第一八号(昭一二・二・一七)
 文化勲章の制定                   賞 勲 局
 ブラジル移民に就て                 拓務省拓務局
 ヒトラー総統の議会演説に対する反響 外務省情報部
 最近公布の法令                   内閣官房総務課

ブラジル移民に就て 拓務省拓務局

   一  はしがき

 現在海外に在住する邦人は約八十万人に及び、地域的には満洲、支那、南洋及南北アメリカ等に拡
つてゐるのであるが、我国従来の海外移植民仲、ブラジル移民は短期間に顕著な発展を遂げ、且極め
て整備した組織統制の下に行はれてゐる点で特異の地位を占めてゐる。最近経済使節の交換、通商貿
易の飛躍的増進等に依り、ブラジル国及日伯経済関係の重要性といふものが漸く一般の注意を惹いて
来たのであるが、之等の結果への到達に対しては二十万に達する在伯邦人の存在が重要な役割を務め
て居り、日伯関係を語らんとすれば差当り移植民関係を措いては為し得ない。「ブラジル移民」といふ
言葉は比較的親しみのある響を持つてはゐるが、地理的関係よりブラジル移民の実際に就て知つてゐ
るものは比較的少い現状に鑑み、茲に其の現状を概説して見たいと思ふ。

    二  ブラジル移民の沿革

 ブラジル移民の歴史は、明治四十一年皇國殖民会社が送り出した七百九十余名の珈琲園行の契約移

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民に始まる。我国は眈満明治元年布嘘ほ甘薦園行の移民官五十名を迭つてはゐるが、固民の間に潅外
移佳の横運が漸く萌し始めたのは、明治の中菜特に日捕戦率以後のことである。常時の移民の移佳先
は主として布味及北米合衆岡であつたが、之等の移民は奥約移民禁止、排日逃動に囚り打警受け、
同民は飴儀なく別に進路を南米大陸に求めることゝなり、其の粁果ブラジルへは明治凹十一年初めて
移民の渡航を見たのである。
ブラジル移民は布唾移民等より造に後れ、又ブラジルと同じん旧米大陸のぺルーへは、眈に之に先だ
つこと十年、帥ち明治三十一年に最初の移民が渡つてゐるから、ブラジル移民の歴史は此較的新しい
と謂はなければならないのであるが、▲布畦移民、北米移民が土地の朗有又は租倍の禁止、帝民樺賦輿
の制隈、更に大正十三年の日本移民入同禁止等に遭つて、其の前姪を仝く阻まれたのに反し、ブラジ
ル移民は、ブラジルの自然的、敢曾的乃至は経涛的の渚條件に窓空れ、概ね順調な座過を辿り、殊に
大正十年以後、ブラジル移植民事菜に封する政府の積極的助成が始められるや、一段と移民救を堵
加し、之に伴ひ民間の曾敢個人の拓殖事発に投資する者も漸次現れ、監に昭和二年には海外移使組各
港が制定ゼられ、従前の畢なる歩働移民と兵り、最初より土地を購入して自作農を沓む朗の、所謂企
菜移民が迭られることになり、伯固移鵜民事菜は滋に劃期的な前進を遂げることになつたのである。
在伯同胸の敷は現在約二十粛に遽し、倣界各固に於ける在留邦人数に於て、北米、布畦を凌ぎ、満
洲圃に次いで欝二位を占めるに至つた。
三移住地としてのブラジル
ブラジル固はこ普UO年アル〆レス・カブラルに依つて蜃見せられポルトガルの虜領となつたが、
一入ニニ年狗立して王固となり、一八八九年以衆聯邦共和制を布いた0東竺九三〇年の朗謂十月革
命の結果ゼツ,オ・ヴアルガスが臨時大統領となり、恵法一部の運用を停止して狗裁を績けたが、恵
法政治復蹄を要望する民論に従ひ、完三四年七月新寒法を制定発布し、領いて行はれた大統領邁拳
にヴアルガスが骨遽し現在に及んでゐる0新実法も嘗窓法と同成、聯邦制、弗和制及代靖制を探用
し、民主主義を基調としてゐる1とに依然鍵りはないが、唯仝般に亙り、中央集権的色彩を浪厚にし
て水たのが日を惹く。
ブラ汐ル固は南頓八官五十飴粛平方粁、郎ち我固本土の約二十二倍、温背から熱苛に跨る廣域で、
人口は四千七官常、密度にし三平方粁曹り五人に過ぎデ、我が内地の人口密度の三十五分の一に曹
つてゐる。固土の大部分は曾て斧錦を入れ瓜原始林を以て覆はれ、開拓されてゐるのはサンメクX州
を中心とする南部ブラジルの極小部介ほ過ぎない・
其の塵菜の首健を占めるものが糞で甚ることは言ふ迄もない。中部以南の大高地も、北部のア†
ゾ;大平原も、各種有用聴物の成育に邁するのであるが、劫坪は特に世に知られ、世界各産額の七
朝を尭出する。其の他では、棉、米、玉萄黍、;デヲカ(薯の一種)、砂糖、豆、痩草、茶、果樹等が農

