全く奉天を占領した。その結果は露軍の死命を制して戦争を終局に導き、且帝国の威武(ゐぶ)を中外に発揚したのである。 即ち奉天戦は日露両軍の主力が最後の勝敗を決した代表的一大会戦で、正に日露戦争の関ヶ原とも称すべきものであつた。戦後この三月十日を以て陸軍記念日と定められたのも亦(むべ)なりといふべきである。
 尚皇国の興廃を(にな)ふ国軍の決意と共に国民の熱誠亦その極度に達し、この大業遂行の為真に挙国一致の至を発揮した。
 斯くして帝国の威武は世界に輝き、日本は一躍世界の五大強国の一に列するに至つたのである。(まこと)に日露戦役は東洋の一小国たりし日本が国運を賭して正義の為に奮起し、世界の最大強国を撃ちのめしたのであるからその反映も亦絶大で、少年日本は一躍青年大日本に更生し世界驚異の的となつたのである。
 今日帝国が世界の軸心(ぢくしん)に立ち隆々として国威は輝き国運の伸展しつゝあるのは固より萬邦無比なる國體の精華と御稜威とによるものであるが、その間に於てこの日露戦役が如何に重大なる役割を演じ又偉大なる効果を齎らしたるものなるかをおもはざるを得ないのである。


      (ハ) 当時の苦衷と朝野悲壮の決意

 当時露国といへば我に対し面積に於て五十倍、人口に於て三倍、兵力は五倍を有し、世界最強の陸軍国として我国とは余り桁が違つてゐた。されば我国朝野を挙げて如何に悲壮なる覚悟に燃えてゐたかは今思ふだに涙ぐましきものがある。
 当初思ひ切って日露開戦を決し兼ねてゐた我が政府は前後十六回に亙つて露国政府に対し平和的交渉を続けてゐたが、何等の効果なく、国内の輿論は漸次沸騰(ふつとう)し、明治三十六年十二月開会の帝国議会に於ては、衆議院は時の軟弱なる政府弾劾の奉答文案を満場一致議決した。
 一方主戦論の急先鋒であつた帝大教授戸水寛人、寺尾享、宮井政章、小野塚喜平次、金井延、高橋作衛、中村進午等の所謂七博士と称せらるゝ人々は交々街頭に立ち、「開戦一日も忽にすべからず、遂に露国の不信と横暴とを膺懲(ようちよう)すべし」と絶叫して大いに国論を喚起した。
 二月四日、愈々日露開戦の廟議が決定されたのであるが、最初は非戦論者であつた時の枢密院議長伊藤博文公が桂首相に向ひ、「果して勝味があるか」と問うたのに対し、桂首相の答へは「勝味は無い、唯大和魂で戦ふだけだ」といふのであつた。されば公は会議終了後左の如く悲壮なる決意を漏らした。
 「今度の戦は実に陸海軍でも我等でも成功の見込はついてゐない。併し日露の形勢真にやむことを得ず我国は国運を賭して戦を始めねばならぬ。あの強大な露西亜の大軍が朝鮮に侵入すれば、軈て朝鮮は掠奪されてしまふであらう。それで陸軍では朝鮮で之を防ぎ止める戦略でゐるけれども、之とて成功の見込十分とは申されぬ。我が海軍とても、敵海軍と雌雄を決して或は皆沈没するかも知れぬ。誰もが勝算確かなりとは云ひ得ない。
 そこで万一にも我軍が朝鮮で破れ、露軍が侵入して来たときは、及ばずながらこの博文も、昔の北條時宗の故事に倣うて自ら武器を取り、身を卒伍(そつご)の中に投じ、自分の家内も時宗の妻女に見習はして兵食の炊爨(すいさん)にあたらせ、夫婦共々に九州なり山陰道なりに出かけ残った国民と共に海岸を守り、一歩たりとも露兵を日本の土地に上らせない決心である」と。
 その夜伊藤公は、霊南坂の官舎に金子堅太郎男を呼び、急(きよ)(けん)米使節として男を派遣することゝなつたが、その時公は左の如く述べて金子男に依頼したのである。
 「いよ/\日露国交断絶の已むなきに至つた。確実な勝算はないが、露西亜の圧迫に対して事こゝに至つては国運を賭して戦ふより他に道はない。君は幸ひ大統領ルーズベルトとはかねて懇意の仲だから直ぐ米国に渡つて大統領に我国の立場をよろしく通じて貰ひ度い。そして戦争中同国に滞在して、日本に対する米国の輿論を大いに有利に導いて貰ひ度い」と。
 金子男はそれより寺内陸相、山本海相を訪ねたが、その時海相は「先づ日本の軍艦は半分沈没させる覚悟だ、それでも勝利を得ねばならんと良策を案じてゐる所だ」といつた。次いで参謀本部は児玉次長を訪ふと、次長は「まあ今の所は彼我五分五分だから、私は之を四分六介にしようと、今日まで三十日余り参謀本部に軍服のまゝ赤毛布を被つて起居し乍ら苦心してゐる。君は渡米後五度は勝報、五度は敗報を受け取る覚悟でゐて貰ひ度い。若し折角苦心した通りに甘く行けば、勝敗の電報は六と四との割合にならう」と語ったとのことである。
 二月十四日早朝、金子男の葉山別邸へ、折柄同地御用邸御滞在中の 皇后陛下(後の昭憲皇太后)が御微行で突如行啓遊ばされ、「今朝突然参つて実に気の毒であつたが、実は昨夜香川(皇后官太夫)が東京から帰つて来て、金子が近々米国へ行くことを聞いた。今度の場合必ず重大なる要務を帯びて行くことゝ推察する。どうか十分身体を大切にして御国の為に尽力する様に」との御意味の優渥なる御沙汰を賜り、(あまつさ)へ家族のものにまで夫々の御下賜品があつたとのことである。当時に於ける 陛下の御心中を拝察するだに恐懼(きようく)の極みである。 以上は国内朝野を挙げての悲壮なる決意の一端を述べたものであるが、国内全般には「臥薪嘗胆ああ十年」の軍歌にもある如く真に挙国一致必死奮戦の意気は炎の如く燃え悲壮熱烈の極点に達してゐたのである。