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塵物の主要なものである。塵発に次いでは枚寄菜、林業等があり、領栄も輝粛有繋と見られてゐ告
位置から言ふとブラジル圃は大部介熱神又は鵡熱苛に属するのであるが、潮流、貿易風、陣雨等の
開係で邦人にも榛めて凌ぎ易く、殊に本邦移民の大多敷が在佳するサソバクэBの如きは、最高気狙
三十一度、最低九皮、卒均二十→庶であるから、頗る快適温喋である。尋蛇猛獣と特に稀する我のも
のも居らデ、初期の我が移民を昔しめた風土病も、今日では生活に何等脅成を輿へるものでない。
其の人稽を構成してゐるのは、主としてポルトガル系であるが、之に先佳艮クアラIT族、rフタカ黒
人、移民と⊥て渡水したスぺイソ人、伊太利人、狗逸人等の血が加はり、更に之等各人種の血が種々鹿多
に混合し、複鶴多岐な人種型を作つてゐる。従つて人種的偏見が樋めて稀薄なのも此の園の特徴である。
四ブラジル移民の種類
ブラジル移民は取故上之を大別して、伽堺園行の移民、海外移住組合の移任地に入る自作農夢艮、
拓殖曾敢の碑民地に入る自作農移民の三種とアることが出凍る。絶て農菜移民である。伽研蹄行移民
は伽堺周の被傭券働者として行くものであつて資金無しの朗謂裸一貫でゾ軋行ける朗に其の特色が
ぁり、後のこ者は内地から相常の費金を携へて行き、ブラジルで士地を男入れ、最初から自作革こな
る朗の、企業移民とでも稗すべきものである。
…伽排園行移民
昭和四年海外移佳組合聯合曾が自作兵迭出を開飴する迄は、ブラジル移民の殆ど線てが此の種の移
民で巻つたが、淀時土地に定著し経済的基礎の筆固なる移民を迭出するの要が論ぜられるに伴ひ、自
作兵移民の重要性が怒められ、陳つて其の赦も漸次檜加して凍陀とはいへ、今何其の大多救を占めて
ゐるものは依怨伽堺園行移民である。
伽堺は同開尭業の大宗で、サソバク甘州に在る約凹甫の伽堺固に頼付けられた十教億本の伽堺樹の
栽培ほ昇カを供給するのが、此の伽堺観移民である。伽堺観移民は、移民取政人との券働奥約に依
つて渡航し、就働するものであるから朗謂奥約移民に属するものであり、現在は港外典業株式合最の
一手救となつてゐる。港外輿業株式合敢は移民傑護法朗定の移民取故人で甚つて、ブラジルに於ける
伽堺固券カの需要に従ひ、内地より移普募集し、其の渡航を幹旋し、各伽堺固よりの申込に野して
移民を割曹て、伽堺固主との同に奥約を結ばせる、それで曾敢は法律上自己の取故つた移民に封し、
十年間疾病其の他珂難の替曾に於て、之を救助し君くは蹄拘せしめる義務を負槍してゐる0
移艮は伽堺歯に入ると耕主の輿へる任宅に佳み、貸銀を得て除革及耗箕に従事するが、賃銀は受持
劫堺宴に従つて決められる。一人の受持樹敷は、熟練の程度に俵りて兵り、最初の内は千五官本乃
室二千本位である。勿論右の貸銀が移民の主要牧入で甚るが、温常奥約條件として受持軸堺樹の開に
は間作が許され、別にこ一町歩の畑が無地代で偉りられるから、移民は米、玉葡黍等を栽堵し、又任
宅か附蓑、考豚、果樹野菜の栽港等に利用し、自家用の食料ほ供アる手とが出凍る0其の他接

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時牧入として、飴暇を利用しての日僻貸銀がある。
伽排固ほ於ける敷年の努カに依り、相常の廃凝と貯曹が出衆ると、借地農、諦負農或は狗立袋とな
るのが普通のコースで為る、嘗三介の券働移民として伽桝鞠に入り、今日赦十町歩乃至教官町歩の
地主として堅実な地位を築a上げた、所網1戌功者」がサソバク蒜の各地に散見される。ブラジル為
発移民として成功するほは、豪族に弊働能力者の多いことが;の要索となつてゐるが、此の如堺淘
移民に於ては特に然りである。
凹海外移任組合の移民
前述の壇り、伽排固移民が一般に費本を持た瓜農園弊働者であるのに封し、此の海外移佳組合の移
民と云ふのは内地から相骨の餐金を携へて行き、直ちに自作農と孝る移民で革る。梅外移佳組合法が
制定ゼられたのは昭和二年で空ノてそれ迄はブラジル移民は殆ど伽堺淘行の奥約移民のみに限られ
てゐたが、伽堺陶移民は攣草る迄棚骨の年月を要し、其の数養も一般に低いので、最初から相常の
資金を持あし狗立壊菜者となる朗の此絞的数養の高い盤民を迭少、よβ堅箕な野外凝展の箸鼻げょ
ぅといふのが、此の海外移佳組合法制定の趣旨である0
海外移佳組合法に依ると、梅外移伎組合の日的は、碧貞叉は組合貞と同一の豪に在る者の海外移
佳を助成アるに在る。組合は一の法人で普ノ、組織は有限費任で、壷域(現在は遭府糠を這域と
する)に就三個を限り設音許される0梅外移任組合の組繊は尭発組合のそれと大著く、特に必
要なる條項以外は窪菜組合法の規定が準用ゼられてゐる。
梅外移任組合は現在仝固殆ど紙ての府糠に設立ゼられて居り、各組合は仝固的に結合して更に海外
移任組合聯合合を組織し、聯合曾が移民の糞迭出等の固内事務を統挿してゐるが、ブラジルには其
の代行槻朗として、ブラ汐ル固法に蟻る有限責任ブラジル拓殖組合を設け、移住地座沓の箕際事務に
曹らしめてゐる。
梅外移住組合聯合曾の事発は現在の朗、ブラジルに於けるものが主要なものであるが、聯合合はブ.
ラジルに於て土地を僻入し、之に土地笛割、道路の集造、市術地富劃をなし、数育、析生、産兼に粥
する萬般の施設を附した上、組合貝たる移民に分譲するのである0聯合曾が現在ブラジルに於て取得
してゐる土地の瀾南積は約二十三常町歩で、之を四つの移任地として廃沓してゐる0サソバ’ワ州の
〆ヌトス、チエチ、ア,アソサの三移任地、バラナ州のトレスでフヌ移任地が之である。移民は一家
務二十五町歩見骨で土地介譲を受け自作盤となるのであるが、其の資格條件として、府蠣の移佳組合
に加入すること、移住地入頼後の開拓費用、生活費に充てる希に相曹の準備金(八首潮程度)を用意す
ることが必要である。土地代金は毎年の盤栄牧名より十箇年賦で支梯ふ仕組である。
海外移佳組合の移任地廠沓皐栄は開始以凍堅実に戟展して衆たが、現在移住組各に加入ゼる者一宵
二官を赦へ、共の中移民として渡航し移任地に入植したものが入首家族、五千人を超えてゐる0内池
ょり旬移民の外、眈にブーフジルに在る邦人で狗立農たらんとする者ほも土地を分渡してゐるが、其の