     (ニ) 出征将士の意気

  天に代りて不義を撃つ
  忠勇無双の我が兵は
  歓呼の声に送られて
  今ぞ出で立つ父母の国
  勝たずば生きて帰らじと
  誓ふ心の勇しさ

 勇壮なる軍歌と歎呼の声に送られて、動員部隊は続々として勇躍征途についたが、その先頭第一陣を承つた黒木第一軍司令官は、明治三十七年三月、広島に於て進発に先だち左の如く壮烈なる訓示を下した。

 「(前略)今や諸子は為驍ニ共に帝国陸軍の先頭たり、夫れ先頭の任たる極めて重く全軍の志気実に之に(かか)る、曰く剛毅(がうき)、曰く果敢(くわかん)、曰く沈著、曰く忍耐、凡そ平素涵養蘊蓄(かんやううんちく)せし所を発揮して勇往(ゆうわう)直前するを期せざるべからず。(中略)
 夫れ大和民族の兵進んでスラブ種族と戦ふこれ空前の壮挙にして曠古の盛事なり、世界各国皆耳を(そばだ)てゝ視聴す、一挙一動苟くもすべからず(後略)」

 遼陽の激戦に某後備歩兵聯隊の命令中には左の如き悲壮な文句も発見せられた。

 「第一代ノ聯隊長ハ戦死シ、第二代ノ聯隊長ハ負傷シ、第三代ノ聯隊長亦戦死セリ、聯隊ハ三聯隊長ノ為ニ弔ヒ合戦ヲ決行セントス、仍チ聯隊ハ何時何分某地附近ニ在ル軍旗ノ下ニ集合スベシ」

 当時歩兵第三十大聯隊小隊長堀江小内蔵(後の)大尉の袂別の遺書の一節は左の如く当年将兵の意気躍如たるものがある。

「小弟明二十八日午前十時を期し二龍山(にりゆうざん)軽砲線の爆破と共に聯隊の撰抜兵九十名の特別中隊を提げ砲台に飛込可申候成否生死天に在り候唯 陛下の特に賜ひたる詔勅に対し国民半歳の熱望に対しあらん限りの精神と体力とを(つく)して突入可仕候(たふ)るれば起ち傷けば奮ひ飽く迄目的を貫徹せんことを期し申侯あすは二龍山頭白雪の上に大和武士の花と散らんとす人生観じ来れば夢の如し…」

 この種不撓不屈(ふたうふくつ)(たふ)れて後已むの精神と意気とは全軍将兵の中に(みなぎ)り、到る所に皇軍の精華を発揮して、克く兵力の劣勢を補ひ、装備の不良を償ひ以て連戦連勝の栄誉を獲得せしめたのであつた。
 この皇軍将兵の燃ゆるが如き献身の意気に伴ひ、民間志士亦奮起して、横川、沖等の如き活躍を為すものあり、又銃後に於ては「一太郎やーい」の母を生み、上下貴賤を問はず真に挙国一致の熱誠を披瀝(ひれき)し、或は秘蔵の金銀家宝、(くし)(かうがひ)に至るまで之を金に替へて国債の応募や軍資の献納に出で、或は無為を戒めて生産に努めたので産業は勃興し、異常なる緊張裡に第一線将兵を鼓舞激励(こぶげきれい)するに絶大なる力を発揮したのである。


   四 現時の情勢と記念日の覚悟

 日露戦役に於て我軍の失つた人命は実に八万四千五百の多きに達してゐる。この尊き血によりて染められた満洲は漸く露国より奪ひ返され、この霊地には今や満洲国が誕生し、日夜その建設に精進してゐるが、之が度立を保全しその健全なる発達を促し、以て東亜永遠の平和の礎石たらしめるには、更に我国の努力に俟つもの多大である。 然るに今や極東の情勢はこの満洲竝に帝国を囲繞(ゐねう)して暗雲の渦巻けるが如く、正に一触即発の危機にすら立てるやの感がある。 又満洲を包囲する蘇軍の兵力は日を追ふに従つて増強せられ、殊にその精鋭なる科学的威力は天下無敵たるの勢を示して我を脅威しりゝある。 彼が国境に於て頻々として傍若(ばうじやく)無人なる不法行為に出づるも、或は匪賊を操縦(さうじゆう)して満洲国攪乱の手を(ゆる)めざるも、或は蒙古支那の方南より大規模の思想政略的進撃を敢行せるも皆是れその軍備に絶大なる自信を有するが為である。
 この蘇聯邦の東方経略の態度はその形こそ異れ、日露戦前に於けるものと全く相異らざるものがあり、之に対する帝国の立場は又真に当年を髣髴(はうふつ)たらしめるものがある。 今茲に第三十二回陸軍記念日を迎ふるに当り特にその感を深くすると共に、この時局に対し愈々挙国奮起の必要を痛感するものである。