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救千三官家旗、八千人に壇してゐる。
移任地に於ける主作物は伽排、米、棉、玉濁黍、豆、溌菜、壇草、ノナナ、オyソデ、バイソア’
デγ等で、副発としては、豚、鶴、馬、牛等の飼育が為る。又最近は董菜も相常盛になつて衆た。
近雑特に柵の好況に凶り移伎地は蹴る活束を鼻し、入植者の一致結兎の下に行はれてゐる農業持抑窪
動と相倹つて、移位地報展の柵雑は貸に利日すべきものがある。
桝拓轡曾敢の桝民地に入る移民
南米拓殖株式曾敢及ア†ゾエヤ轟菜株式曾敢の植民地に入る移民も前述の移住組合の移民と同残土
地分譲を受け白作放となる。
南米拓殖株式合敢は北部のバラー州に約官常町歩の地樺を桂禅し、其の中約六十常町歩のアカラ鵜
民地ほ内地盤民を入鵜ぜしめ土地介譲をなしてゐる。入鵜者は約官三十家族一千人、作物の主なるも
.のは米、カカオ、棉花等で為る。
ア†ゾIlヤ売米株式曾敢は同じく北部のア†ゾナス州に移住地を鹿沓し、約四官人を内地より入聴
せしめてゐる。主作物は米、ヤソデヲカ、護譲、甘藤等である。
五ブラジル移民の保護奨励に開する政府の施設
…我囲の海外移植民思想は明治以鹿薗民の岡に漸次普及凝壇し基たが、それは決しで癌足すべ・
き宥度には壌してゐない。殊に固内の人口資源の不均衡状態に照し、圃民の海外進出は現下の緊要事で
甚るので、政府は各種の宣壊牌及方法を以て、移植民思想の鼓吹、移植民の現況、移任地の貸備等の
紹介をなし、以て移佳の宣停輿励に努めてゐる。府蠣又は移鵜氏後授糊餞其の他に於て主催する詩演曾、
碍習曾に鞘師を派池し、或は自ら帝演骨を開催し、其の他刊行物、印刷物を凝行、頒布するのである。
凹ブラジ蒜民に封しては、其の渡航を容易ならしめる承種々の鹿済的特典を輿へてゐるが、其
の主なるものは、圃内汽賽の牛額剖引、渡航舶賃の金額祁助、渡航支度金一人宛五十凧の補助等で
甚るが、其の他、移民取故人たる海外輿業株式曾敢が移民から緻アる取扱手数料を虜止ゼしめ、之に
舶野し補借を馬してゐる。
M従前ブラジ蒜民は出磯港た孟芦市に集り、所謂移民冶に冶泊し竺不常な娼泊料を歓ぜられ、
其の他移民の風紀衡生に就ても鵡憾な粘が多かつたので、之等の弊書を一挿すると共に、移民に封し移
佳に必要な数養を授ける日的を以て、昭和二年以水紳戸移佳数養朗(曹稀移民牧容朗)を設け移氏の出
帆前約一池間其の灸部を此鹿に宿泊ゼしめることになつてゐる。ブラジルの入岡法規はヒフホーム息
者たる移民の入固を許さないので、移任数養所に於ては移民の入朗瀧曹り身増瞼査を施行し、トラホー
ム患者は入朗を許さない。移民は数尊朗入朗中各種の数拳を受けると共に、種痘、チブス、コyラの漁
防注射等衛生上の虚直を施される。何トラホームに困る不合格者は、豪壷盤理萱でして紳戸に凍町而も
夢任の日的を阻まれる結兵、非惨な塊遇に沈愉する例も秒くなかつたので、其の救凍を日的として、昭

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和十年肘虚・人海外披航助成曾を紳戸絹に設立し、不合格移民は共虞に楢泊して治嫉に努め、約癒を待
つて渡航すること〜なつた。渡航助成禽は又良質低庚の渡航支度品の供給串発も併ゼ行つてゐる。
川ブラジル移民は日的地上陸迄五十日に近い長時白を轡上に迭り、且一舶の移民数が警H爺乃重
】千名にも上るのであるから、其の閃移民の鹿督指牟、保護数養が必要であると共に、船中に於て移
民に自治的糊血P練を施すことは、移任後の敢曾生活にとつても有益であるので、各舶に特に移民輸
蓬盈督を爽舶ゼしめ、共の統制の下に冶の串務を行はしめてゐる。
Mブラジル度肴後の移民の琵米棉蒋の虎には、サソ.;蒜固絶領事館に勘菜部を附置し、尊任の
披術者をして之に常らしめてゐる外、民間の産菓組合、農串協合等も政府の支按の下に活励してゐる。
M移民の巾堅的指導人物の養成を日的とする移植民畢枚は現在七八枚を教へてゐるが、特にブラ
汐ル移民を日的として宮個市に箪二拓殖訓辣朗が官設ぜられてゐる。
六ブラジルに於ける邦人の活動状況
日本は約三十年開に十敷萬の農菜移民をタヲ汐ルへ迭つたが、盤大部介は今命農菜者であつて、其の
九割五介迄は南部のサソバクX州に集中してゐる。サyメ’X州は同固二十州中最も箆発の凝建した
州で、政治上縦済上ブラジル聯邦の中梶をなし、ブラジル仝如排樹数の五十バーセソト約十五億本は
此の州で占めて居り、其の内邦人の朗有軸堺樹敷は約六千育本と計算されて居る。邦人鼻業者も初め
は主として此の伽堺栽堵に従事してゐたのであるが、近年伽堺不況の為、棉花の檜産が特ほ著しぐ其
の他壇草、果樹、溌兼に輯向する者が檜加したと共に、畢作の不利を魔つて多角農菜を沓むことが盛
になつて求た。一九三三年より四年に跨る一農年間の邦人農産物生産高は大憎六千三官飴萬凧と推算
ゼられ、其の内主なるものは線線の四千粛求A伽排の一千官萬凰、叔の三官常凧等である0
堆時移民の進出と共に内地資本家のブラジルに於ける各種企菜に投資する者が次第に檜加して水た
のは甚だ事ばしいことであるが、其の投資額は未だ赦千萬汲ノ過ぎデ、英固の三億礫、北米合衆固の
六億弗、彿固の一億五千常弗等とは枚ぶべくもない。
奄邦人の朗蟄地南積は南部ぞフジル(主とし妄yバク蒜)轡六十常町歩、北部ノラジル約首
溺町歩、計約官六十常飴町歩となつてゐるが、此の外ア†で−ヤ産兼株式曾敢がア†ゾナス州との慣
奥約に依り約官萌町歩の土地譲渡を受けてゐたのが、確定奥約に至ら瓜内、去る入月、聯邦上院よ増
南積渦大の故を以て不怒可の決定を受けるの悲淀に遭つたことは世人の記憶に新たな朗で孝る0
北部ぞフジルに於ける所有土地は、南米拓殖株式曾敢の土地が大部分を占め、実際利用せられてゐ
るのは其の極少部分に過ぎない、南部ブラジルの土地は、之に反して、共の殆ど仝部が実際生売に利
用ぜられて居る。主なるものとしては、海外移佳組合聯合曾のこ十三萬町歩、海外輿莱株式曾敢の七
萌町歩、南米土地株式曾敢の二萌五千町歩、東山良事株式曾敢の一常町歩等が甚り、之等の企菜矩[
の土地以外に、狗立した伽堺園移民の朗有してゐるのがこ十常町歩を超えてゐる。

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農業者の外、純発、エ菓、漁業等に従事する邦人も相普あるが、それ等も前身は線て糞移民である。
耗伯移民の資藷絶額は三桝千常制と碓計ぜられて居る0之等移民の大部分が曾て裸∵貫で渡舵した
ものであることを思ふ時、ブラジル移使の如何に有宴なるかを知るに足るであらう〇
七ブ}フジルの外園移民制限間題
初期に於けるぞフジルの鹿菜開額に主として弊カを撞供したのは、アフ,カより女舟として輸入せ
られた黒人で空ノたが、売紫弊カの紹えざる簡要は、黒人奴灘のみを以てしては到底之を充たし禅
ァ、従つ王労カの補給を外固移民に仰ぐ必要が普ノ、殊竺八八七年の奴魚解放ほ管ノ券力不足が深
刻他するに及んで、外圃移民の誘入は歴代政府の倖統政発となつた・
過章五十年間ほ同岡に入つた外同移民は線敷約凹官十酋人で、同別にして伊太利移民富十常、ポ
ルトガル移畏首二十常、宵埠牙移民六十苫、日本移居十七常、淘逸移苧六帯、;ア移民十甫等が
共の主なるもので為る。
我がブラジル移民の歴史は他固移民に此し造に新しいが、それで弘趨毒三十年同に、地理的不
利を克服して十敷常の移民を迭つたのみならデ、完三二年以蒸引横き毎年の移宴に黎ては靂他
固を凌いでゐる。例へば、完三四年度入固の移民赦調に俵ると、線教五革二首人の中1巳本移皐二
欝一千九官、ポルトガル移民六千七首、狗逸移民三千六官、ポーランド移民二千三首、其の他丁革こ
千と表はれてゐる。
此の日本移民の瀕蓮上に突然起つたのが移民制限間項である。一九三四年七月凝布ぜられたブタ
ジル新恵法は、毎年の各固移民は一律に、最並五十年間にブラジル南内に定著した曾該南人の線救の
こ分に隈られるべき旨を規定したのである。此の外園移民制限は各固移民に一律に邁用せられるもの
で、特ほ打本移民を日榛としたものではないが、日本移民に閑する論畿が制限親定の叢倉粗週に強く
輿つてカあつたことは杏めない、且移民の歴史が五十年の漸く牛ばを趨したに過ぎない上に、最近に
なつて移民を多く迭り始めた日本が最大の被審者たるは謂ふきでも無い。何が此の移民制限の具の原
因であるかは、観る人に依り異るであらうが、結局は、現今の世界的凰潮であるナyヲナタズム息想
の現れに.辟ぜられるで為らちノ。
ブラジルに日本移民排斥の論ありとするも、それは一部特殊の人に限られ、決して一般民衆の畢で
はないことを忘れてはならない。これ迄日本移民は倭雰農菓者として其の産菓界に軟迎ゼられた許り
でなく、敢倉生朽に於ても骨て排日的不快な盛窺を瀾じた解凝はないので孝る。
と萱れ移民制隈に依つて日本移民は激減の已むなきに車つた。甘本移民に封する剰骨入圃敷は一九
⊥ニ五年二千八首人、一九三六年三千川官人(十円碗以下割常外)であつた。
斯くしてブラジルの外開移民制限は実施ゼられたけれとも、それと同時にサソ・ハクэBを中心とす
る費穿カの不足が責げて凍た、其の解決の角に幾つかの珊縫的な方兼が鹿されたが線て数兵な

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く、今日では、慈法に基く新移民法秦をめぐつて、穿カの不足緩和の馬各稽各成の便法が具蟄に考へ
られてゐる0
入ブラジル移慣の牌来
ブラジルの外固移民制恨は我が移民串米ほとつて思はざる痛手であつた。然しそれは決して我がブ
ラジル移民の牌水に曙影を投ヂるものでもなければ、又それに依つて我岡の移鶴民串発金般が竃も影
轡を受けるものでも勿論耗い。而も其の後の情勢は漸次我開に有利に持じつゝあると観られ、又此の
移民制隈はブラジル移民碑発閑係者に押思反省の横合を輿へ、従水の碑米方法に布瞼討を促すの結果
をも粛らした。必ずしも移民数の大のみを染会ヂ、移民は減少するとも移民事栄の日指す譜多の数果
をより賽的に収めること、移鵜民と炎に拓殖事発の振輿を促すこと、最近喧しくなつて衆た日伯猛
商貿易に於ける移民の役剖を丈に効果的ならしめること、ニ十常を算アる在伯同胞の文枇的耗済的生
活の向上充実を固ること等が今後の我がブラジル移民事米の指針でなければなら瓜。
要するにブラジルが無隈の沃野と、撫苑減に近い餐源とを包減する農業闘であり、日本が淵遊的近
代工菓固であることに思を致すならば、南圃紬済閥係の雅凍は極めて約来ゼられたものなるを知るで
あl音ノ。而して在伯同胞二十酋の存在は、沌務に蹄又企米の湛出に、日伯耗済提携の増繰となり、之
を維持凝展ゼしめる要因として無親するを符ないものであらちノ。